信仰―主を仰ぎ見ること パート4

「信仰―主を仰ぎ見ること」(2020年 2月11日 聖書クラス)

また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。

(第一コリント10章9節)

一つ、大切なことを付け足しておきたいと思います。

神はモーセに命じて青銅のヘビを作らせ、それをさおにかけさせました。ここで、なぜヘビなのか?ということを考えてみたいと思います。

癒しや救いをもたらすためなら、もっと他のものを仰ぎ見させたら良かったのに、と思ってしまいます。なぜなら、ヘビは聖書ではサタン(悪魔)の象徴であるからです。

黙示録には「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。」(黙示録12章9節)と記されています。そして、アダムとエバを誘惑して神に背かせたのもヘビでした。(創世記3章参照) 

また、へびと言えば、次のような聖句もあります。

悪しき者は胎を出た時から、そむき去り、生れ出た時から、あやまちを犯し、偽りを語る。彼らはへびの毒のような毒をもち、魔法使または巧みに呪文を唱える者の声を聞かない 耳をふさぐ耳しいのまむしのようである。

(詩篇58篇3~5節)

ここに「悪しき者」とあり、「彼らはへびの毒のような毒をもち」とあります。一体これは誰のことでしょう?それは、この聖句を見るとわかると思います。

義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。
善を行う者はいない、ひとりもいない。
彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。

(ローマ3章11~18節)

ここにも「彼らのくちびるには、まむしの毒があり」とありますが、その前のほうに、「義人はいない、ひとりもいない。」「すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。」とあることから、すべての人間のことを言っていることがわかります。

すべての人は神の目から見たら、神から離れ、神を求めていない状態です。思いの内にも口にもまむしの毒があり、それは罪の入った状態、荒野で毒蛇に噛まれたイスラエルの民のように死を待つばかりの状態です。

人は神から生を受け、たくさんの恵みの中で養われているにも拘らず、その口で不平不満を言い、嘘を言い、また神を呪っているのです。

イスラエルの民は、エジプトでの奴隷の身から救われ、神の約束の地へと向かっていました。食べ物や水にも事欠く荒野にあって、神は奇跡的に岩から水を出し、食物として天から栄養満点でおいしいマナを降らせて彼らを養ってくださいました。そして荒野にいる獣、またヘビから彼らを守ってくださっていました。彼らが通った荒野にはヘビが多く、特にホル山から紅海の道をとおって、エドムの地を通る辺りはヘビ、それも毒蛇が多かったようです。イスラエルの民はそのような中で恵みと保護を神から賜り、安全に守られていました。しかし、そんな彼らの口から出てくる言葉は不平不満、それを指導者であるモーセ、そして神に対して吐いていたのです。その不信仰の罪により、彼らは神の保護を失ってしまいました。毒ヘビを神が彼らに送られたというより、彼ら自らが神の保護の翼の下から迷い出たことで、その保護を失って毒蛇に噛まれて死を招いてしまったのです。そしてそれは霊的にもヘビであるサタンの毒により、死んだ状態になってしまっていたのです。これが、イエス様を仰ぎ見て救われていないすべての人間の状態なのです。

ところで神はアダムとエバをそそのかしたサタンであるヘビに「おまえは、この事をしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。」(創世記3章14節)と言われました。サタンであるヘビは呪われた者です。神は、その人間を死に至らしめる罪、呪いの象徴であるヘビの青銅の像をモーセに命じて造らせ、さおにかけさせました。

聖書には、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」とあります。罪深い私たち人間は、本来はこのヘビのように呪われ木にかけられるべき者です。しかし、その私たちに代わって、イエス様は自らその全人類が受けるべき呪いを一身に受けて、木(十字架)に架かってくださいました。それは私たちが十字架を仰ぎ見て(信じて)救われるためだったのです。

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

(ガラテヤ3章13節)

イエス様は、私たちが受けるべき罪の呪いを、ご自身と共に十字架につけて、呪いの象徴を喜びと救いの象徴に変えてくださったのです。

ですから、今やヘビの毒という罪を持った古い私は、イエスと共に十字架につけられ死んだのです。時々、十字架から降りてきて歩き回るのではなく、キリストと共に完全に葬られたのです。古い私はもう滅びました。

しかし、それで終わりではありません。イエス様がその死から蘇られたように、キリストと共に死んだ私たちは、新しい人としてキリストと共に蘇るのです。

罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―― キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。

(エペソ2章5,6節)

あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。

(コロサイ3章3節)

もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。 

(ローマ 6章8節)

私たちのために、イエス様は悪魔の力を制し、悪魔の権威を奪うために、死んでくださいました。悪魔による誘惑の結果である罪の入った古い人の終わり、また罪に操られ、へびの性質が入っている人生の終わりが、十字架にかけられたイエス様の力により成し遂げられました。私たちの古い人は滅び、イエス様のよみがえりと共に、私たちも新しい命に生きるのです。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 

(第二コリント5章17節)

もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。

(ローマ6章5,6節)

ちなみに、「青銅の蛇」は、イスラエルの民の間でずっと取っておかれ、約700年後にヒゼキヤに打ち砕かれるまでの間、偶像礼拝の対象となってしまっていたようです。

ヒゼキヤはすべて先祖ダビデがおこなったように主の目にかなう事を行い、高き所を除き、石柱をこわし、アシラ像を切り倒し、モーセの造った青銅のへびを打ち砕いた。イスラエルの人々はこの時までそのへびに向かって香をたいていたからである。人々はこれをネホシタンと呼んだ。

(列王記下18章3,4節)

この棒にヘビというデザインは、世界保健機関を始め、世界のいたるところで救急車や薬局などの医療関係のシンボルマークとして使われています。それはこの聖書の青銅のヘビの話に基づいています。

ところが皮肉なことに、この話が元となり、本来はサタンであり、罪と呪いの象徴であるヘビや龍を神として崇める風習が世界中に広まって行きました。日本でもヘビを神として祀るところが全国にたくさんあり、龍神などという言葉もよく耳にしますね。

しかし、元来の意味を知って、唯一まことの神だけを仰ぎ見て救いを得ていただきたいと切に祈ります。そして、このイエス様を仰ぎ見つつ信仰の歩みをし続けて行くことができますように。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

(イザヤ45章22節)

―以上「信仰―主を仰ぎ見ること」のクラスより