共同の祈り(Corporate Prayer):地上で二人が心を合わせるならば
ロバート・D・ルギンビル博士著 からの翻訳
「地上で二人が心を合わせるならば」(マタイ18章19節)
質問:
こんにちは、Bob先生。
マタイ18章19節が正確には何を意味しているのか、説明していただけますか。「ふたりが心を合わせる」ときに祈りが答えられるとはどういう意味なのかについて、私はいくつか異なる見解を耳にしています。
返信:
この節<マタイ18章19節>は、とりわけ私たちの主が祈りについて語られた他のすべてのこと、そして一般に聖書が祈りについて語っていることのすべてと一致しています。私は、すべての義なる祈りは聞かれていると信じていますが、祈りの働きを促進し、強めるいくつかの事柄が存在すると考えています。これは一見すると矛盾しているように思えるかもしれませんが、聖書に見られる多くの事柄と同じように、実際には矛盾してはいません。イエスの弟子たちが、どのように祈るべきかを教えてくださいと主に求めたとき、主は「主の祈り」をもって答えられました。そしてその祈りは、ここで私たちが語っていることについての完全な模範です。
1) 「御国が来ますように」と祈る主の祈りは、目の前の問題の解決よりも、最終的な救いを待ち望んでいます。もちろん、この御国に入る前のこの世における問題について、答えや助けを求めることが間違っているわけではありません。しかし、イエスが「御国が来ますように」と祈りを始められたことは、もし私たちが真に完全であるなら、私たちは何よりもまず、主が再び来られるその日、そして私たちが格闘しているこれらすべての肉的な問題が、復活と栄光のうちに事実上解消されるその日を、最も切に望むであろうということを明らかにしています。
2) 「御こころが行われますように」と祈る主の祈りは、私たちが望むことよりも、神が望まれることに焦点を当てています。パウロは第一テサロニケ5章17-18節において、私たちは絶えず祈り続けるべきであると言っていますが、すぐに続けて、私たちはすべての状況において感謝すべきであると付け加えています。なぜなら、「これが、(すなわち、人が直面しているいかなる事柄においても感謝することが)キリスト・イエスにあってあなたがたに対する神のみこころである」からです。
3)そして、「御国が来ますように」、そして神のみこころが新しい地において普遍的に行われるその日までの間、この祈りは、私たちが召されている特定の戦いにおいて耐え忍ぶために不可欠なものだけを求めています。すなわち、この世において私たちの命を支えるための「パン」、この世において主との交わりを保つための、私たちの罪からの「赦し」、そして私たちが耐えることのできないほど大きいかもしれない、この世の圧力からの「救い」です。これらはすべて、私たちの弱い肉が絶対に必要としているものです(私たちが必要だと思い込んでいるものではなく)。
多くのクリスチャンは、祈りとは神から物を得る手段であるという考えを、これから述べるような正確な言葉で表現しているわけではないかもしれませんが、祈れば自分が望むものを得ることができ、祈らなければ得られない、という印象を持っているように思われます。しかし私は、祈りがそのようなものだとは思っていません。私が聖書を読むかぎり、祈りとは、神が私たちを助けて、御心を理解し、それを尊び、そして受け入れることができるようにしてくださる方法です。それは、私たちと天の父との間の対話であり、それによって私たちは主をよりよく知るようになるのです。実際、あなたが尋ねているこの節のように、私たちが求めるものは何でも自動的に得られる、つまり神が眠っているか、あるいは自動販売機のようなものであるかのように理解されることが多い節が、数多く存在します。しかし一方で、ヤコブ4章3節のように、すべての祈りが答えられるわけではないことを明確に教えている節もあります。繰り返しますが、これは矛盾しているのではありません。ただ、それは祈りがしばしば誤解されているのです。イエスがラザロを死からよみがえらせる前に父に祈られたとき、父がこの奇跡を行う力を与えてくださることを、主はあらかじめ完全な確信と信仰をもって知っておられることを明らかにされました。しかし主は、「そばに立って聞いている人々のために」その祈りをささげられました(ヨハネ11章41-44節)。理想的には、祈りとは次のようなものであるべきです。
1) 完全な信仰と確信のうちにささげられること。
2) 完全に神の御心であることを求めるものとしてささげられ、またそのようにあらかじめ理解されたものとしてささげられること。
3) 神に応答するものとしてささげられることであり、神に応答させようとする努力としてではないこと。
私の考えでは、あなたが尋ねているこの節や、それに類する「祈りの約束」の節が私たちを悩ませる理由(そしてある時点でそれらは聖書を読むほとんどのクリスチャンを悩ませるものです)は、それらが祈りの真の問題を非常に明確に示すために、私たち自身の不十分さを浮き彫りにするからです。すなわち、もし祈りにおける私たちの信仰に何らかの不完全さや迷いがあるなら(そして信仰の欠如は祈りを妨げます:ヤコブ1章6-7節)、もし祈りにおける私たちの願いの中に、実際には神の御心ではないことを自分自身が知っているような要素があるなら(そして自己中心は祈りを妨げます:ヤコブ4章3節)、もし神の時や答え方に対する忍耐の欠如があるなら(そして私たちはすべての宇宙的事実を知ることはできません:ヨブ記参照)、そのとき、これらの節やそれに類する節、すなわち神が私たちに答えてくださると約束しておられるすべての箇所は、容易に私たちの心を深く刺すものとなり得ます。むしろ、これらの約束から私たちが学ぶべき教訓は、神に何らかの欠けがあるということではなく(神は偽ることができず、その約束は常に守られます)、もし欠けがあるとすれば、それは私たちの側にある、ということです。この原則を私たちが受け入れるなら、「答えられない祈り」という問題の多くは、直ちに消え去ることになります。イエスは、もし私たちにからし種ほどの信仰があれば、いちじくの木に海に植わるよう命じたり、山に移るよう命じたりすれば、それらはそのとおりになるであろう、と語られました。しかし私たちは、イエスがこれらの命令のいずれも実際に行われたのを見てはいません。なぜでしょうか。それは神が答えてくださらないからではなく、イエスが神の御心にないことを決して求められなかったからです。
これが、この節やそれに類する節についての最後の点へと私を導きます。すなわち、私たちは一般的に、また自分自身の生活について特に、キリスト者としての歩みの中で前進するにつれて、神の御心をますますよく知るようになりますが、それでもなお、私たちには知らない事柄があり、また私たちの目には見えない戦いの中で起こっている事柄が存在する、ということです。したがって、私たちが祈る多くの時や状況、出来事や困難については、その結果に関して神の御心が何であるかを、私たちは本当には言い切ることができない場合が常に存在します。それは、特定の結果を求めて祈ることができないという意味ではありません。しかし、いかなる祈りをささげる前にも、正しい心構えを持つことが非常に重要であると、私は信じています。
1) 神は私を愛しておられ、私が求める前からすでに私の必要をご存じであるということ。神は私の世話をしてくださり、それは私の祈りのゆえではなく、神がどのようなお方であるかゆえに、そうしてくださるということ。
2) 私は神に対して完全な確信を持ち、また神が、私のために、真に神の善となることのために、すべてのことを整えてくださるという信仰を持っているということ。たとえそれが何であるかを私がはっきりと見ることができなくても、神はそうしてくださることを私は知っているということ。そしてそれは、私の祈りにかかわらず、神がなしてくださることであるということ。
3) 私が自分の願いを父に直接ささげることができるのは特権であるということ。そうすることが私の益のためであり、私を建て上げるためであり、私を安心させ励ますためであって、神から何かを引き出すための機械的な手段ではないということを私は知っているということ。私は神に語りかける必要があるのです――それが、神が私をそのように造られた方法なのです。
祈りは、実に多くの意味において、私たちの益となるものです。それは、私たちを愛しておられる父が私たちを気にかけておられることを、私たちに思い起こさせます。それは、私たちを主により近づけます。それは、私たちの重荷を主にゆだねることを可能にします。それは、私たちが仲間の信者たちと重荷を分かち合う機会を与え、また逆に、助けを必要としている者のために重荷を担うことを可能にします。それは、神をあがめるこの壮大な見えない戦いに、私たちが参与することを可能にし、しかもそれを、すばらしく重要な方法によって行うことを可能にします。そしてそれは、私たちが自分自身ではなく神に信頼していること、私たちが自分自身の肉の力ではなく神に解決を求めていることを、御使いたちと人々の前に明らかにします。
したがって、他の信者たちと共に祈ることは、個人的な祈りの価値について疑いを持つための機会であってはならず、またそれは「どのように祈るか」という仕組みの問題でもまったくありません。共同の祈り、すなわち少なくとも「二人が共に集められている」祈りは、むしろ、信仰の一致、配慮の一致、関心の一致、そして神の恵みを評価し、その御心の成就において神を仰ぎ見る一致を示す機会なのです。私たちがよりよく祈れば祈るほど、より多く祈れば祈るほど、祈るときに神の御心により調和していればいるほど、神により近ければ近いほど、そしてより多くの者たちが共に祈るなら(マタイ18章19節)、これらすべてのことは、確かに祈りの働きを強め、また促進します。しかしこれは、これらの促進する要素のいくつか、あるいはすべてを欠いているかもしれない祈りが、効果がないとか、あるいは歓迎されないということを、まったく意味するものではありません。神は、私たちが祈るすべてのことを聞いておられます。本当の問題は、私たちが自分自身の祈っていることを、本当に理解しているかどうか、ということです。
「ゲッセマネにおけるイエスの祈り」(聖書の基礎第4部A: イエス・キリストについての研究)
「祈りは天からささげられることがあるのか?」<英文>
「霊的成長の要素としての祈り」(ペテロ・シリーズ#17の15頁「7.祈り」の項参照)
The value of cumulative prayer.
Holding up Holy Hands in Prayer
Blessing, Cursing, Prayer and the Will of God
Prayer Access to the Father and Christ’s Intercession on our behalf.
私たちの言葉がまだ唇に上る前から、私たちの祈りに答えてくださるお方、すなわち私たちの主であり救い主イエス・キリストの神であり父であられるお方にあって。
Bob L.