産みの苦しみ 二〇一二年十月四日 ひとしずく九六二

 先日、那須で知り合いになったある芸術家の方が、東京で展覧会を催しているので、友人と妻とで行ってきました。ちなみに、都庁の中庭にある、てんとう虫のモニュメントは彼の作品です。

会場に展示された作品を前に、彼はこんなお話をしていました。
「わたしが一枚の葉を描き始めると、隣りの葉っぱが、『私も描いてくれないのか』と言い始める。それで、それも描き始めていると、今度は周りの他の葉っぱや花たちも言い始める。耳をよく傾けていると、何とそこでは素晴らしいオーケストラが奏でられているんです。花や葉っぱ達によるシンフォニーです。私は、そんな世界に出会うと、思わず筆を置いてしまい、私の出る幕じゃないと思うのです。

よく私たち芸術家は、自分の好きな勝手な世界を造り上げるところがある。でも、葉っぱも花も、私のちっぽけな想像力をはるかに越えた神秘的な創造力によって形造られているんです。だから、筆を置いて、感嘆して圧倒させられるまま、神様に自分をただ委ねるということに行き着くんです。」

この方の作品は、そんな花たちの絵が多くありますが、それらの絵にはどれも深いメッセージが込められています。例えば、大きく描かれたひまわりの花びらの一つが獅子に似た形をしていて、美しく咲いているひまわりの思いに潜むプライドを表していたり、花の絵の一部に十字架が描かれていたり、他にも様々な表現が絵に織り込まれているのです。それらの絵から、人間の一生や天地創造、永遠の世界、霊的な戦いと言った意味深いシーンをかいま見ることができました。

そばで、この芸術家のお話を聞いていたNさんが、次のように話をつなぎました。(彼女の愛する旦那さんは、最近天に召されたばかりです)

「どんな小さな世界にも、大宇宙の神秘をかいま見させてもらえますね。一人の人の一生の思い出の姿に、この世界の移りゆく様、そして行く末が重なって見えるように」と。

私も本当にその通りだと思いました。小さな花、一人の人間、皆、大宇宙の中の小宇宙であり神秘に満ちています。

そして私は、これらの絵を見させて頂いて、人の一生、また人生の卒業について考えていました。今、私たちは終わりの時に生きていますが、この世の終わりと、人生の終わりとが重なって見えるのです。Nさんも言っていましたが、人が亡くなる時、苦しみを通過しますが、それはこの世が、終わりの大艱難期の苦しみを通過するのと同じように思えます。世がそれを通過したなら、地は新しくなり、至福千年という新しい時代を迎えるように、私たち人間も苦しんだ後には、死を通して、痛みも苦しみもない新しい世界に生きるようになるのです。

さなぎから生まれ変わる蝶の姿に、また散っていく花が実を残して再び花を開かせる姿に、肉体は滅んでも魂は、そして愛は、永遠に続くという真理のメッセージが聞こえてくるようです。

誰もがやがて、この人生の卒業の日を迎えます。その時には、ほとんどの場合、何らかの痛みや苦しみを通過しなければならないことでしょう。そして卒業するのが自分の愛する人だとしたら、その苦しむ姿を前にして、とてもつらい思いをしなければならないと思います。しかし、その苦しみは決して苦しみに終わりません。その苦しみは、素晴らしい喜びに続く、産みの苦しみなのです。

今まさに新しい命を産み出そうとして苦しんでいる妊婦さんを見守る時のように、肉体と言う古い衣から抜け出ようとして苦しんでいる愛する人を、希望と喜びをもって見守ろうではありませんか。そして私たち自身の卒業を迎える時にも。

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。

(黙示録二一章一節)

イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか』。

(ヨハネ十一章二五、二六節)