夢による導き  二〇一一年 秋 ひとしずく六四六

 私は、妻と友人とで、一つの開かれた扉の前に立って、それについての代価や、どんな可能性があるかなど、色々と思案していました。
 それぞれ意見をお互い話し終えた時、友人が「主の御心を聞きましょう。まずは、今日は、休みましょう」と言いました。
 そして私たちは「眠っている時でも、なくてならぬもので、私たちを養ってくださいますように!」と主に祈って床についたのでした。
 
 すると、私は一つの夢を見、その夢で目が覚めてしまいました。とても意味ありげな夢でした。私は、あまり夢を見ない方なのですが、見る時には、それが意味あるものであることがよくあります。
 すっかり目覚めてしまった私は、真夜中でしたが歩きながら、今見た夢はどういう意味だろうと、解釈を求めて祈っていました。
 すると、友人が起きてきて「主から何かもらいましたか?」と尋ねました。
 私は夢の解釈がまだわからなかったため、その夢のことは、その時には伝えませんでした。友人は「主の御心を求めましょうね」と言って、再び寝室に帰っていきました。
 私は、その後また解釈を求めて祈りました。そしてだんだんと、その夢の解釈がこういう意味ではないかと紐解かれていくように感じました。
 翌朝、自分が見た夢のことを妻や友人に話しました。そしてその夢の解釈は、昨夜会話の中で、自分たちがしようということになっていたこととは、反対のことを意味するということも話したのでした。
 すると友人が「私も夢を見ました」と言って、その夢の内容を教えてくれました。驚いたことにその夢は、私の夢の続きというか、自分の見た夢の解釈を裏付けるような夢だったのです。
 一晩の内に、別々に夢を見て、自分たちの思いで話し合っていたこととは、逆の方向を主に示してもらったことになります。
 
 聖書には「終わりの時には、息子娘は預言をし、老人は夢を見る」とあります。

まさしく、老人?の私と、老人でない?友人にまで、主は導きを夢で示してくださったのでした!
 私たちが、当然だと思っている時、またこうしたいという強い意志を持っている時、主にとっては、主の意思を伝えるための障害となることがよくあるのでしょう。
 私たちが、眠って、自分の思いから解放されたオープンな状態になる時、主は夢を通して、導きを与えやすいのかもしれません。
  主は、私たちが必要としている導きを、このように夢と言う不思議な方法を使って、示してくださったのでした。主のなさる素晴らしい業を、心からほめたたえます!

あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。

(詩篇一二七篇二節)

神がこう仰せになる。終わりの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは、夢を見るであろう。

(使徒行伝二章十七節)