ペテロの手紙シリーズ#11 

自然啓示と特別啓示

https://ichthys.com/Pet11.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著 

復習: 前回の学びで述べたように、ペテロ第一の手紙は霊的成長(特にクリスチャンの成長過程において苦しみが果たす役割)について多く述べています。ですから、解釈を進める前に、霊的成長の教理を少し詳しく調べる必要があります。なぜなら、クリスチャンとしての私たちの人生の目的は、霊的に成長することであり、他の人々が同じように成長するのを助けることだからです。他者の成長を助けることはミニストリーと呼ばれ、各個人の霊的賜物によってある程度左右されます。一方、成長の過程はすべてのクリスチャンにとって同じです。霊的成長は幅広いテーマですが、その焦点はただ一つ、「真理」というシンプルなものです。霊的成長とは、主に神の真理を学び、それを私たちの生活に適用することです。ですから、真理はクリスチャン生活の鍵なのです。 

真理:では、真理とは何でしょうか?まず始めに、悪魔の世界の中で、神の真理は、私たちが自己中心的になり、自分の問題に捉われてしまうことから引き離し、神のご計画、神のご意志に向かわせることができる唯一のものであると言えます。真理だけが私たちを指導し、慰め、励まし、進むべき方向を指し示してくれるのです。主イエス・キリストを信じる者とそれ以外の者とを区別するのは、他のどんな原則よりも、神の真理を知り、それを適用することであり、イエスは、ご自分の地上での宣教の理由は、この同じ真理を証しするためであると宣言されました。ポンテオ・ピラトに尋問されたとき(ヨハネ18章37-38節)、イエスは言われました。「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである」。イエスに対するピラトの応えはこうでした: 「真理とは何か」ピラトは神の真理にはまったく関心がありませんでしたが、信者にとって真理とは、私たちが生き、成長するための糧、まさに母乳なのです(第一ペテロ2章2節)。では、私たちはピラトの質問にどう答えるべきでしょうか?真理とは何でしょうか? 

第一に、すべての真理は神から来るものです。イエスはヨハネの福音書14章6節で「わたしは道であり、真理であり、命である」と述べています。イエス・キリストを知ることは、真理を知ることなのです。しかし、天国で、全知全能で遍在する創造主を完全に「知る」(第一コリント13章12節)ことなどできるでしょうか。神の恵みにより、神は人類に現世で使用するための特定の真理、すなわち知ることができ、かつ使用可能な知識の宝庫を与えてくださいました。この真理は大きく二つに分けられます:  

(1) 自然の啓示によって全人類が得ることのできる真理。 

(2) イエス・キリストを信じる者だけが「特別な」(あるいは超自然的な)啓示によって得ることのできる真理。 

一般(自然)啓示: 神は宇宙の創造主です(創世記1章1節)。従って、宇宙とその中にあるすべてのものには創造主の印がついています。被造物を観察し、その大きさと複雑さに驚嘆することで、私たちはこ分野の真理に触れることができます。このような経験的な方法で神の本質について学ぶことができることがたくさんあることは認めますが、聖句は、神が未信者が自然界を観想することから導き出せるように設計された二つの原則的な「真理」を強調しています。 

(1) 神が存在するという事実は、神の創造物を観想することで明白になります。詩篇19篇1-6節は「天は神の栄光をあらわし」と述べています(参照:ヨブ36章24-25節詩篇8篇1-3節, 97篇6節)。つまり、宇宙の威厳、被造物の美しさを観想することによって、人は心の中で創造主の存在を知るのです。パウロもまた、この点をはっきりと断言しています: 

神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性と[の真実]は、天地創造このかた、[日常的な経験から]被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。(ローマ1章20節

パウロがここで述べたことは、詩篇の作者が述べた議論をさらに前進させるものです。ローマ1章20節では、神の被造物の驚くべき性質から神の存在の事実を見るだけでなく、神の被造物を研究することから、神がどのようなお方であるかの考えも導き出しています。神は正義であり、義であり、さらに全能なのです。この概念は、人が自然を考えることから学ぶことができる第二の「真理」でより強調されます。 

(2) 神の存在の事実は、善悪の概念を熟考することで明白になります。ローマ人への手紙( 2章14-16節)でパウロは、神の御言葉を持たない異邦人でも、本能的に[ギリシャ語の「フィセー(physei)」、「生まれながら」]正しいことをする人がいると説明しています。それは、神が全人類の良心に善悪の本質的な考えを植え付けられたからです(第一コリント11章14-15節参照)。パウロはさらに、これらの異邦人の良心は時に彼らの行為を承認し、時に非難する(15節)と述べています。つまり、罪の意識はアダムとエバの子孫である私たち人間の遺産の一部でもあるのです(箴言20章27節参照。) 

神からの直接の伝達がなくても、天使の訪問がなくても、聖書の教えがなくても、実際、聖書さえなくても、すべての人類は、誰にでも明白な事柄を観察することによって、ある霊的真理を認識しています。その事実を認めようと認めまいと、実のところ、すべての人は、世界を造り、自分たちを造られた神がおられることに気づいています。すべての人は、神が正義の神であることを理解しています。すべての人は、正しいことと間違っていること、善と悪があることを理解しています。そして、すべての人は、どんなに善良であろうとしても、自分自身に悪がないわけではないことを知っています(これらの点は、聖霊の出現後、いっそう真実味を帯びてきます: ヨハネ16章8-11節)。神は、その比類なき恵みによって、宣教師との接触や特別な「しるし」がなくても、全人類が人生の根本的な問題、すなわち、誰もが死に直面し、何らかの助けがなければ、自分が人生で行った悪を言い訳にすることもできず、確実に存在する公正で義なる神に向き合うことになるという問題に直面するように世界を秩序づけました。心の中で、人生のある時点で、ほんの一瞬であっても、誰もがこのことを悟ります。解決策があるとすれば、それは明らかに神ご自身にあるはずなので、神についてもっと知りたいと動機づけるには、十分なことでしょう。 

特別啓示(または「超自然的啓示」):神は、自然界を観想することによって見分けることができる基本的な真理を超えて、神についてもっと知りたいと渇望する人には、寛大さのうちに施してくださいます。自然な手段で神の存在に気づき、もっと知りたいと願う人がいれば、神は神との関係を始めるために必要な情報(福音のメッセージ)と、その後の霊的成長に必要な情報(現代では、それは聖書と優れた聖書の教えを意味します)を忠実に与えてくださいます。福音のメッセージについて、イエスは「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 (ヨハネ4章14節ヨハネ3章5節; エペソ5章26節参照) 神は、ご自身の真理に渇きを覚える人を決して見過ごされません。イザヤ書55章1節で「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ」と言っているように、神は私たち皆を招いて、満たしてくれる水を飲ませてくださるのです。このように、信じる者にも信じない者にも、文字通りの意味で「超自然的」な情報を提供することを、特別啓示と呼びます。 

人類史の中で、神は真理を受け入れようとする心を持つ男女に真理を伝えるために、さまざまな手段を用いてきました。神はしるしや幻、夢や天使、預言者や祭司を用いました。しかし今日、神の真理(神の特別な啓示)の唯一の主要な情報源は聖書です。未信者が自分で聖書の福音を発見することは可能であり、信者が助けなしに真理のある原則を引き出すことも可能ですが、これは神の真理を得るための唯一の手順ではありません。例えて言うなら、聖書が真理の水が湧き出る泉であるとして、その泉から渇きを癒す最も満足のいく効率的な方法はコップを使うことです。ちょうど泉には水がありますが、(飲み水の蛇口とは違って)水を出すようには造られていないように、聖書には未信者が救われるために必要なすべての情報と、信者が霊的に成長するために必要なすべての情報を含んでいますが、容易に吸収できる形ではありません(マニュアル形式ではなく、文学形式<自分で読み取って考えるの>です)。そのため神は、神の真理をより分かりやすい形で伝えるプロセスを助けるために、聖書教師という仲介の器を教会に任命されたのです。このように、信者にとっては、個人的な聖書研究と同様、適格な教師による聖句の解説は、大切な補助なのです。 

未信者の場合、特に旧約聖書から始めたら、福音のメッセージの明確な表現に出会うことなく、何ヶ月も聖書の中を彷徨うこともあり得ます(福音は確かにそこにあるのですが: ヨハネ5章39節を参照)。 しかし、たいていの場合、永遠のいのちの泉に至るまで、そのような苦労をする必要はありません。なぜなら、神は、関心のある未信者のために「コップ」を用意してくださっているからです。その「コップ」とは何でしょうか?それはあなたと私にほかなりません!私たちは、救われていない人々に神の真理を伝える仲介の器なのです(第二コリント4章7節)。ですから、私たち信者は皆、福音のメッセージを明確に理解し、イエス・キリストに渇いている人に簡単に、そして素早く伝えることができなければならないのです。 

「福音Gospelコスペル」とは、もともと「良い知らせgood news」を意味する英単語で、ギリシャ語の「ユアンゲリオンeuangelion(参照:「福音的」)を訳したものです。神が私たちに、神の裁きを避け、代わりに永遠の命を得る道を備えてくださったということほど、素晴らしい「良き知らせ」はないでしょう!救われていない人にこの良い知らせを伝えるとき、私たちは、高価な命の水、すなわち福音メッセージであるイエス・キリストについての神の真理を伝える栄誉を持つコップ、すなわち質素な土の器となるのです。機会がある時、いつでも伝えるのは神のみ心であるのは疑う余地もないでしょう。なぜなら、神は「すべての人が救われ、真理を完全に理解するようになることを望んでおられる」からです(第一テモテ2章4節第二ペテロ3章9節ヨハネ3章16節参照)。私たちは「福音」という言葉をキリストの良き知らせという意味で使います。つまり、主イエス・キリストを信じることによって、私たちは神の怒りから救われ、永遠の命を得ることができるという福音です。 

福音には多くの側面があり、聖書の教義のほとんどに触れていますが、実際的には、未信者は、使徒行伝16章31節のパウロの「主イエスを信じなさい…そうしたら救われます」を、ただそのとおり受け止め、従うだけでよいのです。救いは、キリストを信じる信仰によって、神の恵みによってもたらされるからです(エペソ2章6-8節)。ですから、救われていない人は、聖書を一度も読まなくても救われるのです。彼の渇きは簡単かつ迅速に癒されますが、これを成し遂げてくれる真理の水は、その源、つまりその言葉は聖書にあります。それは聖典から私たちの心に流れ込み、私たちの口を通り<私たちの口から語られる言葉を通して>、その人の心に流れ込み、主が送られた目的が達成されるのです(イザヤ55章10-11節)。 

では、信仰者はどうでしょうか。コップの原則は信者にも当てはまります。他の信者が神の御言葉の真理を学ぶのを助けるとき、私たちはいつも仲介者の器の役割を果たします。プリスキラとアキラは使徒パウロから真理の原則を広く教えられていたので、アポロにキリスト教について「より正確に」指導することができました(使徒行伝18章24節~)。ですから、私たちは皆、互いに真理を語る責任があるのです(エペソ4章15節,25節)。学んだ教理の原則を伝えるにせよ、単純な励ましの言葉を伝えるにせよ、私たちは皆、おそらく一度や二度は「教える」ことを求められるでしょう。このように、相互扶助のネットワークを通して個々のメンバーが霊的に成長することによって、教会は自らを高めていくのです(エペソ4章16節コロサイ2章19節)。ですから、私たちが他の信者と話をするときはいつも、神のことばの真理による励ましを提供するために、「塩で味つけられた、やさしい言葉を使う」(コロサイ4章6節)ことを心に留めておくべきです。持続的な霊的成長には、このようなよく準備された「食物」の安定した供給が必要であり、だからこそ、神は教会に与えられた霊的賜物の目録に「教師」の賜物を含めておられるのです(エペソ4章11節~)。霊的成長の過程、すなわち神の真理を吸収する過程において重要な要素には、次のようなものがあります: (1)個人の献身、(2)謙遜、(3)体系的な聖書の教え、(4)聖霊の働き。 

復習: クリスチャンとしての私たちの人生の目的は、霊的に成長し、他の人々も同じように成長できるように助けることです。霊的成長は、神の真理を理解し、それを実践することによってもたらされます。私たちはこの世を観察することによって神についてのある真理を知り(自然啓示)、ただ一つの単純な真理(福音:救いはキリストを信じる信仰によってもたらされる)を理解することによって神との永遠の関係を持つことができますが、霊的成長には聖句に含まれている真理の全領域を吸収することが必要です。次回は、真理を吸収するために必要な要素を検討し、霊的成長が起こる過程を考えてみましょう。 

–ペテロ#12に続く