ペテロの手紙#6
苦しみの中の恵み
ペテロの手紙 #6
ロバート・D・ルギンビル博士著
第一ペテロ1:1-2の改訂訳:
イエス・キリストの使徒であるペテロから、父なる神の予知により、聖霊によって聖別され、イエス・キリストの血の注ぎかけのもとに従順な者となるために、選ばれた人々、すなわちポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビテニヤの各地に散らされ追放された人たちへ。あなたがたに恵みと平和が増し加わるように!
復習: 苦しみと霊的成長という現在のテーマと、上記の箇所との関連を思い出してみましょう。ペテロの読者たちは苦しい時を経験し、苦悩の中で神に疑問を抱き始め、霊的成長が危ぶまれていました。彼らを「選ばれた追放者」と呼ぶことで、ペテロは彼らの苦しみを認めると同時に、神が彼らを忘れておられないことを思い起こさせています。
人生への挑戦: 選民であると同時に追放者であるという、この一見矛盾した状態を説明するために、私たちは神のご計画についての考察(特に#3参照)の中で、神は人が信じる者となったとたんにこの世から連れ出されるのではなく、彼らが霊的に成長し、他の信者が同じように成長するのを助けるために、彼らをこの世に残されることを見ました。この自由意志のテストは、人生の波乱にもかかわらず、何よりも主を愛していることを示す機会を与えてくれ、また、それは神にとっても、どんな苦難が私たちに降りかかろうとも、神は私たちを守り、祝福し、神の完全な幸福を与えることができることを示す機会にもなります。
神の無限の能力: 未信者は、神の助けや支えを受けず現世で苦しみを通過し、死後には罰があるだけです。一方、私たち信者は、人生に訪れる苦しみを処理し、対処するための神の大きな恵みの供給という益にあずかっており、来世では二度と苦しみを味わうことはないという確信に満ちています。さらに私たちは、苦しみにもかかわらず神を信頼し続けることによって霊的に成長し、永遠においてその成長と成果が報われることを知っています。クリスチャンの人生は絶え間ない戦いであり、その戦いは主と対面するまで終わることはありません。
戦場: この闘いが行われる主な戦場は、私たちの思い、すなわちこころ(内なる自己)です。それゆえ、私たちは苦しみについて正しい視点を保つよう警戒する必要があります。罪への誘惑は、私たちの敵であるサタンのかなり明らかな策略ですが、苦しみや辛い時の経験は、より巧妙な攻撃の形です。このような逆境は、ペテロの読者が直面していた狡猾な策略でした。逆境は、信じる者に、神の助ける能力への信仰を失わせる傾向があります。苦難を経験すると、信仰者は「神よ、なぜ私に?」と言いたくなります。ところで、これはとても危険な考え方です。なぜなら、そのような態度が続くと、信仰者は必然的に、問題の原因を神になすりつけるか(「神は私のことなど気にかけていない!」)、あるいは自分自身を責めるようになるからです(「私は何かひどい罪を犯したに違いない!」)。これらのありふれた疑念をもう少し詳しく調べてみましょう:
誤った疑問その1:「まだ苦しい!神は私のことを気にかけておられないのか?」
これまで見てきたように、苦しみはすべての信仰者のための神の御計画の一部です(第一ペテロ4章12節)。苦しみなくして霊的成長はありえません(ヤコブ1章2-5節)。神が逆境によって私たちを試されるのは、私たちの信仰を堅固にし、私たちに対する神の誠実さを証明するためであり、私たちが霊的な進歩を遂げ、良い時も悪い時も神を信頼する用意ができていることを(自分自身にも他人にも)示すためなのです。
二つ目の誤った結論(苦しみは過去の罪に対するある種の「神の仕返し」に違いないという考え)も危険です。実際には「苦しみ」という言葉で呼ぶことは信者にとって若干、間違っています。なぜなら、信仰者が経験する困難は、未信者のそれとは根本的に異なるからです。神が私たちが逆境を通過することを許される唯一のネガティブな理由は、神の懲らしめのためであり(ヘブル12章1-13節)、神が私たちを罰されるとき、それは怒れる裁判官としてではなく、私たち自身の益のために私たちを正すことだけを願う愛なる父としてなされることを私たちは見てきました。さらに、罪を告白することによって、私たちの過ちから生じるどんな苦しみも、祝福のための苦しみとなります(神との交わりを回復した後は、それを乗り越えるための神の慰めと助けがあるからです)。私たちにふりかかる他のすべての苦しみ(#5参照)は、私たちの益となるよう神が計画された一部なのです(ローマ8章28節)。そのような試練の時には神に寄りかかることを学ぶ必要があります。神は確かに「私たちを気遣って」おられるからです(第一ペテロ5章7節)。
誤った質問その2:「まだ苦しい!神はまだ私に腹を立ておられるのでしょうか?」
私たちが神に罪を認めると、神は直ちに無条件で私たちを赦してくださいます(第一ヨハネ1章9節)。神に罪を認めて、神との交わりに戻るとき、私たちの人生におけるすべての逆境は、もはや害のためではなく、祝福のためにあるのです(第一コリント11章31節)。悔恨の態度は実に適切であり、私たちは自分のしたことを悔い改めるかもしれませんが(そして私たちは懲罰を悲しく思うのですが)、過度の罪責感は、神に対する憤りの感情と同様にふさわしくありません。逆境にあっても、神は私たちが幸せになり、神の祝福と力を経験することを望んでおられます。このことを覚えていれば、この人生で遭遇するどんなことにも過度に落ち込む必要はありません。神は私たちに、神の御計画の中で耐え抜くだけでなく、その過程で神の平安と喜びを経験する手段を与えてくださっておられるのです。もし告白した後にも「痛み苦しみ」が残っているなら、神が「私たちに怒っている」のではないことを忘れてはなりません。訓練に伴うこのような痛みが残るのは、私たちのためであり、私たちを啓発するためであり、将来このような過ちを犯さないようにするための助けであり、私たちの苦しみを、愛情深い神が与えておられるのであり、道を踏み外した子供をしつける愛情深い親と同じように楽しんでおられるわけではないのです。
苦しみに対処するための神の恵みの力:
1. 神の恵みの全体的計らい: 聖書は、私たちが「信仰による恵みによって」救われること、そしてそれは「神からの賜物」であり、「私たち自身の行いによる」ものではないことを教えています(エペソ2章8-9節)。
恵みとは、罪深い人間に対処する神の完璧な方針です。神が業をなし、私たちはその恩恵に与っているのです。聖書の言葉は、私たちの働きは救いには何の役にも立たず、救いはイエス・キリストの働きによってのみ得られるという事実をはっきりと述べています。十字架の上で、キリストは私たちすべてのために苦しみ、死なれました。これを神は「恵まれ」たのです。つまり、私たちが何かをしたことに対する報酬ではなく、私たちに贈り物を無償で、恵み深く与えてくださったのです。その結果、私たちはイエス・キリストを信じたときに救われたのです。この救いの結果、私たちは、二度と苦しみを受けることのない日を、確信に満ちた期待(エルピス、「希望」)をもって待ち望むことができるのです。イエス・キリストは、私たちの罪のために、私たちの身代わりとなって裁かれることによって、神の御計画の中で唯一の真に称賛に値するわざを成し遂げ、すべての信者に神の恵みの大きな「宝箱」を開いてくださったのです。
神は救いの後も、救いの前に私たちを扱われたのと同じ本質的な方法で、扱われます。救いの後、私たちは神の子として多くの素晴らしい祝福を享受します。第一の、そして最大の祝福は、救いと、それによって与えられる永遠の命(すべての苦しみや苦難が永遠になくなる、至福に満ちた未来の存在)という確信です。しかし、キリストの御業(と、キリストを信じる私たちの信仰によってキリストの御業を代価なしで受け入れたこと)のゆえに、私たち信者は今、この世においても神の恵みの受益者なのです(ローマ6章14-15節)。
「恵み」を意味するギリシャ語はカリスであり、カリスは「好意」「友好」を意味します。しかし、私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れるとき、私たちに対する神の態度は、敵意あるものから親切なものへと変えられます(エペソ2章3-7節)。私たちは今や神の子であり、神は愛をもって私たちを見守っておられます。詩篇の作者はこう言っています: 「私は若かったが、今は年老いている。しかし、正しい者が見捨てられたり、その子孫がパンを乞うのを見たことがない」(詩篇37篇25節)。私たち信者が今置かれている神の「恵み」の力と範囲を限定することは難しいでしょう。神は今、私たちをご自分の愛する子どもとして扱い、絶えず私たちの必要をすべて賄い、配慮してくださいます(マタイ6章25-34節)。神が私たちのすべての必要を満たしてくださらなかったことは一度もありません。神はご自分の務めを果たさないことはありません。私たちの務めは、ただこの事実を覚え、神が私たちを失望させることは決してないと信頼することだけです。
2. 苦しみに対処する神の第一の恵みの手段: 真理は、私たちが人生の問題に効果的に直面し、対処するための主要な手段です。これには少し説明が必要です。困難を乗り越えるのに役立つ「真実」とは、完全に理解し、信じ、その困難に適用する、私たちの心の中にある「真実」です。聖書に書かれていても、私たちの心の中にはない情報は、困難な時期が訪れたときに何の役にも立ちません。さらに、聖書の節や聖書の原則に精通していても、それを信じようとしなければ、逆境に対処する際に何の役にも立ちません。 実際、神が私たちに備えをなさっていなかったとしたら、私たちはこれまでに苦しみに効果的に対処する可能性があったでしょうか?(ローマ10章14-15節)。
しかし、神は私たちのために備えてくださっています。衣食住、手引書(聖書)、集会の場所、教師、そして私たちのすべてのニーズに対応するための膨大な数のサポートスタッフ(結局のところ、すべての信者は、キリストの体全体の霊的成長と繁栄を促進するように意図された何らかの霊的賜物を持っています)を備えてくださっています。したがって、霊的成長を追求するために必要なものはすべて揃っているのです。私たちに必要なのは、信仰を捧げることだけです。神は、御言葉のすべての真理が私たちの心の中で信仰と一つになることを意図しておられます(御子イエス・キリストを信じた時と同じように)。だから、神が望まれる方法で逆境に対処するためには、このテーマについて(他のすべてと同じように)神が何を語っておられるかを知り、神が語っておられることを信じ、私たちに立ちはだかる問題に神の言葉を適用する必要があるのです。結局のところ、霊的な成長には、現在の状況にたまたま当てはまったり、興味をそそられたりするようなテーマを選ぶのではなく、神の助言のすべてを学ぶことに身を置くことが必要なのです。神は、私たちが聖書に含まれる真理を聞き、信じ、用いることによって、(苦しみを含む)人生のあらゆる状況に備えることを意図しておられます。神は、私たちに聖書と教師、そして神の真理の原則を学ぶ手段と機会を与えてくださっているのです。
3. 苦しみに関する真理の原則:
1. 神は、私たちの人生におけるすべてのこと(苦しみを含む)を、私たちの益のために働かせておられます(ローマ8章28節、創世記50章20節)。
2. 耐え忍ぶことは霊的な成長と報いが伴うと知って、苦しみの中にあっても、私たちは幸福を得ることができます(ローマ5章3-4節; 第二コリント4章17節; 第一テサロニケ5章18節; ヤコブ1章2-4節; 第一ペテロ1章5-8節, 4章13節)
3. 主は、私たちが背負いきれないような重荷を背負うことを決して求めず、その「逃げ道」が現在の苦しみを回避するものであろうと、おそらくはそれを耐え抜くものであろうと、必ず出口を与えてくださるという知識に慰めを得ることができます(第一コリント10章13節)。
4. 主はしばしば、当座は明らかにされていない苦しみを許す目的を持っておられます。やもめの息子の死と蘇生は、彼女が主を信じるきっかけとなりました(列王記上17章24節)。ラザロの死と蘇生は主にとって非常に辛いものであったけれど、信仰を育むことになったので主は喜ばれました(ヨハネ11章15節)。ヨハネ9章に登場する足の不自由な人がそう生まれついたのは、誰かの罪のためではなく、癒されたときに神の栄光を現すためでした(ヨハネ9章3節)。ヨブは、その忍耐強さがことわざにもなっているほどの苦しみを受けましたが、主がご自分の力と栄光を現すために彼を用いられているとは知りませんでした(ヨブ1章8節, 2章3節, 42章10節参照)。私たちや仲間のクリスチャンがこの世で受けるすべての苦しみの理由を完全に理解することはできないかもしれませんが、主がそれを許す最善の理由があることを忘れてはいけません。主に信頼し続けましょう。
5. 私たちが受ける苦しみは、後で、ある種の利益につながります。試練の時に他人を助けることができる経験を私たちに与えてくれます。私たちは皆、この世で何らかの苦難に耐えなければならないからです(第2コリント1章3-7節; 第一ペテロ4章12節, 5章9節)。
6. 私たちはまた、聖書にある実例から、苦しみの中で励ましを得ることができます。聖書には、私たちの想像を絶する苦しみを受けなければならなかった仲間の事例がたくさんあります。ヨブ記やエレミヤ記、ダニエル記やエゼキエル記の苦難を読むだけでわかります。これらの信者たちは、個人的な苦難を乗り切っただけでなく、主を愛し、信頼し続け、苦しみにもかかわらず霊的な進歩を維持し続けたのです。ヘブル人への手紙の著者は11章で、この現象をカタログ化し、「彼らの信仰によって」、過去の偉大な信仰者たちは皆、神はこの世が与える豊かさよりも素晴らしいものを提供している事を知って、人生が彼らに与えた様々な試練や苦難を乗り越えることができたと語っています。結局のところ、私たちの主が私たちのために苦しみを受けられたのは、私たちが永遠に平和と幸福のうちに生きるためなのです(第一ぺテロ2章21, 4章1節)。
結論: 最後に、神が慰め主である聖霊を与えてくださったことを忘れてはいけません(ヨハネ14章16節)。私たちがただリラックスして主に信頼しさえすれば、主の御霊は私たちを助け、慰め、どんなに深い苦しみでも、どんなに激しい苦しみでも、今の苦しみを超越した喜びで私たちの心を満たしてくださいます(第一ペテロ4章14節; ローマ5章3-5節)。
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