普遍救済論への反論 I <i>
自由意志と神のかたち
質問 #1:
ボブ先生
先生の働きに感謝いたします。その働きを通して、私は多くの助けを受けてきました。普遍救済論(すべての人が救われるという教え)について、ご意見をお聞かせいただけますか。最近、ある知人が、「聖霊から、普遍救済論が真実であることを示された」と言いました。そして今では、だれも永遠に苦しむことはないのだから、心に平安があると言っています。また彼は、神が人を永遠に罰するなどという考え方は誤りであるにもかかわらず、そのような神をまるで怪物のように描いているとして、ほかの人々を批判しています。彼は、自分の主張を裏づけるために聖書を引用し、私も自分の立場を裏づけるために聖書を引用しています。私が一番強く反論するのは、「イエスはそのようなことを教えられなかったのだから、私たちも教えるべきではない」という点です。イエスは、ご自分が言われたとおりのお方であると信じなければ、私たちは決して御国に入ることはできないと、一度ならず語っておられます。先生なら、この問題にどのように対処なさいますか。お返事を楽しみにしております。
返信 #1:
お便りをありがとうございます。また、励ましに満ちたお言葉にも心から感謝いたします。ご質問についてですが、まず申し上げたいのは、あなたはこの問題にまさに正しい方法で対処しておられる、ということです。すなわち、聖書にしっかり立っているということです。そして聖書は、この恐るべき異端の教えを、断じて教えてはいません。実際のところ、「何があっても、すべての人が救われる」という意味に受け取ることのできる聖句を、私は一つとして思い浮かべることができません。信者であれ未信者であれ、理性的な人なら、そのように読むことはないでしょう。その一方で、私たちには火の池(マタイ25章41節; 黙示録20章10節。参照:イザヤ24章21-22節, 27章1節, 34章4節; エレミヤ10章11節; エゼキエル28章18-19節; ダニエル4章35節; ヨハネ16章11節; 第一コリント6章3節)、最後のさばき(黙示録20章11-15節。参照:黙示録14章10-11節, 21章27節, 22章15節)、羊と山羊(マタイ25章)、そして少なくともある人々は救われないことを明確に示している数多くの聖句があります。実際、人が生まれながらに罪に定められていることは、聖書が教えているだけではありません(ローマ3章23節)。それは、人は皆、だれでも身体の死を迎えるという事実から、すべての人が直感的にも理解できる、きわめて明白なことです。そして身体の死は、アダムとエバの子孫である私たちの内に流れている罪の直接の結果であることも、容易に理解できます。私たちは皆、罪を犯します。そして私たちは皆、死にます。ですから、もし自分自身に正直であるなら、死後に創造主の御前に立つ時、自分を弁護するために何一つ言えることがないと、心の奥ではよく分かっています(なぜなら、完全に聖なる神の御前では、私たちにできるどんなことも、たった一つの小さな罪さえ消し去ることはできないからです)。だからこそ、イエス・キリストの福音は、これほどまでにすばらしい知らせなのです。それは、私たちの肉による誕生から必然的に導かれる結論、すなわち義なる神による罪の宣告を免れることのできる唯一の道だからです。もし本当に、すべての人が何の条件もなく救われるのであれば、そもそもなぜ身体の死が存在するのでしょうか。なぜ私たちは皆、この身体のままで、この地上に永遠に生きることが許されないのでしょうか。さらに言えば、もし神が、信仰とは無関係にすべての人を救うことがおできになり、実際にそうなさるのであれば、そもそもなぜキリストは死ななければならなかったのでしょうか。もし、すべての人が自らの信仰による選択とは無関係に救われるのであれば、その信仰が向けられる対象となるために、なぜキリストが死ぬ必要があったのでしょうか。この誤った考え方では、神は罪人の態度とは無関係に罪を赦しておられることになります。それは、神ご自身の義が求める要求を覆してしまうことにほかなりません。それなら、いったい義を気にする必要がどこにあるのでしょうか。それなら、十字架そのものを忘れてしまってもよいことになってしまうではありませんか。
しかしもちろん、神の完全な義は否定しようのない事実であり、罪が赦されるためには、その義が満たされなければなりません。そしてもちろん、その赦しにあずかるためには、私たちはその赦しを求めなければならず、それを受け入れなければならず、それを信じなければなりません。すなわち、イエスと、十字架で死ぬことによって私たちのために成し遂げてくださった御業とを信じなければならないのです。もし私たちがそのお方を拒むなら、それがどうして罪でないと言えるでしょうか。そして、罪のために死なれたお方を拒むという罪を償うことが不可能であるにもかかわらず、なお神が私たちに永遠のいのちを与えられるとすれば、それは実質的に、神が罪を永遠の世界に持ち込まれることになり(それによって、すべてが再び汚されることを許されることになります)。神は、赦しを求める者を赦されます。信者が自分の罪を告白するなら、その人は赦されます(第一ヨハネ1章9節)。しかし、告白しようとしないなら、そうではありません。もし兄弟が私に対して罪を犯し、その後で私のところへ来て悔い改めるなら、その人が何度そうすることになっても、私はその人を赦すよう命じられています。しかし、悔い改めないなら、その限りではありません(マタイ18章22節)。赦しとは、ほとんど定義そのものとして、双方に関わるものなのです。永遠の救いという点において、神が私たちのためにすべてを成し遂げてくださったことは確かです。キリストは私たちの罪を取り除くために死なれました。そして実際、全世界の罪のために死なれたのです。しかし、神がなさらなかったことが一つあります。それは、私たちの自由意志を取り去ることです。神は、ご自身を受け入れるか拒むかという決断を、私たちに代わってなさいませんでした。救いへの門は開かれています。私たちに求められているのは、その門をくぐることだけです。私たちがしなければならないことは、「いいえ」と言わないことだけなのです。しかし、それでもなお、救いには信仰という行為が必要です(それは、神のかたちに本来備わっている自由意志の本質であり、私たちがこの地上で行使するよう与えられているものです)。もし救いにこの信仰の行為が必要でないなら、実質的に私たちはもはや自由意志を持っていないことになります。なぜなら、この人生で最も重大な問題、すなわち「あなたはイエス・キリストにどう応答するのか」という問いに対して応答しようとしまいと、まったく違いがなくなってしまうからです。自由意志がなければ、私たちは犬や猫と何ら変わりません。自由意志がなければ、この人生において何一つ重要なものはなくなります。なぜなら、私たちはまさに自由意志を行使するために――まず救いという問題において、そしてその後の人生のあらゆる面へと広がっていくその自由意志を行使するために――創造されたからです。しかし、神を選ばないことに何の結果も伴わないのであれば、真に永遠に関わる本質的な選択が存在しない以上、実質的に真の自由意志も存在しないことになります。神がそもそも人類を創造された目的全体は、この自由意志にあります。それは御使いたちに対して神の義を示すためです。神は、救うことにおいても、罪に定めることにおいても義であり、そのどちらにおいても比類なく公正なお方です。サタンはあわれみを選ぶこともできましたが、反逆にとどまり続けました。人類もまた、ある者は神を拒みますが、生まれながら罪のゆえに神から引き離されている私たちの中にも、神のあわれみの申し出を喜んで受け入れ、神を選ぶ者がいることを示しています。しかし、もしその選択に何の意味もないのであれば、そもそも私たちが存在する必要は何だったのでしょうか。そして、もしその選択に意味がないのであれば、なぜ私たちは選択するよう求められているのでしょうか。なぜ私たちは、その選択をするよう命じられているのでしょうか。
実際、神は目的をもって人間を創造されました。それは、人間が神に応答することによって神に栄光を帰すためです(これこそ「神のかたち」の本質的な意味です。聖書の基礎第3部A「神のかたちと似姿」<英文>を参照してください)。そしてイエスは、御使いとなられたのではなく(へブル2章16節)、私たちと同じ人間となられました。それも決して無意味なことではありません。御子が肉体を取って来られたことが、どれほど驚くべき、すばらしい賜物であるかを思う時、私たちはただ驚嘆するほかありません。それは何という選択だったことでしょう。イエスは、私たちのためにそうする必要はありませんでした。歴史上最も困難な人生を歩み、あれほどの苦しみを受ける必要もありませんでした。そしてもちろん、私たちのために十字架へ向かわれ、暗闇の中に入り、全世界のすべての罪のために――とりわけ、信じる私たちのために――地獄の火をその身に受ける必要もありませんでした。これらはすべて、ご自身の選択だったのです。そして、私たちの模範として、イエスは私たちが歩むべき道を残してくださいました。それは、まず救いにおいて神を選び、その後も日ごとに神を選び続ける道です。なぜでしょうか。それは、その選択に何の違いもないからでしょうか。決してそうではありません。その選択が、すべてを決定づけるからです。それは、この世界を超えた違いをもたらします。すなわち、自ら選んで従ったお方の御前で永遠のいのちを得るか、それとも、自らの選択によって拒んだお方の御前から離れて永遠の死に至るか、その違いです。人間の人生からあらゆる結果を取り去ってしまうこと(そして、この偽りの教えがまさにそうしていること)は、人間からその本質と存在目的を奪い去り、神が人類の歴史を通して行ってこられたすべてのこと、とりわけイエス・キリストの十字架を、まったく無意味なものにしてしまいます。もしキリストの御業を受け入れなくてもすべての人が救われるのであれば、そもそもキリストの御業は、いったい何のために必要だったのでしょうか。
近ごろ、この特定の偽りの教えが広まりつつあることは、私には実に驚くべきことです。しかし私は、その背景には、自ら重大な罪に関わりながらも、良心の要求に従おうとせず、そのままでいたいと望む個人や集団が少なからず存在することがあるのではないかと思っています。そのため彼らは、神学的にもっともらしく聞こえる「いちじくの葉」で真理を覆い隠そうとしているのです。また、これは教会時代全体の霊的状態が嘆かわしいほど衰えていること(終わりの時代のラオデキヤ)とも大いに関係していると思います。そしておそらく、艱難期が始まる時に大きく花開く背教を推し進めるための、悪魔による準備の一部でもあるのでしょう。というのも、ひとたび普遍救済論が受け入れられるなら、もはや結果を恐れる必要も、守るべき基準もなくなってしまうからです。そして、いったん「何でもあり」になってしまえば、目に見える教会を獣の宗教へと変えていく道のりにおいて、大きなものから小さなものまで、また巧妙なものから露骨なものまで、さまざまな変化を教会に持ち込むことは、はるかに容易になります(参照:来たる艱難期第3部A「艱難期の偽宗教の説得力」<A5版印刷本134頁->、および来たる艱難期第4部「反キリストの宗教とその世界的拡大」<リンク先A4ファイルでは44頁- / A5版印刷本では91頁->)。この問題については、次の箇所もご参照ください。
最後の審判と白い大きな御座<英文>
背教と死に至る罪<英文>
もちろん、この問題については、反論の余地のない聖書箇所も数多くあります。最後に、そのいくつかを挙げておきます。
(2) 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥と永遠の〔神からの〕断絶に至る。(ダニエル12章2節)
その時、あなたがたは再び、正しい者と悪しき者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。(マラキ3章18節/NIV訳)
「このことに驚いてはならない。墓の中にいる者がみな、その声を聞いて出て来る時が来るからである。善を行った者は、いのちを受けるためによみがえり、悪を行った者は、罪に定められるためによみがえるのである。」(ヨハネ5章28-29節/NIV訳)
わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者には、その者をさばくものがある。わたしの語った言葉、それが終わりの日にその者をさばくのである。(ヨハネ12章48節)
もし耐え忍ぶなら、私たちは彼とともに支配するようになる。もし彼を拒むなら、彼もまた私たちを拒まれる。(第二テモテ2章12節/NASB)
(6) また御使はわたしに言った。「事は成就した。わたしはアルファでありオメガである。初めであり終わりである。渇く者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。(7) 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(8) しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を行う者、偶像を拝む者、またすべて偽りを言う者たちは、火と硫黄の燃える池に入れられる。これが第二の死である。」(黙示録21章6-8節/NIV訳)
初めに光を受けた後、苦難の中で激しい戦いに耐えたあのころの日々を思い起こせ。あなたがたは、人々の前でそしりと苦しみを受けて見せ物にされることもあれば、そのような目にあった人々と苦しみをともにすることもあった。また、牢に入れられた人々と苦しみを分かち合い、自分たちの財産が奪われても、それを喜んで受け入れた。自分たちには、もっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたからである。だから、この確信を捨ててはならない。それは大きな報いをもたらすからである。あなたがたには忍耐が必要である。神のみこころを行い、約束されたものを受けるためである。もうしばらくすれば、来られる方は来られる。決して遅れることはない。「わたしの義人は信仰によって生きる。しかし、もし退くなら、わたしの心はその者を喜ばない。」しかし、私たちは滅びに至る臆病な背教に属する者ではなく、〔永遠の〕いのちに至る信仰を持つ者である。(へブル10章32-39節)
もし彼らが、私たちの主であり救い主イエス・キリストを知ることによってこの世の汚れから逃れた後、再びそれらに巻き込まれて打ち負かされるなら、その終わりの状態は初めよりも悪くなる。義の道を知っておきながら、自分たちに伝えられたこの聖なる命令〔すなわちキリストへの信仰〕から背を向けるくらいなら、初めからそれを知らなかったほうがよかったのである。彼らについては、「犬は自分の吐いた物に戻る。また、洗われた豚は泥の中に転がる」ということわざが、そのとおりになったのである。(第二ペテロ2章20-22節)
御子を持つ者はいのちを持っている。神の御子を持たない者はいのちを持っていない。(第一ヨハネ5章12節)
イエス・キリストの真の信仰を勇敢に守っておられることに感謝いたします。
キリストにある戦友より
ボブ・L
ひとしずく5227 質問と答え-30
普遍救済論への反論 I <ii>
質問 #2:
ボブ先生
最近、パウロの書簡はすべて偽作であり、彼は「自称」の使徒にすぎなかったと主張する人たちに何人も出会いました。そこでGoogleで調べてみたところ、この問題についてかなり多くの資料があることが分かりました。私は、このような話を聞いたのは初めてです。私は、聖書は神がまさに望まれたとおりのものであり、それゆえ神が私に知ってほしいと望まれたことを正確に教えてくれるものだという結論に至りました。ですから、そこに記されているすべてのもの――パウロの書簡も含めて――は「神の息吹を受けた」ものだと信じています。また、地獄など存在しないと信じている人も大勢います。人々が、自分たちの望む意味になるように聖書を解釈していることには、本当にあきれてしまいます。私にはまったく理解できません。
キリストにあって
返信 #2:
インターネットというものは実に驚くべきものです。それは、良いものを広く伝えることを可能にしています(この働きもその一つであるよう、私は願い、祈っています)。しかし同時に、あらゆる種類の偽り、欺き、さらには目に余る不道徳まで広く拡散することも可能にしてしまいます。まず最初のご質問についてですが、この種のたわごとは私はこれまで一度も聞いたことがありませんでした。その動機についてはいくつか思い当たることがありますが、聖書にほんの少しでも敬意を払う人が、このような説をどのような根拠で唱えられるのか、私にはまったく理解できません。ローマ・カトリック教会でさえ、ここまで極端ではありません。そして、私の知る限り、どの新約聖書にもパウロの書簡は収められています。異端やカルト集団(例えばエホバの証人)が作成した奇妙な版でさえそうです。実際、初代教会において異端的に聖書を書き換えようとした試みの中でも、パウロは常に「採用されていました」(たとえばマルキオンの場合のように)。要するに、パウロ書簡を真正なものではないとして除外する本文上の根拠は何一つありませんし、教会史上の重要な人物でそのような主張をした者がいたという歴史的証拠もありません(実を言えば、私は「重要でない人物」でさえそのようなことを言った例を知りません)。もちろん、このばかげた考えを弁護できるような神学的議論も存在しません。使徒は十二人です。そしてユダはその一人ではありません。では、第十二の使徒とは、いったいだれなのでしょうか。「マッテヤです」と答える人もいるでしょう。しかしその場合、その人は、使徒の働きに記されているマッテヤの選出が、人間的な判断によって第十二の使徒を決めた誤った出来事であったことを認めなければなりません(「マッテヤ」を参照)。そして皮肉なことに、その記録自体が、パウロの書簡以上に、パウロこそ真の第十二の使徒であったという主張を裏づけているのです。要するに、この事実に疑問を投げかけるなら、私たちは初代教会史全体と新約聖書全体を聖なる書物として捨て去り、その代わりに「歴史の再構築」や「非神話化」に取り組み、「歴史上のイエス」の「真の」メッセージや、初代教会で「本当は何が起こったのか」を再構成する作業を始めなければならなくなります。つまり、私たちは信者であることをやめ、初代教会史の一部分を学問的興味から研究するだけの、不信仰なリベラル歴史家になってしまうということです(しかも実際には、本物の古代史研究者なら顔をしかめるほど偏った基準によってですが)。
しかし、そのような主張の動機については、少なくとも三つほど思い当たります。第一に、先ほども述べたように、悪魔の支援を受けた聖書への攻撃は、常にあらゆる方向から行われています。サタンは絶えず聖書への信頼を揺るがそうとしており、これまでも、そしてこれからも、さまざまな人々とさまざまな議論を用い続けるでしょう。私たちが主について知っていること、被造世界が明らかに示している神の存在という事実を超えて持っているすべての真理は、聖書から来ています。悪魔は、一人のクリスチャンの心にほんのわずかでも疑いを忍び込ませることができれば、その分だけ目的を果たしたことになります。なぜなら、信仰を弱め、真理とは何かについての理解を不安定にすることによって、少なくとも霊的成長を妨げることができるからです。
第二に、ローマ・カトリック信者は本来なら教会の方針に忠実に従うことになっていますが、少なくともこの国では、自分勝手な考え方をする人が少なくありません。そしてインターネットは、そのような「暴走者」たちに発言の場を与えてしまいました。ローマ教会の首位権を何としても擁護したい人にとって、パウロをおとしめることは確かに都合がよいことです。ローマ・カトリック教会は、公式には聖書を権威のかなり下位に位置づけています(これは、彼らの教え全体が誤っていることを示す最も重要な証拠です)。もっとも、一応は聖書を尊重する姿勢を見せています。しかし、実際には聖書を重んじていない以上、もし私が教皇権至上主義の過激な支持者であったなら、自分の目的に役立つのであれば、聖書のかなりの部分を捨て去ることにも何のためらいもないでしょう。教会の土台はイエス・キリストであることは明らかです(第一コリント3章11節。参照:マタイ7章25節; ルカ6章48節)。また、すべてを支える隅のかしら石であり(エペソ2章20節)、すべての基礎となる岩です(ローマ9章33節)。そして、このことはペテロ自身も明確に述べています(第一ペテロ2章8節)。しかし、ペテロだけが「最高使徒」であり、その唯一の教会支配権が歴代教皇へと受け継がれたという考え方は、新約聖書の正典を見るだけで成り立たないことが明らかです。パウロ書簡は、冊数においても神学的内容においても新約聖書の中心を占めているからです(「だれが見ても明らか」なことです)。ですから、実際に聖書を読む人々に対しては、ペテロを擁護する最も都合のよい方法は、パウロを中傷することなのです。すでにローマ・カトリックの立場を受け入れている人には問題になりませんが、弁証や論争の場では、そのような議論を用いる人がいても不思議ではありません(もし聖書や真理を少しも尊重していないならば――そして残念ながら、そのような場合は少なくないのです)。マタイ16章18節の「この岩」がペテロではなくキリストを指していることについては、「岩なるキリスト」をご覧ください。
第三に、新約聖書の著者の中でも、同性愛という行為を最も明確に罪として非難しているのがパウロであるという事実があります(傾向そのものではありません。私たちは皆、それぞれ異なる形で誘惑を受けますが、誘惑に屈して初めて罪となるのです。「政治活動と聖書的キリスト教」の質問#3をご覧ください)。特にローマ1章24-27節と第一テモテ1章9-10節をご覧ください。これらの箇所を正当な釈義によって別の意味に解釈することは到底できません。それなら、それらを取り除いてしまえばよい、というわけです。ローマ書や牧会書簡を正典から除外する合理的な根拠はまったくありません。それなら、パウロそのものを教会から追い出すか、あるいは彼は「本当の使徒」ではなく「自称の使徒」にすぎないとして、その著作すべてを退けてしまえばよい、という発想になるのでしょう。しかしもちろん、パウロを使徒として任命されたのはイエスご自身です(使徒行伝9章3-9節, 22章6-11節, 26章13-18節)。もっとも、そのためには使徒行伝まで捨て去らなければなりませんが。そしてもちろん、私たちが聖書を「神の息吹を受けたもの」と呼ぶ唯一の根拠そのものが、聖霊の導きの下でパウロが記した言葉なのです(第二テモテ3章16節)。
パウロが正当な使徒ではなかったとか、彼の書簡は偽作であるなどと主張する動機は、ほかにもいろいろあるのでしょう。しかし、そのような説を支持する証拠はまったく存在しません。そして実際には、そうした議論は表面的な仕組みを論じているにすぎず、その背後にある真の原因は一つです。すなわち、神によって霊感を与えられ、神によって計画され、神によって権威づけられた聖書という真理の源そのものに疑いを抱かせることによって、信者の心に疑惑の種をまこうとするサタンの企てなのです。
もう一つのご質問についてですが、そのとおりです。これもまた、近ごろ広まりつつある「流行の異端」の一つです。過去二十年ほどの間、このような主張を真剣に唱える人のことは聞いたことがありませんでした。しかしここ数年で、この問題は「大きな話題」になっています。もちろん、これはまったくばかげた考えです。もし選択というものが存在しないのであれば、人間の人生に何の意味があるのでしょうか。私たちがここに存在する理由は、まさに選択にあります。私たちは、悪魔とその反逆に対する神の答えとして、神の愛と恵みのうちに創造されました。すなわち、サタンとその仲間たちがそうしなかったとしても、自由意志を持つ被造物の中には、あわれみ深い神が差し伸べられる和解の申し出に応答する者がいることを示すためです。それこそが、私たちが神のかたちと似姿に造られた本当の意味です(サタンの反乱第3部「神のかたち」を参照<リンク先ファイルでは9頁-/A4印刷本では96頁-参照下さい>)。創世記(園と堕落)から黙示録(獣と龍)に至るまで、聖書は、この地上で本当に起きていることの多くが、私たちの目には見えない御使いたちの戦いと深く関係しており、私たちの目に見える出来事とは実際にはそれほど関係がないことを、終始一貫して明らかにしています。御使いたちは私たちを見守っています(サタンの反乱第一部「天使たちの観察」<リンク先ファイルでは9頁-/A4印刷本では11頁-参照下さい>、および ペテロ・シリーズ#22「御使いたちは私たちを見守っている」<リンク先ファイルでは7頁-/A4印刷本では176頁->を参照)。もし私たちの選択に何の意味もないのであれば、なぜ彼らは私たちを見守るのでしょうか。また、「一人の罪人が悔い改めるなら喜びがある」(ルカ15章10節)と言われるのはなぜでしょうか。まさにそこに、この異端の欺きの本質があります。つまり、「この人生で私たちが何を行い、何を信じても何の違いもない」と人々に思い込ませようとしているのです。
しかし実際には、私たちの選択は、この上なく重大な違いを生みます。信者にとって、自分の下すすべての決断には結果が伴います。私たちは救われた後、霊的に成長し、その後ほかの人々が同じように成長するのを助けるという目的のために、貴重な時間を与えられています。その機会をどれだけ生かしたかが、私たちの永遠の報いの基準となるのです。しかし、もしこの地上で何をしても違いがないのであれば、なぜ私たちは報いを受けるのでしょうか。また、なぜそれを気にする必要があるのでしょうか。そして、もし信じるかどうかという最も重大な決断さえ意味がないのであれば、それより小さな決断に、いったいどのような意味があるのでしょうか。もし神が御子を受け入れるか拒むかを問題になさらないのであれば、なぜ神は、その後の報いにおいて信者の間に違いを設けられるのでしょうか。いや、義なる神がそのような区別をなさることなど、どうして可能でしょうか。
ですから、この恐るべき偽りの教えは、たとえ部分的にでも信じられるなら、二重の壊滅的な害をもたらします。それは、未信者に「イエスのもとへ行かなくてもよい」という偽りの安心感を与え、信者には「罪に陥っても永遠のいのちは危険にさらされない」という危険な誤った考えを抱かせるだけではありません。同時に、あらゆる積極的な霊的成長と奉仕を弱らせてしまうのです。というのも、普遍救済論が本当に伝えているメッセージは、「何一つ重要なことはない」ということだからです。もしそれが本当なら、私たちが行っていることはすべて完全に無意味になってしまいます。しかし実際には、それは真理とは正反対です。主の御名によって差し出された一杯の冷たい水でさえ報いを失うことはなく、私たちは、自分が「この体を通して」行った善であれ悪であれ、すべてが評価され、その結果に応じて報いを受けると約束されています。また、この人生で成し遂げた良い決断と良い行いを記念するものとして、信者としての成功の度合いに応じて永遠の冠が与えられるとも教えられています。これらはどれも、きわめて重大な意味を持つことです(「奉仕には報いがある」を参照)。ですから、なぜサタンがこの異端を広めようとするのかは、容易に理解できます。この教えには、前進しようとしているすべてのクリスチャンの意気をくじき、多くの人々を信仰から遠ざけ、あるいは信仰そのものを失わせる力があるからです。
しかし、あなたの信仰が堅固で力強く、「あらゆる偽りの教えの風」に吹き回されたり、惑わされたりしていないことを知り、本当にうれしく思います。
私たちの主にあって――マラナ・タ!
ボブ・L
普遍救済論への反論 I <iii>
質問 #3:
私たちが神のかたちに造られているということは、神との関係にどのような影響を与えるのでしょうか。また、それは私たち自身についての見方にも影響を与えるのでしょうか。
返信 #3:
私たち人間が造られた「神のかたち」は、神との関係において実に決定的な意味を持っています。私たちは動物とは異なり、自由意志を持っています。すなわち、神を選び、自分の意志ではなく神のみこころに従い、自分自身を喜ばせるのではなく神を喜ばせる選択をすることができます。それこそが「神のかたち」の本質なのです。そして、この意味において、私たちは神に最も似た者となっています。もちろん、それは何らかの本来備わった力という意味ではありません(人間ほど無力で、はかない存在がほかにあるでしょうか)。そうではなく、道徳的な判断に基づいて選択を行う能力と機会、そして実際にそうする責任においてです。その中でも最も重要なのは、私たちの罪のための神の犠牲、すなわち私たちの主であり救い主であるイエス・キリストを受け入れ、その結果として神と、そしてイエスとともに永遠に生きる永遠のいのちを得るという決断です。「神のかたち」がなければ、私たちと神との関係は、神が造られた動物たちとの関係と変わらないものになっていたでしょう。しかし、「神のかたち」があることによって、私たちと神との関係の本質と質は、私たちがどれほど神に応答するかによって大きく左右されます。なぜなら、私たちは「神のかたち」によって神に応答する能力を与えられており、それも一人ひとりが個別に応答することができるからです(これが「似姿」の意味です。下記リンクをご覧ください)。実際に神に応答する人はいます。しかし、心を尽くし、情熱をもって、しかも一貫して応答する人はごくわずかです。残念ながら、その道は狭く、それを見いだす者は少ないのです。この事実は、人の心に宿る頑なさがいかに深いものであるかを物語っています。
二つ目のご質問についてですが、その答えも「はい」です。私たちは自由意志によって神に仕え、神に応答するように造られているので、そのように生きている時だけ、本当の幸福と満足、そして完全さを味わうことができます。大きなことであれ小さなことであれ、神のみこころではなく、自分が幸福だと思うものを優先して選択するなら、その分だけ私たちは実際にはますます不幸になっていきます。そして、幸福感も自己像も(もし自分自身を正しく見つめているなら)、必ず損なわれることになります。だからこそ、神への反対が強まれば強まるほど、心がますます頑なになることは避けられない結果なのです。それが積極的な反逆であれ、消極的な抵抗であれ、同じことです(「心の頑なさ」<リンク先ファイル/A印刷本「来たる艱難期第三部A: 艱難期の始まり」29頁-「c.背教のプロセス」>をご覧ください)。
この問題についてさらに詳しく知りたい方は、Ichthys の次のページをご覧ください。聖書の基礎第3部A:「神のかたちと似姿」<英文>
私たちが永遠に神ご自身とともに生きることができるよう、私たちのために死んでくださったお方、私たちの愛する主であり救い主イエス・キリストにあって。
ボブ・ルギンビル
質問 #4:
先生、こんにちは。
人間における神の似姿について、先生のお考えをお聞きしたいと思います。まず、私自身の考えをいくつか述べさせてください。
人間における神の似姿は、神ご自身との類似性のうちに見いだされるものであり、おそらく父、子、聖霊のさまざまな側面を表しているのだと思います。ある著者は、自分の人生を自分自身で主権的に支配しているという私たちの誤った考えは、私たちが神の似姿に造られていることの一種の証拠であると述べていました。なぜなら、神は主権者だからです。
もちろん、動物にはなく、私たちには備わっているものがあります。そして、それらは神の似姿に由来するものと思われます。
たとえば、私たちは考え、理性的に判断する存在であり、計画を立て、決定し、自分の考えを実行することができます。植物や動物のうち、来年のために計画を立てるものがあるでしょうか。また、どの動物が神から、自分の日々について考えるように、あるいは自分が生きている時代を知るように求められているでしょうか。どの動物が「わたしのもとに来なさい」と招かれているでしょうか。私の考えでは、これらは人間に神の似姿があることを示す証拠の一部です。
私たちは神との交わりを持つために、神の似姿に造られました。私たちは、ただ会話を交わすことができるだけでなく、考え、問いを発し、学ぶことができるように造られました。神が動物たちを<堕落前の-訳註>アダムのもとへ連れて来られた時、私たちのうちだれが、アダムのようにすべての動物に名前を付けることができたでしょうか。アダムが、神から与えられた知性と知恵そのものを用いて、すべての動物に名前を付けていくのをご覧になった時、神はどれほど喜ばれたことでしょう。アダムは神に似ていました。
神の似姿は、神の霊を通して与えられる私たちの永遠のいのちにも見られます。神が動物にいのちの息を吹き込まれたとは、一度も記されていないことに注目してください。それでも、人間的な言い方をすれば、動物たちも皆、生きていました。いのちの息、すなわち神の霊からのみ来る永遠の息であり、人間を永遠に存在する者としたその息は、神から来たものです。人間は理性的な魂であったかもしれませんが、神がいのちの息を吹き込まれた時、永遠に存在する魂ともなりました。人間は神に似ていました。
神のかたちは失われてしまったとはいえ、私たちは今なお、人間のうちに神の似姿の名残を見ることができます。
先生はどのようにお考えになりますか。
返信 #4:
はい、全般的に言えば、あなたの見解に同意します。そこからは、あなたがこの問題について深く考えてこられたことがうかがえます。これは、聖書に細心の注意を払うことが非常に重要なテーマです。教会史においては、このような問題の答えを何よりもまず聖書に求めるのではなく、憶測に走ったために誤りに陥った人が大勢いました。これもまた、私がかなり詳しく書いてきた主題の一つです。そしてこの場合、その教えはかなり詳細であり、議論もやや微妙なところがあるため、ここではごく一般的なことをほんの少し述べるにとどめます。
第一に、すべての人間は、神のかたちと似姿の両方を持っています(すなわち、神のかたちが「消し去られた」という説は誤りです)。これら二つの性質はいずれも霊的なものですが、同じものではありません。神のかたちとは、人間が選択という点において神の本質を映し出すよう、神によって造られているという事実を指します。私たちの自由意志は、まさしく神の主権を映し出すものであり、この自由意志こそが私たちを非常に特別な存在としているのです(同じように選択する能力を持つ被造物は、御使いたちだけです)。神の似姿とは、複数性という意味において、私たちが三位一体を映し出していることを指します。すなわち、神は三つの位格を持つお方である一方、人類は多くの個々の人格から成り立っています(したがって、この点においても、私たちは「神に似ている」のです)。この後者の類似性は、前者よりもさらに厳密な対応からは遠いものです。かたちの場合、私たちの自由意志は、神の主権的な御意志に応答するか、あるいはそれに反応することしかできません。似姿の場合、三位一体は本質において絶対的に唯一であり、それゆえ常に目的においても一つですが、人間同士は、肉体的にも霊的にも、それほど密接に結びついてはいません。したがって、かたち=神の御意志を映し出す自由意志、似姿=決定される三位一体を映し出す、選択を行う個々の人間の複数性、ということになります。
先ほど申し上げたとおり、この問題にはさらに多くの内容があります。そして、関係するすべての要素を理解するためには、創世記第三章のヘブル語の釈義をかなり深く掘り下げる必要があります。次のリンクをご覧ください(内容は本質的に同じものです)。
サタンの反乱第3部「神のかたちと似姿」<リンク先ファイルの9頁-/A4印刷本では96頁-参照下さい>
私たちの主イエス・キリストにあって。
ボブ・L
質問 #5:
ルギンビル博士、こんにちは。
御父が、私たちが御父を選んだことを承認される、と言うのが正確なのでしょうか。それともむしろ、御父が私たちを選ばれたことを確証される、と言うべきなのでしょうか。この二つは、同じことを異なる言い方で表しているのでしょうか。それとも、何らかの点で、あるいはあらゆる点で両立しないのでしょうか。
また、ここからほかの問題も必然的に生じてくるように思います。私たちを救う際の「仕組み」における神の順序については、どう考えるべきでしょうか(このことを指す神学用語があったと思いますが、思い出せません。堕落前予定説・堕落後予定説〔lapsarianism〕のことでしょうか)。この順序についてのさまざまな学派の見解は、救い、恵みによって守られることなどに関して、どのように異なる結論へと導くのでしょうか(神は、ご自身のご性質、本質、力によって私たちを守られるのでしょうか。それとも私たちは、自分自身の選択によって自分を守るのでしょうか)。先生は、どの見解が正しいとお考えですか。この問題は重要なのでしょうか。これらの主題のいずれかをすでに別の箇所で扱っておられるなら、先生のお考えをぜひ読んでみたいと思います。
敬具、キリストにあって
返信 #5:
もちろん、どちらも真実です(もっとも、ご指摘のとおり、公式の神学体系の大半は、この論争の一方か他方に陣取っています)。私たちは確かに、世界の創造以前に神のご計画の中で、変更されることなく選ばれています(神が私たちを選ばれたこと)。しかし同時に、救われるためには、この人生においてイエス・キリストへの信仰を通して神を選び、その信仰を最後まで堅く保たなければなりません(それに応答して私たちが神を選ぶこと)。この二つの命題はどちらも真実であり、聖書的です。そして、十分に機能する信仰生活を送るためには、どちらも受け入れ、理解することが不可欠です。一見矛盾しているように思えるとしても、それはあくまで見かけ上の矛盾にすぎません。神は時間の外に存在しておられ、時間にも空間にも、人間の論理の法則にも制約されません。そして、この三つがなければ、私たちが思索できる範囲は実に乏しいものです。私の以前の牧師がよく言っていたように、「神は、私たちがいつか考え、語り、行うことのすべてをあらかじめ知り、それをすべて、ご自身の包括的なご計画の中に組み込むだけの知恵を持っておられる」と言えば十分でしょう。これこそが、私たちには応答する責任があり、実際にそのための自由意志を持っているかのように――そして実際に持っています――語る聖書のすべての記述を十分に満たしつつ、同時に、神が世界の創造以前に私たちを選び、救いのためのあらゆる備えをなしてくださったこと、そして私たちはその選びのうちに完全に安全であるというすばらしい知らせとも矛盾しない、唯一の立場なのです。
これは、私の考えでは、書かれていることをはるかに超えて精巧な神学体系を構築することが、時間の浪費であるばかりか、霊的成長を大きく妨げる可能性さえある分野の一つです。選びにあまりにも重きを置くなら、そこから生じるのは偽りの安心感だけです。私たちはなお信仰を保たなければならず、怠慢な態度を取るなら、その信仰を危険にさらす可能性があります。反対に、自由意志にあまりにも重きを置くなら、「すべては自分次第なのだ」と考えるようになり、不必要な信仰の危機に直面することになります。しかし実際には、神は私たちのためにすべてをあらかじめ計画してくださっているので、私たちは、時の始まる前から選ばれていた者として、神の御腕の中で安心して憩うことができます。よくあることですが、真理はこの二つの命題のどちらをも手放そうとはしません(伝道の書7章18節<新改訳Ⅳ>参照)。この主題全般についてさらに詳しくは、次のリンクをご覧ください。
「神が私たちを選ばれたことは、私たちの自由意志を排除するのか」
「人間はサタンとその天使たちに取って代わるために創造されました」(サタンの反乱第3部)<リンク先ファイルの5頁-/A4印刷本では93頁-を参照下さい>
イエスにあって。
ボブ・L