第三神殿が建つ時…真の神の宮とまことの礼拝

今、私達が生きている時代は、今まで、体験しなかったような多くの様々な出来事がおころうとしている時だと思います。

 各自、異なる見解をもっていると思いますが、私は、今は聖書の預言で語られてあるこの世の終りの時に近づいてきている時だと信じています。

 そしてもし、そうであれば、マタイ24章にある、戦争、民族紛争、地震、疫病、迫害などについてイエス様が言及しておられた事柄が頻繁に起こってくることだろうと思います。

 また、終わりの時には、不法がはびこったり、互いに欺き合うようになるとイエス様は言われましたが、現代を見るとまさに世界がそうなりつつあるように思います。

 さらに、非常事態に乗じてニセ情報(フェイク・ニュース)も横行したりして非常に不安定で不安な時代に今なってきていると思います。

 しかし、神の真理である聖書のみ言葉を頼りに生きている信仰者にとっては、そんな中でも心に平安を持っていることが出来ます。

 なぜなら、主はその御言葉の中で、将来のことを心配することを禁じて下さっていますし、平安をくれる数々のお約束をして下さっているからです。み言葉は私達の心を正しい道に導いてくれます。感謝です。

 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイの福音書 6章34節)

 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。 (ヤコブの手紙 4章14節)

 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 (マタイの福音書 6章27節)

 明日のことをおもいわずらうことの無益さをよく聖書は説いてくれています。しかし、主と主のみ言葉に信頼する者に、平安を約束して下さっています。聖書には信仰によって生きる者を正しい人、義人だとしていますが、詩篇の112篇6節7節の励ましの言葉は、そうした信仰によって生きる正しい人についての約束です。(私達は罪びとですが、主はご自身の流された血によって私達の罪の償いをし、私達が神よりの赦しにあずかるようにして下さいました。天の父は私達の罪を見るのではなく、キリストの義によって罪赦された新しい人を見て下さいます。感謝!!)

 正しい人は決して動かされることなく、とこしえに覚えられる。 彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。 (詩篇 112篇6-7節)

 ここに「悪いおとずれ」とあります。「彼は悪いおとずれを恐れず…」と。

「おとずれ」とはNews(ニュース)です。便りであり、情報です。私達は、「良きおとずれ」を伝える者です。グッド・ニュース、つまり「福音」です・

 しかし、この世にいる限り、私達は、様々な事が周りでおこり、それらの情報が耳に入ってきます。これは生きている中で避けられない事で、ある面では、私達はそれらの情報を必要としています。

 しかし、中には不必要な情報、故意に人を欺くために伝えられる情報もあります。いわゆる「FAKE NEWS(フェイク・ニュース)」です。

 しかし、「正しい人は…」それが

真実のおとずれであろうと、欺きに満ちた「悪いおとずれ」であろうと、「恐れない」とあります。これは信仰よって生きる人は主に信頼しているからです。

 終わりの時の兆候として主が挙げられた「しるし」はほとんど全て、肉の目や耳で受け取ったら、「悪いおとずれ」の部類の事柄と言えると思います。

 先ほどあげた、人に欺かれること、戦争、戦争のうわさ、地震、疫病、迫害、ききん、などこれらはみな「悪いおとずれ」と言えるものではないでしょうか? それらが始まったという知らせを聞いて喜ぶ人は、あまりいないでしょう。しかし、もしこれらを主の再臨の前のしるしと見るなら、それらは子供が生まれる前の産みの苦しみ(陣痛)のように、突然それらがやってきても、喜ばしいものの前兆と見なすことができます。

 ですから、大きな事柄、驚かされるようなことが、世界を一変させるようなことが一つづつ起こってもそれら一つ一つが主の再臨の日にさらに一歩近づいているしるしなのだと思うなら、嬉しいことではないでしょうか?

 もし、私達が聖書で言う終わりの時に本当に近づいているなら、当然いろいろな事が起こるでしょうし、主とお会いする日が近づいていると見ることができます。

 話が飛びますが、多くの聖書の預言を学んだ人達は、中東、つまりイスラエルとその周辺の国々に目を向けていると思います。なぜなら、イエス様が預言された事柄以外にも終わりの時に起こることになっている幾つかの事が中東で起こり、それが主のおいでになる日の前に起こることだと聖書から解釈しているからです。

 それら幾つかの預言の中で際立った起こるべき預言の一つは、「第三神殿」の建築と、そこでの燔祭、儀式がなされ、そして中断されることです。(あとで別のひとしずくでも、もう少し詳しくこれらの事柄について取り上げたいと思いますが、近日中に https://darktolight.jpにアップしておきますので、覗いてみて下さい)

 少なからず多くの聖書の預言を学んでいる方たちに支持されている解釈だと思いますが、ダニエル書9章27節の「彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。 (ダニエル書 9章27節)は、近未来のことであり、近いうちに成就するかもしれない、と言う動画を最近見ました。

 これは、今まで幾度も騒がれてきました。いつも、今、神殿が建てられるのではないか、その前に反キリストが契約を結ぶ時か…など。

 ダニエル書の9章の24節から27節までは、七十週の預言として、有名です。そしてその七十週の預言の最終成就が、イエスの再臨の直前に成就するだろうという解釈なので、上記の預言にある「犠牲と供え物とを廃する」者が現れるはずであり、その前には、犠牲と供え物が神殿で捧げられる必要があり、その前に神殿が建立される必要があるということです。

 神殿が建てられる(もしそうであればこれで三度目なので第三の神殿)と聖書に記されているわけではないのですが、犠牲と供え物はユダヤの神殿で行われていたことなので、この預言が成就されるためには、まず神殿が建立されなければならないという解釈です。

 しかし、もちろん解釈には別の解釈をする人もいます。このことについては、https://darktolight.jp にアップする動画をご覧下さい。

 もしそうした預言が実際に起こったとしたら、世界は、少なくても聖書の預言を知っている人達の間で少なからずセンセーションが起こると思います。

 ここでは、もしそうであっても、なくても、私達の心は、どうであるべきかということについて分け合いたいのです。

 主に従って日々、主とのつながりのうちに生きる人達、つまり明日のことを思い煩わず、日々、今日が最後のように生きている人達にとっては、自分達が、まさにその最後を直前にしているという「おとずれ」を聞いても動揺することはないと思います。

 神殿が万が一エルサレムのモリヤ山に建てられ、そしてそこで燔祭を捧げる儀式が開始されたとしても、驚くには及びません。

 むしろ、真の神殿である私達の魂を正しい位置に置き続けることに引き続き、一番の関心が向けられるべきなのです。

 私がここで言いたいのは、古くからの奥義、真の宮、まことの礼拝について聖書で語られていることです。

 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。

もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。 (コリント人への手紙第一 3章16-17節)

 ですから、この体こそ神の霊の宮であり、私達は「まことの礼拝」のため、建物、建築物や場所儀式に捉われるべきではないのです。

 主は私達をそのような古い宗教儀式から解放して下さいました。

 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。 (ヨハネの福音書 4章21,23,24節)

 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、 (使徒行伝 7章48節)

ですから、たとえ第三神殿が建ったからといって、エルサレムに宮もうでをしたほうがもっと信仰深い行為だなどと思うべきではありません。私達が神の聖なる宮であり、まさにここで、聖なる礼拝がなされるべきなのです。

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。 (ローマ人への手紙 12章1-2節)

神様は、私達にどんな礼拝を求めておられるのでしょう。私達が日ごとに新しくされること、造り変えられることです。私達はイエス・キリストの流された尊い血の代価によって贖われました。私達の体を神様に差し出すことです。さらに私達の心と思いが神様に喜ばれるように、差し出して、主の御霊ご自身が私達のうちに住まわれ、私達の中で思われ、私達を通して語って頂くようにすることが神への真の礼拝ではないでしょうか?

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。 (コリント人への手紙第二 4章16-18節)

(祈り:) 主イエスよ、私達を、天の父とあなたが私達のうちに住まわれるようにと、私達をご自身の血によって贖ってくださったことを感謝します。日々、あなたと共に歩み、そしてあなたが私のうちにあって働いて下さいますように。何よりもあなたご自身が自由に私をとおして働かれるように、私自身が造り変えられますように。あなたに自分自身を差し出します。すべてのことを通して、わたしの思いではなく、あなたの御心が成し遂げられますように。御名があがめられ、御心が成し遂げられますように。

どうか聖霊と御言葉によって、心の奥底まで、また私の霊の隅々まで清めて下さい。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。