恵みに恵みが加えられた

わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。

(ヨハネ1章16節)

イエス様には、すべての徳と善きものが満ち満ちています。そしてそれを私たちに御霊をとおして与えて下さっています。

キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。

(コロサイ 2章9~10節)

神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。

(2コリント 9章8節)

あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。

(第二コリント 8章9節)

イエス・キリストは、神であられたのに、私たちが豊かになるために、神のかたちを捨てて人間になられました。私たちは、罪を赦していただき、さらに神の子として、神の豊かさを引き継がせていただいているのです。

それは私たちが、受けるにふさわしいからではありません。受けるにふさわしい聖い人など、この世には一人もいません。全ての人は罪びとであり(ローマ3章23節)、その自分の罪を、自分でつぐなうことはできないのです。

まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。 とこしえに生きながらえて、墓を見ないためにそのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。

(詩篇 49章7~9節)

イエス様はその私たちの罪を身代わりとなって、死んでくださいました。

人の罪の代価は、人でなければなりません。そして、罪なき者でなくてはなりません。罪のない方は神だけです。つまり、人となった神、イエス様だけが人の身代わりとなることができたのです。そのためにイエス様はこの世に来てくださったのです。

これは、神よりの一方的な愛であり、恵みです。恵みであるからこそ、全ての人がこの救いを受け取ることができるのです。 

「恵み」は、働いて得る「報酬」とは異なります。報酬は、自分の労働に見合う報いを受けるもので、受けて当然です。しかし、「恵み」は、受けるに値しない、ふさわしくない者に与えられるものなのです。

私たち全ての者は、その罪のゆえに罰を受けて当然の者です。しかし、神は、私たちが苦しむのことがないように、ご自分の身にその罰を受けられたのです。私たち全ての者が、その神の恵みに預かっているのです。

さらに、私たちは、救われて、罪赦されただけではなく、さらに恵が加えられ、神の子として、ますます豊かな神よりの富に預かっているのです。

<祈り>主イエスよ、私たちを罪の人生から救い出し、罪の奴隷状態から解放して下さったこと感謝します。さらに、日ごとに、あなたの愛で包み、また満たしてくださって感謝します。受けるにふさわしくないのですが、あなたはさらに与え続けて下さいます。あなたの恵み深さを讃えます。どうか、あなたの愛を知らない人たちが、あなたに出会い、あなたを受け入れ、信じることが出来ますように。