形から抜け出す パート二(二〇一二年十月二日 ひとしずく九五三)

神がもっとも私たちに望まれていることとは何でしょう?

それは、「神を愛し、隣人を愛する」ことです。

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を 愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これ らの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。(マタイ二二章三七~四〇節)

 ある形式を重んじる教会のクリスチャンが、他のクリスチャングループのことを、「彼らは愛を強調し過ぎている」と言っていたのを聞きました。 恐らく、愛ばかりでなく、律法を守ることや形式も大切にしなくてはいけないということを言いたいのだと思いますが、愛を強調し過ぎるのに悪いということは、決してないと思います。第一、愛である神を、心から愛するクリスチャンが、愛以外に強調するものなど、あるでしょうか?

私たちの神は愛です。そして唯一の戒めも愛なのです。

したがって、愛を強調し過ぎるクリスチャンこそ、神の御旨に生きる真のクリスチャンと言えるのではないかと思うのです。

愛さない者は、神を知らない。神は愛である。   (第一ヨハネ四章八節)

わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

(ヨハネ一三章三四節) 

ところで、天地という目に見える形を造られた神様は、それらの形の存在以前から、存在していたことが、聖書の何か所もの記述からわかります。

「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。 天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。」                        (ヨハネ一七章二四節)

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

  (エペソ一章三~五節)

キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に 至って、あなたがたのために現れたのである。

(第一ペテロ一章二〇節)

私たちは、その神様が造られた天地という形あるものを感謝し愛していますが、それ以上に、それらを造られた天地創造の主を愛するのです。そして、その主を愛し礼拝するのに、私たちは、場所や建物、また日にちや時といった「形」にも制限されなくても良いので す。

この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。               (使徒一七章二四節)

イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。        (ヨハネ四章二一~二三節)

キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。              (ガラテヤ五章六節)

神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。                       (ピリピ三章三節)

 どこの教派のどの教会堂でどんな儀式に与ったかといった現代の「割礼」とも言える「形」にこだわるのではなく、愛と御霊による真の礼拝こそ、大切なことであるのではないでしょうか? 確かに、「形」や「形式」は大切なことを教えてくれます。私たちをイエス・キリストに導く養育掛りですから。しかし、いつまでもその形に拘るべきではなく、その形によって成長したなら、そこから抜け出す必要があるのだと思います。 ちょうど堅い殻が甲殻類の昆虫にとっては、防御であり、成長にとっては一時期の助けになっても、脱皮をして、その殻から抜け出るということをしないなら、その堅い殻の中で死んでしまうと同じように、私たちもいつまでも形に拘っているなら、真理という命を失ってしまうことでしょう。

主は私たちを真理によって自由にして下さいました。その自由をもって、形から抜け出し、愛 である神に近づき、神を愛し、神の御旨を行っていこうではありませんか?

だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。                           (ヨハネの福音書八章三六節)

真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。

(ヨハネの福音書八章三二節)

 ここで付け加えておきたいことがあります。神が下さる自由を得たと言っても、それを自分の肉欲を満たすためのものではないと記されています。

兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。

(ガラテヤ五章十三節)