パウロのヘブル人への手紙 イントロ-3

したがって、ヘブル人への手紙とパウロの他の手紙との間に相違があることは驚くべきことではありません。 むしろ、相違がなければ驚くべきことです。 しかし、一部の読者や学者が、これらの相違をパウロ以外の著者が書いたことの証拠として解釈していることは、この筆者には奇妙に思えます。ヘブル人への手紙は、その具体的な考え方やギリシャ語の表現方法において、聖書の他のどの書簡よりも、またギリシャ語全般のどの書簡よりも、パウロの手紙に類似しています。 ヘブル人への手紙の文体は、現存する他の著者の中で、パウロのギリシャ語ほど似ているものは他にありません。

上記の筆者の印象は主観的なものかもしれませんが、ギリシャ語に関する相応の知識、訓練、読書、経験に基づいています。 具体的な例を挙げれば、パウロには本題を先送りし、従属節を使って話が本題から逸れる独特の傾向があり、これを英語に直訳すれば、ほとんどの英語読者を混乱させるものです。(そして、少なからぬギリシャ語読者を混乱させたことは間違いありません:参照: 第二ペテロ3章15-16節)。

(12) そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。

(13) なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。

(14) すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。

(15) 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。

(16) そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。(ローマ2章12-16節)

上記は、ほとんどの英作文の教師から赤ペンが入れられるでしょうが、これはパウロの全集の中で特別なものではありません(例えば、ローマ1章13節; 1コリント1章2節; コロサイ2章22節; 第二テサロニケ1章10節; 第二テサロニケ2章8節; また、第一コリント1章4節には8節の関係代名詞がかかっています; 第一コリント12章2節では主動詞から分詞の転置法)。<日本語訳ではこうしたことは、明白ではありません> また、ヘブル人への手紙にも顕著に見られます:

ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。(ヘブル2章9節)

これらの例はいずれも、英語版では必然的に可能な限りきれいに修正されていますが<日本語でもそうだと思います>、ギリシャ語で読むとさらに印象的で鮮明です。 これは、この学者が他のギリシャ語作家でこのような特殊な形で現れたのを見たことがない、「クセ」のある文体です。 ちょうどヨハネのアシンデトン(接続詞省略法:すなわち、 ある文と別の文とを接続詞で結ばない)のが彼の文体の特徴であるのと同様に、マルコが(七十人訳に倣って)ヘブル語のワウwawに似た方法でギリシャ語の接続詞カイkaiを用いたり、あるいは副詞euthysエウティス(「直ちに」を頻繁に使用する傾向がり、 新約聖書全体では12回しか使われていないのに、彼の福音書だけで42回用いられています)、このような文体の癖は、著者であることを証明する「決定的な証拠」にはならないかもしれませんが、特に、直接的で意図的な模倣でしか説明がつかないような場合には、考慮しなければならない説得力のある証拠となります。

聖書の書物に関して言えば、世俗的な学問の傾向は常に伝統的な著者性を否定します(例えば、モーセの五書著者性を否定して「JEPD」を支持したり、二人あるいは三人の「イザヤ」がいたと主張したり、第二ペテロの手紙はペテロが書いたものではないとか、ヨハネの黙示録はヨハネが書いたものではないとか、パウロは書簡を書いてはいなかったというようなもの)。それだけに、このような学者による懐疑論に対しては懐疑的であるべきです。

最後に<パウロがヘブル人を書いたとすると>、私たちがヘブル人への手紙に見る旧約聖書からの引用箇所には、<元の七十人訳とは>相違点があるはずということについても、誇張されすぎています。パウロの書簡を含む新約聖書中の引用の大部分は、七十人訳版(この時代にパレスチナで使用されていたギリシャ語訳聖書で、LXXとしても知られている)から直接引用されています。 なので、ヘブル人への手紙においてもそうである<七十人訳から直接引用されている>という事実は、パウロの非著者性の論証にはほとんどなりません。パウロが–全体か、一部を–ヘブル語から直接訳し直すことがあったのは事実です。 しかし、それは重要な場合に限られていました。そしてヘブル人への手紙には、訳し直されている箇所が全くないという主張は実際に真実ではありません。一例を挙げれば、この手紙の最初の旧約聖書引用箇所のヘブル人への手紙1章6節詩篇97篇7節からの引用)には、七十人訳版との違いが二カ所あります。これらは一般の読者には取るに足らないことのように思えるかもしれませんが、実は重要な違いです。

3. 匿名性

まず注目すべきは、パウロがこの手紙の著者であることを明言していないからといって、彼自身が著者でないということにはならないということです。当たり前のことのように思われるかもしれませんが、この点が、パウロの著者性を疑っているすべての核心なのです。上の節で示唆したように、パウロがこの手紙に自分の名前を署名しなかったのには、それなりの理由がありました。この手紙を受け取ったクリスチャンたちは、パウロの改宗者ではなく、パウロはそれまで彼らに教義的な事柄について宣教する機会がありませんでした。また、その教会の中には、パウロの話をまず聞いてみようという人もいたでしょうが、使徒としての立場からパウロが署名した通信を頭ごなしに拒否する人も大勢いたことでしょう。 結局のところ、使徒行伝を読むと、その教会には異邦人の改宗に懐疑的で、伝統的なユダヤ教に改宗しない異邦人を嫌う人々が大勢いたことがわかります(使徒行伝10章45節, 11章2-3節, 15章5節, 21章21-25節)。 「パウロからの手紙」というのは、そのほとんどではないにしても、多くの人々にとっては赤信号であったでしょうし、同胞を説得しようとしている真理よりも、今や有名になったこの囚人と、律法よりも恵みを好んだという彼の記録(改宗前の暴力的な行動は言うまでもない)を問題にしただろうと予想されます。

(20) 一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんな律法に熱心な人たちである。

(21) ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。

(22) どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、彼らもきっと聞き込むに違いない。

(23)  ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。

(24) この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。

(25) 異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてある」。(使徒行伝21章20-25節

さらに、パウロはローマの獄中からエルサレム教会に手紙を書いており、パウロの告発者たち、つまりパウロに対する群衆を扇動し、後にパウロを暗殺しようとした不信心者たちは、まだエルサレムにいました。パウロを迫害していた者たちは、パウロと関係のある者なら誰でも、それが「パウロ」の名を冠したものであれば、その手紙の元の持ち主であろうと、その手紙の写しを持っているのを発見された者であろうと、喜んで迫害したことでしょう。

そして、手紙の受取人に十分知られていて、自分の名前を名乗らなくても、彼らから何らかの聴聞を命じられるような人物が、パウロ以外にいたでしょうか。 パウロ以外の者が作者であることの証拠になるどころか、この事実だけで、パウロだけが作者であった可能性がますます高くなります。パウロは、このようなアプローチを必要とする個人的な「お荷物」を持つ唯一の人物であり、その手紙はその教会の本物の信者たちによって受け取られ、保存された可能性が高いです。

だから、パウロがこの手紙に自分の名前を書きたくなかったのには、それなりの理由があるのです。 パウロが「他人の土台の上に建てる」ことを嫌っていたことは、他の書簡におけるパウロ自身の言葉からもわかります(ローマ15章20節ガラテヤ2章9節参照)。 この手紙を書くという決断は、間違いなく困難なものであったことでしょう。彼が愛し、投獄の苦しみをその彼が愛している人々のために味わっており、教会のために、御霊によってなされたものでしたが、その教会が、伝統や迫害への恐れだけでなく、パウロが異邦人教会を司牧する中で戦わなければならなかった初期のグノーシス主義にも影響され、古い行いの道に逆戻りし、恵みから遠ざかっているという不穏な知らせを耳にしていたために、苦渋の決断でした。 パウロが一番避けたかったことは、自分の使徒的権威をあからさまに、しかも不必要に主張することによって否定的な反応を引き起こし、物事を正そうとするこの試みを危うくすることであったでしょう。

<続く>