神の法則に生きるなら 二〇一二年九月十八日 ひとしずく九三九

 土地のことで、争うということは古くからある問題です。聖書の創世記十三章にも、アブラハムの羊を飼う者達とロトの羊飼い達が場所の取り合いで争っていたことが記されています。

アブラム<のちのアブラハム>は妻とすべての持ち物を携え、エジプトを出て、ネゲブに上った。ロトも彼と共に上った。アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた。彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ。アブラムと共に行ったロトも羊、牛および天幕を持っていた。 その地は彼らをささえて共に住ませることができなかった。彼らの財産が多かったため、共に住めなかったのである。アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちの間に争いがあった。

 彼らはそれぞれ、群れを抱えていて大きな集団となっていたようです。アブラハムは、甥のロトと彼の下で働く羊飼い達との争いを避けたいと思っていました。そしてどうしたかというと、聖書の続きを見てみましょう。

アブラムはロトに言った、「わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう。全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう」。

ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。

アブラハムは、ロトに選択権を与え、別れたのです。何と賢く大人の決断であったことかと思います。当然、羊を飼うためには良い土地をアブラハムも望んでいたことだろうと思います。しかし、アブラハムはロトにそれを譲る事にしたのです。相手を優先したのです。それはなぜでしょう? 平和を、つまり神の御心を第一に考えたからです。

アブラハムは、「私がこっちを取るから、お前はあっちに行け。お前は私の甥であり、私に付いてきた者だ。私のお蔭でここまで財産を増やすことができたのだから恩義を感じろ」と当然の権利を主張することもできました。しかし、アブラハムはそうしなかったのです。 

私たちは目の前の利益に執着し、それを逃したら大損するという世の考え方に煽られやすいところがあります。そして相手に「なめられないように」、とか、相手の思うようにはさせないとか、闘争心剥き出しにして奪い合うケースもこの世ではあります。

しかし神様は、私たち人間が、目先の損得勘定によってではなく、平和と愛を第一に考えて選択することを望んでおられるのだと思います。そして、主は、その選択をした者が損をするようには決してなさらないのです。

ロトに好きな土地を選ばせたアブラハムは、その後、貧しくなったでしょうか?いいえ。聖書には次のようにあります。

ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から 北、南、東、西を見わたしなさい。すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。わたしはあなたの子孫を地のちり のように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。あなたは立って、その地 をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。(創世記十三章一~十七節) 

そうです。神は平和を最優先にしたアブラハムに損をさせませんでした。それどころか、以前に増した大いなる祝福をもたらしてくださいました。

これが神の法則です。つまり「与えよ、そうすれば与えられる」「受けるより与える方が幸いである」の「与える法則」です。

さて、私が今住んでいるここ秋田でも、この神の法則に生きている人が大勢います。実家の周辺では、皆、採れた山菜や野菜を周りの人たちと分ち合う慣習があります。誰も、そこはうちの山だからそこに入って山菜を採るなとは言いません。母も、山菜を採ってきた時には、近所の一人暮らしのお年寄りの所 に届けます。

 この田舎の人たちの習慣に、アブラハムに似た知恵を見出します。持ち物を持つということには、それを分かち合うという責任が伴うのだと思います。山であれ、海であれ、島であれ、それは神様からの授かりものであり、それをもって他の人に仕えるのであって、自分のためだけにあるのではないと思います。

自分のものだと主張し合い、争い、そしてそれを手に入れたとしても、人は何を得るのでしょう? 資源でしょうか? 莫大なお金でしょうか?それらのものは、人々に平和と幸せをもたらすのでしょうか?

<土地を買いあさり、今ひと時の支配と権力を得ても、もうすぐ主が来られて、主と主の民の支配の下に人々が生きるようになるとしたら、自分が得ようとあくせくしたことは何の得になるでしょう?いずれにせよ、主のおきてを無視して富を得ても、おそらくそれらの人は地上に姿を見ないことでしょう。かえって「柔和な人が地を継ぐ」ことを私たちは間もなく目にすることと私は信じます>

「与える」という神の法則は、真に幸せな人生を送るための秘訣です。

与えるなら、私たちに必要な全てを、いえ、それ以上の祝福を神様は与えてくださるでしょ う。

あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。 あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う…

(ヤコブの手紙四章一、二節)

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなた方は、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。

(ルカの福音書六章三十八節)

受けるより与える方が幸いである。 (使徒行伝二十章三十五節)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与え られる。                                      (マタイによる福音書六章三十三節)

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

(マタイによる福音書五章五節)

 

悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。

それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。 

 (詩篇 一篇一~六節)