弱さの内に発揮される神の力 二〇一四年 ひとしずく一六三三

 よく私たちは、この状況さえ解決されたら、この意地悪な人さえいなければ、これさえあれば、またはこれさえなければ と考えます。人間誰でも、何らかの問題を抱えていると思います。

使徒パウロも、目に問題を抱えていたようです。パウロは多くの書簡を残していることから、かなりの書き物をしていたと思われ、目を患っていたなら、さぞ、不便だったでしょうし、痛みにも苦しんだことでしょう。彼は、その問題を取り去ってくれるように、神に三度、祈りました。それは神の御仕事を行うためでもありました。パウロはこう思ったことでしょう。この目の問題さえ無ければ、どれだけもっと神様の仕事を推し進めることができるだろうかと。

しかし、神様の御心はパウロの願いとは異なり、パウロの目は癒されることはありませんでした。神はあれだけ多くの人々を癒されたので、パウロの目も簡単に癒すことができたはずです。しかし、そうはされなかったのです。それはパウロの思いを遥かに超えた神様の御計画であり、神様の力と恵みが最高の方法で現されるためでした。

 目の不自由さという刺は、彼が神様の恵みと愛の内に留まる事ができるように、奢り高ぶりから守られ、謙遜の内に歩み続ける事ができるように与えられたものでした。彼には素晴らしい神からの啓示や神の知恵が与えられていたので、思い上がらないようにと、パウロに対するサタンの攻撃を神様は許されたのです。

私たちも、これはサタンからの攻撃だと思えるような時、確かにそれはそのとおりであるかもしれません。しかし、そうだとしても、それを神様は私たちの益のために、あえて許されているのであり、主の恵みは十分なのです。どうか、そのことを忘れずに、どんなに辛い試みの中でも、主イエスの恵みにあって、強くあることができますように。

・・・あの啓示されたことは途方もなく素晴らしいものです。それで、思い上がらないように、わたしの体には一つの刺が与えられました。それは、思い上がらないようにと、わたしを打ちのめすために送られたサタンの回し者なのです。この回し者について、立ち去らせてくださるように、三度わたしは主にお願いしました。 しかし、主は、「お前はわたしの恵みで十分だ。弱さにおいてこそ、力は余すことなく発揮されるのだ」とお答えになりました。ですから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで,わたしは自分の弱さを誇ることにします。それ故、弱さがあっても、虐待されても、災難に遭っても、迫害や行き詰まりに出会っても、わたしはキリストのためならそれでよいと思っています。わたしは、弱っている時こそ、強いからです。 

(第二コリント人への手紙十二章七~十節 フランシスコ訳)