考えてみると、私たちは皆、こうした奇跡、普通の人の目には奇跡には見えないけれど、天地の創造者である方のなされる奇跡の中に生かされていると思うのです。

結果的には供給されて、結果的に素晴らしい業がなされたというのは、初めから神様がそれを御計画して、神様が一人ひとりに働きかけ、その思いを起させ導いているということではないかということです。確かにそれには神の言葉に従うという行いが伴わなければ成されないのですが、たとえばここではマリヤが僕たちにイエス様の言われることに従うように指示し、その僕たちはイエス様が言われた通り、水をかめいっぱいに満たし運びました。その結果、婚礼に来た人たちに上等のぶどう酒が供給されるということになりました。

神様はなさろうとしておられることに対して、まず私たちの心にその重荷やひらめきを与えられます。私たちはそれを自分の思いつきだと思っているかもしれません。そしてそのために祈り、語られた主の言葉に従い行動を起こします。

たとえば、この部屋に今毛布の袋が幾つかあります。これは被災者の方々を訪問する際に、被災者の方のために何箱も寄付してくださった方がいました。そして多くの方に毛布を配ることができました。これは、たまたま、私たちの呼びかけに答えてくれた社長さんがいた、運がよかったというようなことではなく、その背後で神様が働いてくださっていたということだと思います。

イエス様が水をぶどう酒に変える時にも、いたるところで神の力が働いていたと思います。まず、その日に婚礼が行われたこと、その婚礼にマリヤ、そしてイエス様と共に弟子たちが出席したこと、そこでぶどう酒が足りなくなるという状況になったこと、そしてそれを何とかしなければと思うマリヤの思い、そしてイエス様の指示に従って僕達が水を汲んだこと、これらのすべての背後に神の力、神の導きが働いて、上等なぶどう酒の供給がなされたわけです。そして、それによって、イエス様がメシアであることが示され、神の栄光があらわされました。

そのように考えると、私たちの周りにはたくさんの奇跡があると思います。

空の鳥も野の花も、その神の奇跡によって養われています。そして、昨年の夏のリトリートの時のことを思い出すのですが、Oさんは山菜のミズを採りに山に行ってくれましたね。ミズの炒め物、おいしくて皆喜んでいましたよね。毎晩、裏庭に熊が出てきている状況の中で、山に入り、ミズをたくさん採ってきてくれました。そこでたくさんのミズが見つけられたこと、熊から守られたことなど、神様の祝福を感じますが、何よりまず、神からの霊感がないなら、Oさんがミズを山に採りに行こうという思いも生まれてこないだろうし、力も出てこないと思います。聖書にはこうあります。

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。

(ピリピ2章13節)

Oさんの思いに、神はそういう重荷やアイデアを与えられて、安全に山でたくさんのミズを採ることができるようにしてくださった。そしてそれは遠くからこの地に来てくれた皆さんに喜びを与え、神の愛と祝福を感じるに至ったのです。

それは天からドサッとミズが奇跡的に降って来るといったような奇跡ではないですが、それと同じほど、心が満たされる結果となりました。

目を見張るような奇跡ではないけれど、それをしてくれた兄弟姉妹の愛を感じる。神様の愛と祝福も感じる。結局はそれが一番尊いことだと思います。実際それは神様が働いてくださったことであり、神の祝福なのです。

神様の奇跡というのは、そういうふうに目を開くなら、私たちの周りでいくらでも気づけると思います。

神は肉体を取られて地上の私たちのところに来てくださいました。神はそのように、私たちの現実的な問題に対して、今も関わってくださる神です。聖書に「イエス・キリストは昨日もきょうもいつまでも変わることはない」とありますが、かつて世にこられた恵とまことに満ちた偉大なる神、そのイエス様が、今も私たちと一緒にいてくださっている、ということです。

(クラス参加者のコメント: 今のお話を聞いて、神の奇跡は愛の御霊に導かれて起こるということに気づかされました。…多くのことが、神様が私たちの心に働きかけてくださって、愛の御霊によってやる気とかこれをしようとか、その愛の心を与えてくださって、その導きに従うと、奇跡が起るのかなと思いました。山菜を採って来た時のこともそうですし、この村で起こったいろいろなこと、振り返ると愛の御霊に導かれた時にいろんな奇跡が起こったんだろうなーって思いました。)

そうですよね。愛こそが一番の奇跡ではないかと思います。愛は神の証明ですよね。驚くような奇跡的なことは悪魔でもします。

その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 (マタイ 7:22-23)

でも、第一コリントの13章に、「山を移すほどの信仰があっても愛がなければ無に等しい」とありますね。つまりそんな驚かされるような奇跡は愛が無くても成されるのです。でも、それは神の目からしたら無に等しいわけです。どんな素晴らしく見えることも愛がなければ一切は無です。

愛こそが一番大切で、愛こそが一番の奇跡なのです。なぜなら愛は神、神は愛だからです。

いろいろな欠乏や問題をかかえる事態があっても、神は科学的に説明できないような奇跡を行って助けてくださることもあるでしょう。あるいは人や状況を使って助けてくれるかもしれません。いずれにしても、その人にとって、神の愛が一番感じられる方法で、神が介入して下さることと思います。

時には私たちの期待した通りにはいかないかもしれません。私たちの見ている見方で神は状況を見ておられないからです。神は私たちよりももっと広い視野で、神様の素晴らしいみわざが行われる舞台を用意されているのです。