私のサンドペーパー (TFI・アクティベートより-ひとしずく956に引用)

 <あなたが今、人間関係の摩擦で、傷つき、辛い思いをしている人がいるなら、神様がその傷を優しく癒してくださいますように。そして、このお話が、あなたの慰めと励まし、心の糧となりますように。>

その人がいるだけでイライラする。その人が口を開くだけで、即、むかついてくる。そして何か言おうものなら、もう我慢できない。他の人が言ったら気にならないことも、その人が言うと、自分のクリスチャンとしての徳など、一瞬にして吹き飛ぶかのよう。平静さなど跡形もなくなる。

 あなたも自分に正直になってみて下さい。あなたの人生にもそんな人が少なくとも一人はいるのでは?あるいは、いたことがあるのでは?それは近所の人かもしれないし、上司、同僚、または姑、またはもっと近い存在かもしれません。

 私にもそんな人がいることを認めるのは、悔しいし、悲しい。理想主義者の私にとって、全人類と平和に暮らすことだけが望みなのに。

 どうしてこれがそんなに大それたことになるのか。その人と折り合いが悪いのは宿命なのか。はたまた、自分の内面についてより深く学ばせてくれる試練なのだろうか。

  とにかく、「一体この摩擦は何なの?」と自問してみると、この「摩擦」こそ、自分に必要なものであることに気がついた。この人は自分にとって「サンドペーパー」のようなものなのだ。その人が「摩擦」をくれるおかげで、私自身の弱点や忍耐のなさ、冷たい側面や利己心が見えてくる。その人は私の悪い所にしっかりやすりをかけるので、やがてはそこに輝きも出てくる。

 その人自身には、やすりをかける必要がないというわけではないが、このサンドペーパーは、私がありのままの自分を深く認識するために送られたのだと確信している。サンドペーパーのおかげで、私の弱点は明確になり、そこをむしろ強みに変えるチャンスが与えられている。

  だから、もう私はサンドペーパーを目の敵(かたき)にはしない。自分の状態や弱みを知るためのモニターか計りだと思っている。それにたとえその人が自分の人生とかかわりがなくなっても、私に愛することを教えるために、神がまた別のサンドペーパーを送ることはかなりあり得ることだ。大体、それが必要ない人なんているだろうか。

  私はよく、サンドペーパーは歯医者さんのようなものと考えていた。その苦痛は絶対に避けたかったのだ。が、今の自分は、やすりをかけられ、研磨されるのを喜ぶ。サンドペーパーのおかげで、イエス様に近くなれるし、私がぴかぴかに磨かれて、イエス様の愛でいっぱいになるのだから。(クリッシー・ ギャンブリル)

見よ、わたしはあなたを練った。しかし銀のようにではなくて、 苦しみの炉をもってあなたを試みた。

(イザヤ書 四八章十節)