神がコントロールしている パート1
God Is In Control
ホワイトハウス報道官、ケイリー・マクナニーの昨日のツイッターに一言、こう載せられていました。その前に彼女は、選挙開票に伴う混乱が収まるため、祈りを呼び掛けるツイッターを載せていました。
彼女は、クリスチャンで、自ら祈りをもって主に依り頼み、またフォロアーたちにも祈りの呼びかけをしています。こうした、切羽詰まった際に、祈って主を求める信仰の人達を見ると、とても励まされます。
誰が、当選するかという以上に、主を求めているなら、そしてそれが危機における祈りであればあるほど、真摯な祈りでしょうし、主は悩める時のいと近き助けとなられるので、主がきっと善きにして下さるに違いないと、見ている同じクリスチャンとして、ほっとしました。
私は、福音を伝えるイエスのあかしびととして、聖書の真理を伝えたいと思っています。しかしこの聖書の神は、ただ聖書の文字の中に閉じ込められているものではありません。聖書の神は、この世界を創造され、この世界の中で生きる私達を愛して下さっているのです。もちろん、この現在の混沌とした状況の中で四苦八苦している一人ひとりを愛しておられ、それぞれのための知恵ある御計画を持っておられます。
神は今も、生きておられ、人々の叫びに耳を傾け、見守り、介入して下さっていると私は信じています。
ただ教会の会堂の中で崇められるだけの存在ではありません。どこにいても、まだ神を知らない人達のためにも語り掛け、また成長させて下さっておられるのです。
神の御子としてこの地上を歩まれたイエス様が、ガリラヤ湖畔で網を繕っていた漁師に語り掛けました。彼の生きた言葉は、湖畔で、山の上で、街中で、井戸端で、通り過ぎる道端で語られました。あらゆる種類の人に、すべての人に対する神の愛として、イエス様は声をかけられ、人々の必要に応えられたのです。
イエス様は、当時の腐敗した指導者らにも語りました。実は、その国の民を助け、導き、仕えるために存在しているはずの指導者らは自分達の地位、権力、財力を使って、人々をさらに搾取し、自分達の都合のために抑圧された状態にとどめようと騙していたのです。
当時権力を持っていた宗教指導者らにイエス様は、こう語りました。
…あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。
(マタイ 23:13)
神は、どれだけこの世の人を愛しているかを示すために、御自身の使者達をつかわしましたが、人々が真理に目覚めるのを妨げる勢力がいつもありました。神がどれだけ自分達を愛して下さっているかを示されるために、イエス様は神より使わされたのです。またその前にも後にも、このイエスこそ神よりつかわされた者であることを証する人達も使わされましたが、人々は、彼らをあざけり、イエスと同じように拒絶し、迫害しました。
…わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう。
(マタイ 23:34)
権力をいったん持つと人は、それにしがみつこうとします。そして真理を見出そうとする人たちを欺き、自分達の都合の良いシナリオを教えこもうとするのです。残念ながら、それが人類の罪がはいった状態です。アダムとイヴが神の戒めに背いた時、最初にし始めたのは、神から自分を隠し、また自分を覆い隠したことです。そして欲に駆られてなされた殺人、掠奪、抑圧などの様々な悪事がなされ、悲惨な時代を人々は通ってきました。
しかし、神は、そうした人類の罪に染まって陥ってしまった状態に対して救いの御計画をお持ちでした。
それがイエス・キリストの十字架の贖いのわざです。全人類の罪をご自身の体に受けてそれを十字架につけてしまわれたのです。そして私達が罪の奴隷状態から解放して下さいました。私達は、古い自分の殻から解放され、よみがえったイエス様の御霊を受けて生きることができるのです。
このイエス様の十字架と復活は、2000年前の歴史の事実ですが、イエスをよみがえらせた神は今もなお、この時代に生きる私達を愛して、私達に働きかけて下さっているのです。
そして、今世界に大きな影響を与えているこの米国大統領選挙においても、神様は働いておられ、人々の心を探り、また語り掛けようとしておられるのです。
この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。
また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、
また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。
こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。…
(使徒行伝 17:24-28)
神は私達に近くあり、私達は、神の中に生かして頂いているのです。神は死んだ神ではありません。神のみ旨を行おうとする者には、神がしておられることがわかります。
神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。
(ヨハネ 7:17)
残念ながら、当時の宗教指導者らの多くは、自分達の知識では、イエス様が神よりのものであるとは理解できませんでした。彼らのすでに頭の中に植え付けられていた宗教概念が、イエス様が神よりのものであるはずはない、という決めつけに陥らせたのです。彼らは、自分達は、神についてもう知っているという傲慢さに捉われていたため、神様は、そうした高ぶった人達を退け、へりくだった罪びとに真理を明かされました。
宗教指導者の中でも、真理に対してオープンになり、調べる前に決めつけることは神の御心ではないと思っていた人もいました。そうした数少ない人の一人、ニコデモは、イエス様が神よりの者ではないと決めてかかっているのに対してもっと慎重な態度をとるべきだと主張しました。
彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、 「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。
(ヨハネ7:50,51)
しかし、ニコデモのこうした主張は、簡単に却下されます。
彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。
(ヨハネ 7:52)
この結論は、間違いです。英国神学者アダム・クラーク氏は、彼のこの箇所についての註解で、預言者ヨナ、および預言者ナホムは、ガリラヤ出であるので、彼らの言っていることは間違いであると主張しています。(Adam Clarke’s commentary on the Bible John7:52)
「…イスラエルの神、主がガテヘペルのアミッタイの子である、そのしもべ預言者ヨナ… 」
(列王記下 14:25)
<ガテヘペルGittah-hepher はガリラヤにあります>
「調べてみなさい」とニコデモに半分「おまえも(田舎の)ガリラヤ出(イエスが弟子たちを得ていた所)か」と言い捨てた宗教指導者らこそ、よく調べてみる必要がありました。
頭から決めてかかった宗教指導者らは、イエス様が罪びとらと食事をし、安息日を破り、田舎のガリラヤ出であるのを見て(何よりもその人気に嫉妬して)、ニコデモの正当な主張を跳ねのけてしまいました。
そして、人々はおのおの家に帰って行った。
(ヨハネ 7:53)
この時、もしパリサイ人(当時のユダヤの宗教指導者ら―聖書に精通していることになっていた人達)が、自ら謙遜になって聖書を調べ、またニコデモの主張したように、「…まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上で」さばいていたら、結果は異なっていたでしょう。
イエス様ご自身、こう語られました。
「…うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。
(ヨハネ 7:24)
「もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。 しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。
(ヨハネ 10:37-38)
<次のページに続く>
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