III.  ヘブル人への手紙の背景

誰がヘブル書をエルサレムに持ち込んだのか、定かではありません(テトス3章12節。おそらくテキコTychicusでしょう:第二テモテ4章12節も参照してください。あるいは、名前の知られていない忠実な信者であったかもしれません)、またパウロがエルサレムにいる誰に最初に託すように命じたのかもわかりません。 しかし、手紙を届けた者が誰であれ(ローマ16章1-2節参照)、その使徒<パウロ>が親しくしていた人に最初に渡すように指示されていた可能性は高いでしょう。 例えば、バルナバやシラス(パウロがバルナバやマルコと和解したことについて参照:第一コリント9章6節; コロサイ4章10節; 第二テモテ4章11節; ピレモン1章24節参照)、あるいは、パウロの働きや当時の彼のしようとしていたことに最も共感し、当時の他の無名の人々をパウロは意味していたかもしれません。 次に、これらの友人たちは、書簡を書き写した後、エルサレム教会の長老たち、中でもヤコブとユダ、またその当時いた場所によってはペテロとヨハネにも手紙を渡したと考えるのが自然です。

この書簡がエルサレム以外のパレスチナのユダヤ人信者にどのような良い影響を与えることになったにせよ、パウロの死と、彼の不在によって、新しく開かれた異邦人教会での使徒的監視の空白によってもたらされた弾みとともに、この書簡は他の使徒たちを行動に駆り立てることになったと言えます。 このことは、いわゆる「一般書簡」、すなわち、ヘブル書に続いて比較的早く、最初にユダとヤコブの書簡が、その後ペテロとヨハネの書簡が執筆され、全聖典が紀元70年のエルサレム陥落前に完成されたことによって証明されています。

ヘブル人への手紙は、パウロ自身の多くの信徒を対象とした「回勅(訓戒の手紙)」というよりは、パウロ自身の会衆ではない特定の信徒たちに宛てた長い論文です。そのため、この手紙の口調もパウロの他の書簡とは異なっており、他のどの手紙よりもローマ人への手紙(これもパウロ自身の教会ではない)に似ています。また、ヘブル人への手紙の目的も異なっています。ヘブル人への手紙の目的は、伝統的なユダヤ教に戻ろうとする(あるいはグノーシス主義の幻想に誘惑される)信徒たちの強力な引力に屈してしまうような、外部からの腐食的な影響が蔓延している状況における、神への信頼vs伝統の問題についての詳細な弁明です。したがって、これまで見てきたように、その文体に他の書簡との違いがあるのは驚くべきことではありません。かえって、違いがなかったら、おかしいのです。

当時、牢獄で不自由な生活を余儀なくされ、残された時間がほとんどないという重圧の中で、この偉大な手紙を書くために必要とされた労力を過小評価すべきではありません。 実際、この作品は聖霊の霊感を受けています。 そして、聖霊はさまざまな方法でパウロを助けてくださいました。しかし、それでも、この作品を練り上げ、書き上げなければならなかったのはパウロで、彼はそれを素早くしなければなりませんでした。 神の言葉全体は、私たちが所有する素晴らしい祝福であり、パウロのすべての書簡は、そこに聖書の教理が凝縮されているという点で、特に貴重です。 しかし、多くの点で、ヘブル人への手紙はパウロの最大の功績であり、それが書かれた困難な状況や時間的な圧力を考慮すれば、なおさらです。

この手紙を書くには、精神的な負担も大きいものでした。 パウロは、自分の命よりも同胞を愛し、信じない人々の救いをもたらすためなら、喜んでその命を投げ出そうとしました(ローマ9章1-5節; 使徒行伝21章13節ローマ11章13-14節も参照)。 そしてその時、イエス・キリストに立ち返ったパレスチナの人々でさえ、霊的な危険にさらされていました。 パウロは、個人的な訪問によってその状況に変化をもたらすことはできませんでした。それは不可能であっただけでなく、そのような介入を試みた彼の最後の試みは、あらゆる点で失敗に終わっていました(それが、彼が釈放されても戻って行くことを控えていた理由の一端を説明していることは間違いありません)[1]。最初の逮捕とこの二度目の投獄の後、パウロはエルサレム教会の全員からペルソナ・ノン・グラータ(好ましくない人物)とみられていたわけではなくとも、彼の評判は、不当にも、揺らいでいたと言ってよいでしょう。 パウロはそのこと自体は気にしていなかったでしょうが、道を踏み外した信者たちのことを気にかけ、彼らに話を聞いてもらうことに気を回していました。 パウロのジレンマは、彼らの霊的な危機に目を覚まさせるため、伝達人が誰であるかという理由で彼の話す真理の言葉を拒否させることなく、彼らに理解してもらう方法を見つけることにありました。 その解決策がヘブル人への手紙でした。ヘブル人への手紙は、謙遜さと毅然とした態度のバランス、間違いについての慎重な暴露、しかし誰も反論できないような広範な真理の文脈の中で、ちょうどよい語調で話しています。ヘブル人への手紙は、霊的な難破に瀕していたクリスチャンにとって完璧な「救命具」であり、エルサレム教会や私たちに対するのと同様に、パウロに対しても神の御霊からの贈り物でもありました。 しかし、これを書き上げることは、パウロの波乱に満ちた生涯の中で、最も心労する、困難な経験の一つであったに違いありません。その数年前に口説かれて、その妥協が裏目に出てパウロは何度も死に至るほどになったことで、同胞の多くのユダヤ人が彼を見下すようになっていた中、彼らを訓戒するためには、聖霊による特別な大胆さが必要でした。

 (20) 一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんな律法に熱心な人たちである。  (21)  ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。 (22) どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、彼らもきっと聞き込むに違いない。 (23) ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。 (24) この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。(使徒行伝21章20-24節)

<ユダヤ人の慣習で、ナジル人の誓願の際の頭を剃る費用を支払うことによってナジル人の浄めに加わることができるというものがあったらしい。パウロは、自分もユダヤ人のしきたりを尊重しているということを見せるために、その儀式に参加することをヤコブとその仲間から勧められ、それを行うこととなった—民数記6章21節に関するアダム・クラークによる聖書註解参考>

パウロのヘブル人への手紙を効果的なものにするためには、パウロの手紙を受け取った人たちの好意をすぐに失わないように、また聞き手を獲得するために、目の前の問題に正確に正しい順序で取り組まなければなりませんでした。パウロは、彼らの伝統や律法への愛以上にキリストへの信仰の絶対的優越性を思い起こさせながら、彼らの危険な行動を叱責しなければなりませんでした。

そして、パウロはこの手紙を通して、聖書の基本的な真理(ヘブル5章12-14節ヘブル6章1節~を参照)を思い起こさせ、再教育しなければなりませんでした。この真理なくしては 、悔い改めの無さという、彼らが陥ってしまった深みと、重大な霊的危険を理解することはできないのです。同時に、この欠陥のある人物(キリストに立ち返る前にその教会を迫害したことが少なからず彼らの目に映っている)の人格がつまずきとなって、先入観のためパウロの手紙を拒絶してしまうようなことがないようにしなければなりませんでした。 これは、一通の手紙の中で成し遂げなければならない大仕事であり、パウロが、私たちにとっては非常に長い文章を書き終えた後でも、それが「手短に書いた」(ヘブル13章22節)と感じることができるのは、間違いなくそのためです。 時間が許せば、パウロはもっと多くのことを書いたに違いありません。 従って、私たちが持っているのは、パウロが迅速な救出作戦に全力を尽くしたものであり、彼がこよなく愛した人々と教会を救うための最後の大胆な試みだったのです。

兄弟たちよ。どうかわたしの勧めの言葉を受けいれてほしい。わたしは、ただ手みじかに書いたのだから。 (ヘブル 13章22節)

それゆえ、ヘブル人への手紙では、パウロが以前、感傷と感情的執着から自らの原則に妥協してエルサレムに行くことになった過ちについて、記録を明らかにしています。 その誤った訪問において、彼はギリシャの異邦人教会から苦労して集めた賜物を贈ることによって、その教会に対する以前の迫害(第二コリント9章1-15節; ヘブル10章33-34節参照)を「修復する」という強い願望も持っていたと思われます。

かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。  (10)  ただ一つ、わたしたちが貧しい人々をかえりみるようにとのことであったが、わたしはもとより、この事のためにも大いに努めてきたのである。(ガラテヤ2章9-10)

イエス・キリストの犠牲によって律法が完全に成就し、取って代わられたことについて、パウロがそれまで抱いていた明瞭さの欠如や、ユダヤ人の感情に配慮してその真理を伝えようとしなかったことは、この時点で完全に払拭されました。 この手紙を書くにあたってパウロに課せられた唯一の問題は、これらの事実を明確にし、なおかつ頭ごなしに拒絶されるのではなく、受け入れてもらうにはどうすればいいかということだったのです。 ヘブル人への手紙は、パウロのように聡明で、彼のような特殊な人生経験を持ち、聖霊に力づけられ、導かれ、霊感を受けた人物だけがなし得るような、見事な方法でこの難題を成し遂げています。 ヘブル人への手紙を少しでも注意深く読んで、それでも十字架の後に律法に従うことが聖書的だと信じる人はいません。

パウロは、彼の他の書簡(特にガラテヤ人への手紙)ですでに示されている原則、すなわち、モーセの律法に従うという古いやり方は、聖霊の賜物によって力を与えられたイエス・キリストの福音という新しく力強いぶどう酒には、今やまったく不適切であるということを、深く理解するようにならなければなりませんでした。この教訓を学ぶには使徒たち全員にとって時間を要し、先に見たように多くの場合、彼らは苦難の道を歩まなければなりませんでした[2]

使徒たちにとって律法から恵みへの移行が困難であったとすれば、ユダヤ人信徒たちがこの重要な変容に問題を抱えていたことは驚くべきことではありません。 しかしエルサレムでは、前進というよりはむしろ、使徒たちや異邦人の教会が、明らかにそうであったように、パレスチナの信徒たちは恵みから律法へと逆戻りしていました。 この逆転は、感傷的な理由もあれば、(不信仰なユダヤ人仲間から排斥された)社会経済的な理由もありましたが、エルサレム教会の指導者の失敗によるところも大きかったことは間違いありません。 エルサレム教会の無名の人々がパウロに神殿の誓願を持つ若者を支援するように促したという事実は、この共同体がすでに律法遵守に逆戻りしていたことを示すだけでなく、ヤコブもユダもペテロもヨハネも、他の使徒も長老も、その教会で地位のある人物も、長老たちの誰一人として反対しなかったことを物語っています。 パウロが同意したのは間違いでしたが、この時沈黙を守っていた人々に少なくとも部分的な責任がなかったかどうかは、問う価値があります。 その七、八年前の時点から、事態は明らかに悪化していました。 この事実は、その教会の「柱」となる者達の哀れな状態を示しています(ガラテヤ2章9節ガラテヤ2章6節も参照)。

ヘブル人への手紙は、このように多くのことを同時に述べています。 エルサレムの教会を迫害したパウロに代わって、記録を訂正し、(論理的な意味での)謝罪をしています。 グノーシス主義の根本的な前提に対する簡潔な反論であり、律法の真の意味についての最も鋭い説明であり、聖書のどこにも見られない律法の陳腐化の最も鮮明な説明がなされています。加えて、この手紙は愛の労作であり、使徒の中で最も偉大なパウロが、彼らのために死をも厭わないほどの深い愛で愛した人々を、迫り来る背教から救い出そうとした最後の必死の試みなのです。 この手紙を書いたとき、パウロの余命はあと数日か数週間しかありませんでした。 だから、このヘブル人への手紙が、キリストのからだのために彼が行った最後の主要な働きとなったのは、いろいろな意味でふさわしいことだったのです。

神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい。(ヘブル13章7節

  あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。(ヘブル13章17節)

上記のようなことを言う必要はなかったし、外部の人間が言う必要もなかったはずです。しかし、もしエルサレム教会の柱である長老たちや有名な使徒たちが、自分たちの担当者を適切な霊的管理下に置いていたなら、ヘブル人への手紙全体は必要なかったことでしょう。 教会時代の最初のペンテコステからエルサレム滅亡までの神殿がまだ建っていた50年足らずの短い期間を通して、私たちは新約聖書の中で、その教会の指導者たちが、その教会内の律法の前々からの尊守者たちに対してその権威を適切に行使することが非常に困難であるか、完全に失敗している例を繰り返し見ています(例えば、使徒行伝11章1-3節; 15章1-5節; 21章20-24節; ガラテヤ2章3-5節; 2章11-14節)。 ヘブル人への手紙の執筆時点で、エルサレム教会における霊的権威が完全に崩壊していたか、あるいは、その権威を行使すべき者たちが、少なくともその責任をほとんど放棄して、(モーゼがいなくなったとたん、イスラエルの民の暴走を許したアーロンのように:)圧力に屈して黙り込んでしまっていたことは、ヘブル人への手紙の状況から明らかです: 出エジプト32章1節~; 特に出エジプト32章25節)。

しかし、出エジプトの場合のような異教というよりも、ヘブル人への手紙の扱う問題は、一方ではキリストの神性への信仰の欠如からグノーシス主義的・ユダヤ主義的神話に従うこと、他方では律法の儀式に立ち戻ることというグルになって仕掛けてくる二つの悪魔的攻撃に関係しています。 エルサレムの指導者たちは、少なくとも一時的には、このような霊的に破壊的な流れに対して怖気づいて反対せず屈服していました。他の誰が反対できたでしょうか? もしそれが使徒パウロ以外の者であったとしたら、他の誰がその割れ目立てたというのでしょうか? パウロは、その生涯の最後の日々をエルサレムの教会を救出するための奉仕に費やして、さらに時代遅れの律法を打ち破りながら異邦人を受け入れることで大きく拡大しようとしていたイエス・キリストの教会のための究極の奉仕も行っていたのです。その必要な変革を、それを受け入れることを最も望まない信徒たちに説明することは、多くの意味で教会初期の歴史の転換点でした。 ヘブル人への手紙は、私たちの主の十字架と復活、そして聖霊をつかわされたことがもたらした根本的な時代の転換について、紛れもない、議論の余地のない説明をしています。[3]当時ヘブル人への手紙を読んだ人も、今ヘブル人への手紙を読む人も、キリストの人間性と神性、律法が恵みによって置き換えられたこと、新約を喜んで受け入ないため旧約に立ち返ってしまうことの致命的な危険性について、誰も疑いを持つことはできません。ヘブル人への手紙は、真理によって正されることを望むすべての人に、律法主義との最終的かつ完全な決別を提供し、また、当時まだそこに滞在していた使徒たちや指導者たちの後の努力(聖書の正典を完成させること)から判断すると、エルサレムの指導者たちにもリセットを提供したのです。

特にローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、ヘブル人への手紙では、パウロが独力で新約と旧約との関係を明らかにし、教会内のユダヤ人と異邦人が、全く異なる霊的背景を持ちながらも、キリストにある同胞として共存するだけでなく、完全に調和するための霊感に満ちた道しるべを示しました(例えば、 ローマ15章8-9節; ヨハネ17章11節, 17章20-23節; ローマ12章16節, 15章5-6節; 第一コリント1章10-17節; 第二コリント13章11節; エペソ4章3節; ピリピ2章2節, 4章2節参照)。 ユダヤ人も異邦人も同じように、すべての信者にとって、儀式や権威を喪失してしまった伝統から離れ、代わりに神の恵みにある御霊の力に目を向けることは、当時も今も、私たち個人の霊的成長にとって、またキリストのからだの集団的成長と健康にとって絶対不可欠なことなのです。 ヘブル人への手紙は、このような重要な問題を説明する鍵であり、私たちはこの書を手にすることで少なからぬ祝福に与っているのです。


[1] ガラテヤ2:2でパウロは、以前エルサレムに行ったのは神の命令(カト’アポカリプシン)によるものであったと述べているが、最後の運命的なエルサレム行きを促したのはそのような命令ではなく、実際、彼は聖霊によって何度も行くなと言われていました(使徒行伝20章22-23節; 使徒行伝21章3-4節, 21章10-14節; 使徒行伝22章17-18節ローマ15章31節も参照)。 このような不吉な警告にもかかわらず、パウロが耐え忍んだのは、ユダヤ人に対するパウロの愛の表れです。

[2] 使徒行伝は、多くの点で、律法から恵みへの移行を記録することに費やされています。 BB 6B: Ecclesiology, Section I.B.5.c“The Nature of the Book of Acts”参照。

[3] サタンの反乱第五部:七つの千年期間、Ⅱ.5節「人類史の五つのディスペンセーション的分割」参照。 要するに、神の人類史の分割は、聖典によって、神が真理を「分配」する手段という観点から説明されています。 ヘブル人への手紙の最初の節にあるように、十字架はイスラエルの時代と教会の時代との大きな分かれ目なのです。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。」(ヘブル 1章1-2節前半)このトピックは、次回の「ヘブル人への手紙:第一章」でも取り上げます。