神がコントロールしている パート2

私達は、ニコデモが主張しているように、さばく前に、その人の言い分を聞くこと、またその人が何をしたかを知るというのが、意外と難しい時代にいるように思えます。情報化社会の中で、知りたいことは何でも簡単に知れるように思えても、情報が(現代の精神指導者=マインド・コントローラーである主流派マスコミによって)操作されていると言われているこの時代では、何が真実か、嘘かということを、識別し、見分けるという作業は簡単ではありません。

もしただ流されている情報を鵜呑みにするなら、私達は、うわべで、操作された情報で、さばきをするということになりかねません。残念ながら、今の時代はそうなってしまっている場合が多いように思えます。

こういう時こそ、祈りと信仰が大切なものとなります。

各自が、祈りのうちに最善と思えることに従って行動すること、そして引き続き祈りのうちに留まる必要があります。

たとえ想定外のことが起こっても、また主が祈りに答えられていないように思えても、なお主は祈りに答えられる神であられることを信じ、神の知恵に信頼することです。

私達の歩みを導くのは、世の言うことではなく、神の言葉です。それが信仰の歩みです。

信仰を保つという一言には、沢山の霊的な戦いを乗り越えることが含められています。そこには、肉の働きと霊の働きの間の識別が必要です。自分の魂が、肉の領域で作動しているのか、それとも霊の領域で作動しているのかに気づく必要があります。

自分が御霊の内にいて、神の御心を行っていると思っていても、実は、自分の感情や思いで、心配したり、肉の分析に時間を浪費しているということはよくあります。

全ての機会において、もし私達が(時間の長さ に関係なく)真摯な祈りをもって主を求めていない場合、思考は肉のもの、地上に属するものである可能性は高いです。

救われて主のものとなった者に、主が導かれている道は、さらなる主への献身の道、主に近づくこと、主の思いを学び、全く主のものとなる成長の道です。

主は、私達が主への愛に応える機会を与えて下さっているのだと思います。色々な試練、混乱を目の前にしている時も、私達が自分の知識に頼らずに、主を求めて天からの御声に聴き従うことを主は教えようとしておられるのだと思います。

大統領選挙の話に戻りますが、この選挙にあたって、米国民は分断されたということを言っている人達もいます。それは、米国内に留まらず、世界にも影響を与えていると思います。まさに不完全な人達がなそうとしているこの地上のこと、世のことには、色々な問題が起こります。罪びとである者達がつくりあげる世界においてこれは避けられないことなのでしょう。

この地上には誰も完全に正しい人はいません。この地上にいる限り、私達は、学び続け、造り変えられ続ける余地があり、まだ私達がこの地上にいる理由の一つは、学び変るということでもあると思います。また、福音が伝えられるために、神は、人々を使いますし、意見の違いも使って御心を成し遂げられます。

悪魔はその違いを使って分断をもたらしたり、滅ぼし合うことをさせようとしますが、神は反対にその違いから、人が望むなら、お互いから学んだり、成長する機会にされます。

そして、お互い何が真実なものであるかを見出すためには、幾分かの分争も起こるのが避けられない場合もあるでしょう。パウロが色々な罪を抱えているコリントの教会に次のように語っていることからもわかります。

まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている。 たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。

(1コリント 11:18-19)

「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(ルカ10:27, マタイ22:39)と愛と平和を説かれたイエス様も、人が真の平和、真の愛に至るため、清められ、苦しみを通過することになることを言われました。

人は、自分の罪の悔い改めとまた赦しを通して、真の愛に辿り着くことができます。間違いや罪をそのままにして、ただ赦していればいいという方法では、決してお互い学ぶことはないし、悪の容認がさらに悪の容認に陥ります。

お互い相手の主張に耳を傾け、自分の過ちを認めて悔い改めて、初めて真に一つになることができます。

この地上でいつもそのような状態でいれるということは難しいですが、愛情深い天の父は、私達が主に近づくこと、愛を学ぶこと、聖なる者となる道を歩むことを望んでおられ、そのために、お互いの違い、意見の違いをよく使われるのです。

イエス様は、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。」と言われました。うやむやのごまかしや偽りの平和の維持ではなく、火を通しての清めと試練を通しての真の平和がもたらされるためです。(ルカ12:49)

イエス様は、暴力に訴えることを言っているわけではないことは明らかです。

イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。 

(マタイ 26:52-53)

私達は、肉で戦う必要はありません。必要とあれば、神は一瞬にして状況を変えることができるのです。私達の戦いは霊の戦いです。

最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。

悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。

また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

(エペソ 6:10-17)

お互いの間に怒りをもたらし、冷静さを失わせるのは敵の策略の一つです。それは私達自身の武具に割れ目があるようなもので、敵はその私達の弱点を知っていてそこを突いてきます。私達はそのような武具の割れ目を塞がないと、将来ますます激しさを増す戦いにおいて勝利を得ることはできません。

私達の思い通りにいかないように見えたからといって、憤慨したり、肉の力に訴えたい衝動に駆られるというのは、もともと自分がかなり肉的であったことを明らかにしているに過ぎない場合があると思います。主に召された者のゴールは、主の祈りにあるように、主の御名があがめられること、御国がくること、御心が天になされるように、地にもなされることです。私の国、あるいは私がこれが理想で完璧だと思い込んでいる国ではないのです。

たとえ気に入らない相手、あるいは明らかに悪人がそのしたい放題のことをしているように自分の目に見えても、主には人の心も状況も変えることができます。そして全てを共に働かせて益にすることができます。敗北のように見えるものの中から勝利を得ることができます。しかも、必要とあれば短時間で。

主の能力や、主の知恵を疑うよりも、まず自分の心の内に主に対する愛と信頼の欠如がないかどうか吟味することがまずすべきことではないでしょうか?

心を尽くして、自分の心を吟味し、心を尽くして主に信頼し、愛するのを主が助けて下さいますように。

主のもろもろのあかしを守り心をつくして主を尋ね求め、 また悪を行わず、主の道に歩む者はさいわいです。 

(詩篇 119:2-3)

心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 

(箴言 3:5-6)

正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。悪しき人の道は暗やみのようだ、彼らは何につまずくかを知らない。

わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。それを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。

油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。

(箴言 4:18-23)

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