主の祈り 

https://ichthys.com/mail-Lords%20Prayer.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著 からの翻訳 

質問 #1: 

親愛なるボブへ、 

「罪論(HARMARTIOLOGY)」を本当にありがとうございます。これは私にとって、罪についてのきわめて豊かで、励ましに満ち、そして非常に役に立つ研究です。私が学んでいることについては、まだもっと多くを語りたいことがありますが、それは後ほどにいたします。あなたご自身、あなたの働き、そしてあなたの著作は、まことに大きな祝福です。私は現在、地元の教会の会員になることを検討していますが、そこで用いられている主の祈りの一節の翻訳について、私を困惑させているものがあります。それは次のものです: 

1. 

「われらの日ごとの糧を、きょうも与えたまえ。われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ。われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」 

私自身の祈りは、次のものです: 

2. 

「われらの日ごとの糧を、きょうも与えたまえ。われらが負い目ある者を赦すごとく、われらの負い目をも赦したまえ。われらを試みにあわせず、悪しき者より救い出したまえ。」 

私は次の言い回しで育ちました: 

3. 

「われらの日ごとの糧を、きょうも与えたまえ。われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの過ちをも赦したまえ。われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」 

番号「2」が、日々の祈りにおいて私にとって最も助けとなっています。 

ところでその牧師は、サタンや悪魔に言及するよりも、個々の罪について語ることを好むと述べています。というのも、彼の考えでは、人格化(すなわちサタンや悪魔を実在の存在として扱うこと)は、人々が自分の罪を何か別のものや誰かのせいにすることを助長してしまう傾向があるからだというのです。聖書教育がいかに不足しているかを痛感させられます。 

あなたの深く有益な働きに、あらためて感謝いたします。 

回答 #1: 

あなたが言及しておられるその特定の教会についてですが、私はその教派について少しばかりの背景知識を持っています。しかし今日では、古くからの主流教派は、私には多くのフットボールのチームのように思われます――色や伝統は異なっていますが、選手やプレーの様式は完全に入れ替え可能なものとなっており、実際のところ、それらの間にはあまり選ぶべき違いがないのです。その結果として――このフットボールのたとえをやめて言えば――結局は教会ごとに判断していかなければならないということになります(そして、教会ごとに見ていくというやり方は、いずれにしても常に賢明な方法でした)。 

主の祈りについてですが、「主の祈り」にはさまざまな異なる訳版が存在しており、ある場所では、従来のものに代えて新しい訳版を用いる傾向があります(もっとも、あるグループは自分たちの伝統的な訳版を、まるで聖杯であるかのように守ろうとしますが)。しかし、どの訳版が用いられているかにかかわらず、その祈りの翻訳の仕方には、ほとんどの場合「問題」があります。たとえば、祈りの伝統的な終わりの部分である、「国と力と栄えとは、とこしえに汝のものなればなり。アーメン。」は、聖書の一部ではありません。それは原文のギリシヤ語本文には現れますが、後代の付加であり、おそらく、あまりにも突然に終わっていると感じたある修道士によって加えられたものでしょう。 

あなたもよくご存じのとおり、新約には主の祈りが二つあり、一つはマタイ(マタイ6章9-13節)、もう一つはルカ(ルカ11章2-4節)にあります。さらに私には、それぞれの著者が異なる出来事を記していることが明らかであると思われます。すなわち、マタイはこの主題についてのイエスの教えを、「山上の説教」と関連づけて示しており、一方ルカは、七十二人の伝道者を遣わされた後に、祈りについて教えてほしいと求められた際の、イエスの応答を記しているのです。 

これは重要な点です。なぜなら、このことは、聖書の学びから私たちが本能的に知っていること、すなわち、この祈りが、何ら変更できず、変えることもできない定型句として意図されたものではないということを、決定的に示しているからです――あたかも、神との私たちの対話を、非常に特定の一連の言葉に還元できるかのようにです。というのも、この二つの版においては、「節」(段落)がいくらか異なっているだけでなく、語彙の選択もまた異なっているからです。二つの祈りを調和させようとする試みは、要点を見失っています――イエスは、私たちが日々の祈りの中でどのような事柄を求めるべきかを示しておられるのであって、私たちがどのように祈るべきかについて、一定の定型句に私たちをハメようとしておられるのではありません。なぜなら、「どのように祈るべきか」とは、私たちが真理に対してどのように向き合うべきか、そして祈りのための適切な主題領域が何であるかということに関係しているのであって、単なる暗唱の決まり文句ではないからです。そのような定型句は、私たちがそれを単なる儀式へとまで制約してしまい、その言葉が何を意味しているのか、そしてさらに重要なことには、その言葉の背後にある真理が何を意味しているのかについて、まったく考えなくなってしまうほどのものとなり得るのです。この主題に対するあなたの継続した関心は、あなたがそのような落とし穴に陥っていないことを示しています。そして、聖書が含んでいるすべての宝を見いだそうとするあなたの態度は素晴らしいです。 

あなたの二つの具体的な質問に答えると、まず第一に、「sins(罪)」、「trespasses(過ち)」、「debts(負い目)」は、それぞれ固有の用法を持っていますが、主がギリシヤ語で語っておられる内容という点では、私たちはほぼ同じことについて語っていると言えます。すなわち、神がご自身の愛する御子を犠牲としてささげ、私たちの罪を支払ってくださったことによって、私たちは神に対してすべてを負っているのですから、キリストが私たちの罪を赦された(そして赦すための代価を支払われた)ように、私たちが同じように応じて他の人々を赦さないとすれば、それはきわめて偽善的である、ということです。マタイは文字どおり「負い目」(オフェイレーマタ(ὀφειλήματα/opheilēmata))を用いています。ルカは文字どおり「罪」(ハマルティアス(ἁμαρτίας/hamartias))を用いています。「trespasses(過ち)」は、KJV訳とは別の伝統から来ており、この語は多くの旧約の翻訳において、ヘブル語ペシャ(פֶּשַׁע/pesh’a)に対して用いられることが多いものです。これは本質的には、ヘブル語で「罪」を意味するハタ(חָטָא/chata`)の同義語です(七十人訳では通常、この語を訳すのにハマルティア(ἁμαρτία/hamartia)が用いられます)。したがって、「過ち」と「罪」との間には、真理という点で大きな違いはありません――ただ、人々がこれらの異なる英語の語句に対して抱く反応の違いから、それらを異なるものとして考えるようになってきた、という点を除けばです。「負い目」もまた明らかに個人的な罪について語っており、この祈りの二つの版の間にある密接な並行関係から見て、イエスはこれらを同義語として考えておられたことは明らかです。おそらく厳密に同一の意味ではないとしても、同じ本質的な事柄、すなわち、私たち自身の意志を神の御心の代わりに据えることによって、神の御心に違反することを指しているのです。「負い目」は、注意深く祈る者の関心を、この問題に向けさせ、イエスの犠牲なしには決して支払うことのできなかった負債を、私たちが神に対して負っていたという事実に焦点を当てます。一方、「罪」は、私たち自身の個人的な過ちそのものに鋭く焦点を当てます。 

これらの両方の側面は重要であり、それが少なくとも部分的には、この二つの版が存在する理由を説明しているのでしょう――私たちが日々行う必要のあることの一つは、私たちの罪を告白し、そうする中で、1)私たちの完全な罪深さ、2)イエスなしには、罪と数々の罪、およびその罰の下から決して抜け出すことができなかったという事実、3)そして、いま私たちが赦されたのであるから、恨みを抱き続けるのではなく、主の足跡に従って兄弟たちを赦すべきである、ということを認識することです(これは、「赦さないしもべ」のたとえで述べられているのとまったく同じ要点です[マタイ18章21節以下])。 

第二に、「evil(悪)」と「evil one(悪しき者)」との違いについては、あなたの牧師の見解に関するあなたの言葉によって、この論争は最もよく説明されます。ギリシヤ語から見て、「evil one(悪しき者)」――あなたが好んでいるこの訳の方が――が実際に良い訳であることは非常に明らかです。なぜなら、形容詞ポネーロス(πονηρός/ponēros)には定冠詞が付いているからです。確かに、ギリシヤ語では、冠詞を伴う形容詞が概念的な名詞として働くことは可能ですが、この意味において中性形を用いず、この形容詞でそのように用いることは、控えめに言っても異例です。したがって、用法と常識の両方から見て、ここでは人格的な悪魔が念頭に置かれていると考えられます――主は、悪の人格的起源を明確に示すことを決してためらわれませんでした。ある人々にとっては、何らかの理由で、罪や悪について、抽象的で非人格的な仕方以外では考えることが不快に感じられます。しかし聖書は、その源とその流れ出るものを、きわめて具体的で、現実的で、触れることのできるような仕方で示しています。したがって、「悪」と訳して言うことがまったく弁護できないわけではありませんが、私の考えでは、それは明らかに誤りであり、容易に見抜いて避けることのできる誤りです。 

この主題(「サタンの反乱」シリーズのリンクを参照)、この祈り、そして祈り全般については、さらに多くのことを語ることができますが、それはまた別の機会を待たなければなりません。いずれにしても、これがあなたにとって助けとなることを願っています。 

憐れみ深く愛に満ちた父の御前に、私たちが祈りをささげる権利を持つことができるのは、その御方によってである、すなわち、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストにあって。 

ボブ・L。 

質問 #2: 

ボブへ、 

「われらを試みにあわせず」という言葉は、私たち個人の選択と神の純粋さとの関係(Harmartiologyで論じられているような)という文脈において、どのような意味を持っているのでしょうか。私は答えを感じ取ることはできますが、これが何を意味するのかについて、より正確な読み取りを教えていただければと思います。 

イエス・キリストにあって、いつの時にも。 

回答 #2: 

主の祈りの中で通常「試み(temptation)」と訳されているギリシヤ語ペイラスモン(πειρασμόν/peirasmon)は、「試練(testing)」にも用いられている同じ語です(第一コリント10章13節参照)。これは自由意志の問題というよりもむしろ、私たちの思考を方向づけるために神によって備えられた助けであると言えるかもしれません(これは祈り全体についても同様です)。 

主の、驚くほど美しく、その単純さにおいて完全なこの祈りは、まず、私たちが主に対する献身を通して持っている永遠の未来へと私たちの心を向けさせることから始まります(「天にいますわれらの父よ」)。そして、その永遠の未来を、この人生におけるすべてのものよりも上に置くように私たちを導き(「御名があがめられますように」)、また、この現在の地上におけるいかなる富や成功よりも、私たちがそれを望むようにさせます(「御国が来ますように」)。続いて、この地上でのわずかな日々に対して、私たちが時間という観点から持つべき本質的な態度へと進みます(「御心が行われますように」)。 

もし私たちが実際に自分の祈っていることに耳を傾け、それを心に留めるならば、この祈りの最初の四つの要素は、私たちの目を永遠と永遠の報いに向けさせ、この移りゆく地上で過ごしている短い期間の間に、どのようなことが起ころうとも、私たちの意志を主の御心にゆだねるよう私たちを動機づける役割を果たします。私たちが、この塵のような世界のことに過度に心を奪われている状態から目覚めて、この祈りを通して、天の父の現実、その威厳、その切迫した臨在、その権威へと、もう一度自分自身を向け直した後で、イエスは次に、信者が聖別された歩みをもって生きるために必要な三つの基本へと私たちを導かれます。 

1)地上の生活のための基本的な備え(「日ごとの糧」)、 

2)霊的な健やかさといのちのための基本的な備え(「われらを赦したまえ」)、 

3)悪魔の世界という「戦闘地帯」を切り抜けていくための基本的な備え(「われらを救い出したまえ」)。 

これら三つの願いのそれぞれには、それに対応する要素があり、それもまた、この世における旅人として正しい視点を持つ助けとなり、この世の事柄に過度に関わりすぎて霊的な焦点を失ってしまうという落とし穴を避ける助けとなります。私たちはパンを求めます――しかし、それはその日のためにふさわしいパンだけです。マナのように、私たちは、現在祝福として与えられているかもしれない持ち物を、今日を過ぎれば役に立たないものであり、しかも不確かなものであると見る習慣を身につける必要があります。私たちは、イエスのために一日一日を生きるように召されており、過度に計画するという落とし穴を避ける必要があります(もちろん、計画を立てる必要はありますが、その際にも「永遠まであと一日」という視点を保つべきです)。 

私たちは赦しを求めます――しかし、その赦しは、私たちが仲間の信者に対して偽善のうちを歩んでいるなら、与えられることはありません。というのも、結局のところ、私たちはイエスのために、また、キリストにある兄弟姉妹である主のからだの益のために、ここにいるからです。もし私たちが彼らを赦すことさえ拒むのであれば、私たち個人の奉仕はどのような状態にあるのでしょうか(私たち個人の霊的成長やキリストとの歩みについては、言うまでもありません)。私たちは他の人々に仕えるように召されており、自分自身の利己的な利益のためにここにいるのだと考える思考の型に陥るという落とし穴を避けなければなりません。 

最後に、私たちは救出を求めます。私たちがどれほど善良であろうと、注意深かろうと、賢かろうと、敵対者からの攻撃を受けることを避けることはできません。実際、主のためにより良い働きをしているほど、その攻撃はより激しくなる可能性が高いのです。もし神が私たちの右の手の盾でなく、主イエスが私たちの岩で、私たちを救い出す方でなければ、私たちは一瞬たりとも、まばたきするほどの間さえ、生き残ることはできないでしょう。私たちは、自分自身の力では対処できないほど強い誘惑や、肉の弱さの中では耐えることがあまりにも困難な試練から守られるよう求めているのです(これはまったく正当な祈りです:詩篇141篇4節参照)。疑いなく、主は、私たちが何を耐えられ、何を耐えられないかを前もって知っておられます(ちょうど、私たちが赦しや糧を必要としていることを知っておられるのと同じです)。したがって、私たちは主のためではなく、私たち自身のために願い求めるのです。私たちは、主の守りがなければ、私たちはすぐに滅ぼされてしまうであろうこと、また、主のあわれみがなければ、私たちは容易に試練の中に陥ってしまうであろうこと――それが責任を伴う場合であれ伴わない場合であれ(すなわち、それぞれ試練と誘惑の場合において)――そしてそれらは私たちには耐えられないものであるということを、覚えておくために願い求めるのです。私たちは願い求めます。そして、主が私たちの願いを聞いておられることを知っています。そして、願い求めることによって、私たちは、私たちが願い求める前から、さらには願い求めることを思いつく前から、実際には、この世界の基が据えられる前から、主がすでにこれらすべての備えをしておられたことを思い起こすのです。私たちは、主が聞く必要があるからではなく、私たち自身が、主がすでに聞いておられることを思い起こす必要があるからこそ、願い求めるのです。そして、願い求めることによって、私たちは主をいっそう深く覚え、この単純な祈りの崇高な驚くべき事柄、また主のすべての驚くべき真理について思い巡らすにつれて、主にさらに近づいていくのです。 

天におられる私たちの父よ、 

あなたの御名が[私たちによって]聖なるものとして扱われますように。 

あなたの御国が[すみやかに]来ますように。 

あなたが天において行っておられるように、[あなたが戻られるときに]地においてもあなたの御心が行われますように。 

今日、来たる一日のために[私たちに必要な]パンをお与えください。 

そして、私たちが私たちに負い目のある者を赦すように、私たちがあなたに負っているものをお赦しください。 

そして、私たちが耐えられない[私たちが対処できないような]試練の中に私たちを導き入れないでください。かえって、悪しき者から私たちを救い出してください。(マタイ6章9-13節) 

私たちを買い取ってくださった愛する主、私たちの救い主イエス・キリストにあって。 

ボブ・L。 

質問 #3: 

あなたの有益なご回答に心から感謝いたします。「ペイラスモン(πειρασμόν/peirasmon)」という語について、より深く理解できたことは、私にとって非常に意味深いものです。この人生における「試練(testing)」の中には、最終的には喜びや楽しさ、成長、そしてさらに多くのものがあります。 

私はなお、「われらを導き入れないでください(LEAD US)<日本語では「われらを試みにあわせないで」と訳されている箇所は、英語では「われらを試みに導き入れないで-直訳」となっています>」という言葉に含まれているニュアンスについても関心があります。というのも、多くの場合、選択しているのは私たち自身であり、神が単に私たちに何をすべきかを命じておられるだけではないからです。 

キリスト・イエスにあって、常に、そしてその恵みとともに、永遠に、 

回答 #3: 

その質問は興味深いものです。ギリシヤ語では、ここには単純な否定命令の形式が実際に用いられています(反復的なものとは対照的です。すなわち、「まったくそれをしないでください」という意味であり、「それをし続けないでください」という意味ではありません)。この動詞もまた興味深いものです。私は「導き入れないでください(don’t lead)/われらを導き入れないでください(lead us not)」という訳をあまり好みません。というのも、この動詞は「導く(lead)」という意味とは関係がなく、おそらくそのことが、あなたがこの表現に違和感を覚えている理由の一部であるかもしれないからです。 

この動詞はエイスフェロ(εἰσφέρω/eispherō)であり、「運ぶ/持ち込む/携えて入れる」という意味の標準的な語で、「〜の中へ」を意味する接頭辞エイス(εἰς/eis)が付いています。したがって、「私たちを試練の中へ持ち込まないでください」と訳す方が、よりよい表現であり、私はそれに[私たちが対処できないような]という語を角括弧で付け加えたいと思います。 

多くの点において、この祈りは、すべての祈りが何についてのものであるかということの核心にあります。結局のところ、神はすべてのことを知っておられ、宇宙を創造される前からすでに知っておられました。また、神は「私たちがしたこと」を正確に知っておられます(たとえ私たちがまだそれらをすべて行っていないとしても)。この祈りのこの部分において、私たちは、一見すると自由意志に反しているようにも思えることを神に求めています。しかし実際には、 

1)私たちがこの祈りを御霊のうちに、またその意味を理解して祈っているなら、私たちは自らの自由意志によってそれを求めているのであり、 

2)神の主権のうちにあって、御心にかなうことは何でも行うことのできる御方に対して求めているのであり――それならば、御自身の愛する子どもたちからのこの点に関する祈りを、なおさら尊ばれないはずがあるでしょうか――、 

3)そして、ある種の試練は私たちの成長と神の栄光のために不可欠であること(また、ある試練は懲らしめの結果として避けがたく来ること)を十分に理解したうえで求めているのです。 

しかし、この言葉が正確に何を意味しているのかを理解する最もよい方法は、後件、すなわち、この否定的な願いに対応する肯定的な願いである「しかし(but)」の節を考えることにあります。それは、「悪しき者から私たちを救い出してください」という部分です。多くの翻訳は、「悪」を意味する形容詞ポネーロス(πονηρός/ponēros)に冠詞が付いていること、そして名詞ポネーリア(πονηρία/ponēria)ではないことによって、ここで意味されているのが概念としての悪ではなく、サタンである可能性がきわめて高いという事実を見落としています。 

確かに、この悪しき者の世界を進んでいく私たちが、悪の勢力に対して神が私たちのために防御を行ってくださるよう願い求めることは、正当であり、また賢明な祈りです。ある人は、おそらく、神はすでにそのようにしておられる、と言うかもしれません――それは確かにそのとおりです――しかし、それは、祈り一般に対しても成り立ってしまう議論です。というのも、神はご自身の子どもである私たちを愛しておられ、私たちが神を愛すべきように愛しているなら、すべてのことを益のために常に働かせておられるからです(ローマ8章28節)。それにもかかわらず、私たちは繰り返し、祈りにおいて熱心であるよう命じられています(ルカ18章1-6節; 第一テサロニケ5章17節参照)。 

これは、前回のメールで述べた点に戻ります。すなわち、私たちが祈るかどうかにかかわらず、神は常にご自身の働きをしておられるということです。しかし、祈ることは確かに私たちにとって益となります。なぜなら、私たちは、神が私たちの祈りに答えておられることを知り、またそれを経験する必要があるからです。したがって、祈りにおいて熱心であることによって、私たちは自分が求めたことに対する直接的な応答を経験することができます(そして、それは私たちがイエス・キリストにあって成長するにつれて、ますます多く、またますます効果的に経験されるようになります。ヤコブ5章16-18節参照)。私たちが祈るかどうかにかかわらず、神の御心は私たちのために行われます――しかし、私たちが祈ること、しかも継続して祈ることは、まさに神の御心であり、それには、この日々の祈り――(その一部として)敵対者の最も危険な待ち伏せからの継続的な救出を求める祈り――も含まれています。私は、ここでの主の言葉の選び方、すなわち、「私たちを試練の中へ連れて行かないでください(don’t bring us)」という表現が、「私たちが試練の中へ入って行くのを許さないでください(don’t let us go into)」のような表現ではないことは、聖書的な自由意志の真の概念に、よりよく一致していると考えています。 

というのも、聖書的な自由意志とは、神と神の御心を選ぶ機会――あるいは選ばない機会――であって(あたかも選択肢の一覧表が与えられているかのようなものではありません)、「私たちが試練の中へ入って行くのを許さないでください」という、もう一つの言い方は、実際には誤りとなってしまうからです。なぜなら、 

1)それは、私たちの自由意志そのものが完全に打ち消されることを求めることになってしまい、 

2)また、私たちの自由意志が、複数の可能な方向を持っているかのように示唆することになるからです(すなわち、神に向かうか、神に向かわないか、ということではなく、理論的には神から離れる方向へ向かうこともあり得るかのように示してしまいます。しかし、それは、目的においても機能においても、私たちがそのように造られているわけではないということにまったく一致しません)。「私たちを試練の中へ連れて行かないでください」と言うことによって、イエスは、神こそが私たちの道を方向づけておられるのであって、私たち自身ではないということを私たちに認めさせると同時に、私たちが自分の足を前に進めていくときに、自分自身で心配するよりも、その方向について神に助けを求めることのほうが、はるかに重要であることを示しておられるのです。もちろん、私たちがどのように、またどこを「歩く」かについては、私たちに責任があります。しかし、あらかじめ私たちを危険から遠ざけてくださるよう神に求めることは、さらに重要です。なぜなら、明らかに、霊的な領域において私たちの周囲で実際に起こっていることのうち、私たちはごくわずかなことしか見ていないからです。 

人は心に計画を持つ。しかし、その歩みを確かにするのは主である。(箴言16章9節/NIV訳) 

あなたの助けとなるかもしれない、祈りに関する他の取り扱いを以下に挙げます:<以下のリンクのリストは未翻訳。英文> 

共同の祈り 

積み重ねの祈り 

赦しのための祈り 

知恵を求める祈り 

祈りにおける忍耐 

主の祈りの適用 

イエスのゲツセマネの祈り 

祈りは天からささげることができるか 

祈りにおいて目を上げること 

祈りの長さ 

祈りの姿勢 

祈りと神の御心 

その善い御霊によって、常に私たちを導いてくださる御方にあって。 

ボブ・L。