不信仰とその結果

https://ichthys.com/mail-Unbelief%20and%20its%20Consequences.html

質問 #1:

ボブ先生。この論文をご覧いただけますか。この著者は先生の著作を引用しています。

返信 #1:

関係者の皆様

この手紙を、AIKサイトに掲載されたプルガル氏の2005年のインターネット論文 “Argument from Insufficient Knowledge of the Bible for the Nonexistence of the God of Christianity”(「聖書についての知識不足を根拠とする、キリスト教の神は存在しないという議論」)に関して、同氏へ転送していただければ幸いです。私の著作の一つが、その論文で引用されていることについてお伝えしたいことがあります。

どうぞよろしくお願いいたします。

ロバート・D・ラギンビル

プルガル様

拙稿『Read Your Bible(聖書を読みなさい)』を引用してくださったことに、私の読者の一人が気づき、そのおかげで私はあなたの論文へのリンクを知ることができました。私は普段、この種の議論に加わることはありません。人生は短く、時間は貴重だからです。ですから最初にはっきり申し上げますが、私の目的はあなたと論争することではありません。ただ、いくつか興味深い点をお伝えする必要を感じましたし、この機会に、私自身の学びと霊的益のために、一つ質問させていただきたいとも思いました。

まず申し上げたいのは、私の著作とこの働きichthys.comは、決して主流派ではないということです。もちろん私は、これらの研究が重要であり、また教派的伝統や偏見から離れて、聖書が実際に教えていることを正確に反映していると心から信じています。しかし、そのような独立性を保っている代償として、私はいかなる組織にも属さない立場に徹底しています。つまり、あなたが私の「聖書を読みなさい」という論文を引用される際には、一つ知っておいていただきたいことがあります。福音派の真剣なクリスチャンの多くは、その内容の大部分には賛成するでしょう。しかしその一方で、私の名前の付いた文章が、あたかも一般的なキリスト教の共通見解(opinio communis)であるかのように扱われていることには驚くはずです。特に、この著作は決して広く知られているものではありません(そして、それはむしろ祝福であったと私は考えています)。

第二に申し上げたいことは、あなたが問題としている信仰そのものと、それが持つ意味についてです。あなたは、「もしキリスト教の神が存在するなら、その神は、(ほぼ)すべての人間が死ぬ前に聖書について十分な知識を持てるようにするはずだ」と論じています。しかし、ここで考慮すべき重要な事実は、神が人類を創造された目的です。私たちは選択するために、この地上に存在しています。神は全知であられるお方ですから(もちろん、それ以外にも数え切れないほど多くのご性質をお持ちですが)、たとえ聖書を持っていなくても、まして深く理解していなくても、人の心の思いを容易に見抜くことがおできになります。実際、おそらくあなたも、人類の圧倒的大多数は、少なくとも十八世紀以前には、そして厳密に考えるなら今日でもなお、福音を一度も聞くことなく、聖書というものの存在さえ知らずに生涯を終えた、ということには同意されるでしょう(まして聖書の内容を「十分に理解する」ことなどありませんでした)。しかし、心の中に少しでも信仰の芽生えがなければ、そのような情報を与えることには意味がありません。知識は、それが信仰と結び付いて初めて役立つからです。そのため、新約聖書は、gnosis(知識)とepignosis(真に受け入れられた知識)の違いを非常に重視しています。後者は、ある命題を知的に理解することではなく、真理に服従することを意味しています。人は、主との関係を築くためには信仰を持たなければなりません(へブル11章)。そして実際、聖霊の力によって、信仰と知識とが結び付いて初めて、イエス・キリストとその真理について本当の理解が生まれます。これこそが、聖書的認識論と、あらゆる世俗的認識論との根本的な違いです。神を信じて神に立ち返る人の心の中で起こることは、超自然的な出来事であり、物質主義的・合理主義的分析によって説明できるものではありません(第一コリント2章)。したがって、神に立ち返りたいという願いがないなら、神が情報を与えても(ましてすべての情報を与えても)、ほとんど意味はありません。理解されることもなく、最初から何の益にもならないからです。知識は決して信仰を生み出しません。信仰が真理と結び付くことによってこそ、本当の理解が生まれるのです。結局のところ、すべては、神と、イエス・キリストにおいて神が私たちのためにささげてくださった犠牲に対する、私たち自身の自由意志による応答にかかっています。

ここまで辛抱強くお読みくださり、ありがとうございました。さて、私の質問に入る前に、一つ申し上げておきたいことがあります。聖書は、一つの分野については、神がすべての人に完全で普遍的な知識と理解を与えておられることを、疑いの余地なく宣言しています。それは、まさにあなたが論じておられるテーマ、神の存在についてです。たとえば、ローマ書1章、詩篇19篇、あるいは他の多くの聖書箇所を読めば、聖書は、精神的・肉体的に成熟したすべての人間は、生涯のどこかで、神がおられることを悟るようになると教えていることを認めざるを得ない、と私は思います。それが聖書の立場です。ここで注目していただきたいのは、聖書は、人々がその後、その真理を拒まないとは言っていないということです(むしろ、多くの箇所で、その真理を受け取った後、あるいはほとんど直後に、それを拒むことを教えています。実際、大多数の人はそうします)。しかし聖書は、少なくとも人生の一度は、たとえほんの一瞬であっても、すべての人は、自分の心の中で「神がおられる」という認識を持つ、と教えています。それは、私たちが神を知る意味において(たとえまだぼんやりとであっても)、神を認識する瞬間です。その真理をどう扱うかは、一人一人に委ねられています。ここでも結局は、選択の問題なのです。この原則をあなたの議論全体に当てはめるなら、私はこう断言します。神は、ご自身について、ご自身の御子について、さらには神の御言葉のあらゆる真理について、知りたいと願う人を、決して情報に飢えたまま放置されることはありません(実際、この働きは、まさにその原則に仕えるために存在しています)。しかし、それは、そのような知識や理解を望む人が、祈り、待ち望み、探し求め、掘り下げ、努力し、選び取り、時には犠牲を払う必要がないという意味ではありません。たいていの場合、それらは必要です。しかし、それにもまた目的があります。その目的とは、その人自身にも、人間と御使いたちの世界にも、どれほど反対があろうとも、その人にとって本当に重要なものは何であるか、そしてその人が、主についての深い理解と主との深い交わりを、何にもましてどれほど真剣に求めているかを示すことなのです。残念ながら、このような神の御言葉への燃えるような渇望を持っている人は、キリスト教世界の中でも決して多くありません(この働きが、いわゆる主流から大きく外れている理由もそこにあります)。そこで最後に、一つだけお尋ねしたいことがあります。もしここまで読んでくださったのであれば、お答えいただきたいのです。あなたは、「神がおられる」と本当に信じていた時、あるいはそのような瞬間があったことを覚えておられますか。

長いメールを最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。もしご希望でしたら、この問題についてさらに喜んでお話ししたいと思います(参考までに、「自然啓示」と”How do you prove the existence of God?“のリンクもご覧ください)。

知恵と知識のあらゆる宝が隠されているお方、私たちの愛する主、また救い主イエス・キリストにあって。

Bob Luginbill