新しい人  二〇一三年 ひとしずく一二二七

誰でもイエスキリストにあるならば、その人は新しく造られたのである。古いものは過ぎ去った、見よ全てが新しくなったのである。

(第二コリント人への手紙五章十七節)

 この聖句を読んで、自分はイエス様を信じているけれども、本当に新しい人になったのだろうか?と疑問に思う人もいるかもしれません。あるいは、新しいスタートを切りたいと思っても、自分の古い癖に何度も陥ると、 その聖書の言葉は自分には当てはまらないようにさえ思えてくるかもしれません。

  しかしこれは、神の言葉を信じるか、あるいは自分の感覚、感じていることを信じるかのどちらを選ぶかということに行き着くと思います。

 神様は、イエス様を受け入れた人に対して、あなたは新しい人だと言っています。そして、それを新しく生まれることと例えています。

だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。

(ヨハネによる福音書三章三節)

 「新しく生まれる」ということは、イエス様の霊を心に迎え入れることによって、その神の霊によって生まれることです。

彼(イエス)を受け入れた人、すなわち、その名を信じた人には彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。

(ヨハネによる福音書一章十二、十三節)

だから、自分が新しい人となったと実感できなくても、神の言葉を信じてください。

  「たとえ全ての人を偽りものとしても、神を真実とすべきである」とありますが、その全ての人の中には自分も含まれているのです。「何も新しくなったように感じない」という自分の感じよりも、「あなたはキリストを受け入れたのだから、新しい人になったのだ」という神様の御言葉の方が真実なのです。

  私たちは、日々新たにされています。目に見える昔ながらの自分は何も変わっていないように見えたり、あるいはもっと悪い状態になっているように思えても、霊の現実においては、主は日々新たにしてくださっているのです。

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、 内なる人は日ごとに新しくされていく。(コリント人への第二の手紙四章十六節)

 聖書には、何十回となく「聖徒」という言葉が出てきますが、それは、神様の恵みによって救われた罪人のことです。つまり私たちもその聖徒なのであり、神様が私たちをそう呼んでくださっているのです。

 神様は私たちを「聖」と見なしてくださっていま す。それは私たちの行いが正しいからではありません。そうではなく、私たちがイエス様を信じて赦され、救われた者であるが故なのです。

  私たちは、自分の行いによって神によって「聖」なる者として受け入れられるのではありません。私たちの行いも性質も邪悪なものでいっぱいです。しかし、私たちの罪を赦すために十字架にかかって血を流してくださった方が私たちの中に入られて、私たちの「聖」となってくださったのです。それ故に神は私たちを聖徒と見なしてくださるのです。そして、私たちを聖徒としてくださった神様は、同時に私たちを「新しい人」と してくださったのです。

 あなたもキリストにあって、新しい人です。

あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。

(第一コリント人への手紙一章三〇節)

  あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。(コロサイ人への手紙三章九、十節)