「ヨハネの福音書三章」 (2020年8月12日クラス)
<十字架にかけられたイエス様=モーセが荒野であげたへびの象徴>
そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。(ヨハネ3章14節)
(ヨハネ3章14節)
ここでイエス様が語られていることについて、少し掘り下げて考えてみたいと思います。「モーセが荒野でへびを上げたように」とイエス様が言われているのは、民数記21章にある話のことです。
民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。
そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。
(民数記21章4~9節)
主の恩恵に目を留めず、不平不満を言っていたイスラエルの民に、主は火のへびを送り、多くの人がそのへびに噛まれて死んだとあります。聖書に「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6章23節)、また、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」(ヤコブ1章15節)とあるように、それは罪の結果であり、へびの毒は死に至らせる罪を象徴しています。
しかし、自分たちが招いている災難は罪の報いであることを悟った人々は、自分たちの罪を認め、モーセにへびを取り除いてくれるよう主に祈ってほしいと嘆願します。彼らは神を呪って死を選んだのではなく、悔い改めて神に立ち返ることを選んだのです。
それでモーセは民のために主に祈りを捧げ、主はその祈りに答えて救いの道を示されます。それが青銅のへびを作ってさおに掛け、それを仰ぎ見るということです。簡単なことです。ただ仰ぎ見るだけで救われたのです。そして、その通りにした人々は癒されたのです。へびの毒により死ぬことになっていたのに、神の憐れみより救われ、命を得たのです。
この青銅のへびは、イエス様の象徴です。イエス様はこの話を引用して、人の子、つまりメシアである自分も上げられなければならないと言われたのです。それは十字架の死を意味しています。青銅のへびを仰ぎ見ることで、人々を死に至らしめる蛇の毒が無効になったように、イエス様を仰ぎ見て信じる者は、罪から救われ、永遠の命を得るのだ、ということを言われています。イエス様の十字架の死というのは、私たち全人類の罪を背負って、罪の力を無効にするのです。罪のあがないは必ず血をもってしなければならず、旧約時代の人々は各々、自分の罪のあがないのために、律法に定められた動物の血、命をいけにえとして捧げてきました。これもイエス様を象徴しているのですが、イエス様は全人類の罪のあがないの子羊となって、御自身の命を十字架上で捧げて下さったのです。
十字架は、神の憐れみと恵み、罪の赦しの象徴です。あなたや私のための、神の愛の象徴なのです。今までどんなに罪深く生きてきたとしても、感謝もせずいつも不平不満を口にし、人を傷つけて来たとしても、傲慢になり他の人を見下げて、人の悪口を言い続けてきたとしても、それを悔い改め、ただイエス様を信じることで、私たちは赦され、永遠の命を頂けるのです。救いに価しない私たちにとって、こんなに都合の良い話があるでしょうか。しかし、これこそが神の恵みなのであり、福音(良き知らせ)の根本的なところです。イエス・キリストの福音というのは、罪の赦しであり、「あなたを神は愛しています」という、尊いものではあるけれど、とても簡単なメッセージです。
本当に憐み深いですね。この神こそが私たちを造られた方なのです。
さてこれらのことを念頭において、もう一度、ヨハネの福音書の3章16節を読みましょう。
神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
すごいですね。神はそのひとり子、イエス様をこの地上に送って下さった。それほどまでに私たちを愛してくださっているわけです。
その神の愛は、救いを拒んでいる人にも、神などいないと嘯(うそぶ)いて自分勝手に生きているに人にも、また問題ばかり起して他の人に迷惑をかけている人にも、全ての人に注がれているのです。神の愛は、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(マタイ5章45節)愛なのです。
しかし神は、神に背を向け罪の内に生きている人たちに対して、恵みの雨をすぐに止めたりはしないのですが、彼らが悔い改め、神に立ち返ることを切に望んでおられます。そして、いろいろな試練を通してそれに気づかせようとしています。今、終わりの時がどんどん近づいていると思いますが、それにあたって、様々な災害や今まで経験したことのないようなことが世界中に起っています。不従順なイスラエルの民が毒へびに噛まれて神に立ち返ったように、今の時代に生きる私たちが遭遇している災いや試練も、神に立ち返る機会であるのだと思います。世界的にも個人的にも私たちの身に起る災いや試練は、私たちを立ち止まらせ、天を仰がせるのではないでしょうか。神は、私たちが災いや苦しみに遭う事は望まれないけれど、神のもとに立ち返らせるために、それらのことが起るのを許され、神を仰ぐ以外何もできないようにされる、これも主の愛なのです。それは懲らしめるのがゴールではなく、立ち止まらせて、神を仰がせ、ここにこそ救いとあなたが歩むべき道があるんだよ、ということに気づかせるためです。
今、悲惨とも言える色々なことが世界中で起こっていますが、これは裁きと言うよりも、かえって神様に向かわせるために許されていることだと思います。
どうか、遅すぎない内に一人でも多くの人が神に立ち返り、救いの喜びに与かることができますように。
※ 青銅のへびについては、2020年3月16日配信の「ひとしずく3595-信仰―主を仰ぎ見ること パート4」にも書かれているので参照して下さい。
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