たとえ枯れようと 二〇一二年九月二十八日 ひとしずく九五〇 

美しい花がしぼんでいくのを見て、何故花はしぼむのか?と疑問に思ったことがあります。どんなに美しく咲いても、半日ほどでしぼんでしまう花さえあります。

 しかし、その美しい花がどんどん勢いを失い、完全にしぼんで枯れてしまっても、記憶の中に、その花の完璧な美しさがそのままの形で残っているのです。

 そして、翌朝、または翌年、記憶通りに同じように完璧な形の美しい花を見ることになります。つまり、花の時期はとても短いものですが、その花の完璧な姿は、ずっと記憶に残っているのです。

こんなことを考えていて、思いました。きっと天国でも、これらの花を見ていたんだ。神様 は、天国を垣間見させるために、すぐに枯れてしまうけれど、地上にこれらの花たちを咲かせて私たちに見させて下さっているのだと。

天国では、枯れるということがなく、いつも花は完璧な姿で咲いているといいます。

天国には死も、また腐ったり汚れたりといったこともないからです。

ですから、美しい花がしおれたり散ったり、枯れたりしても、決して滅びない天国の完璧さを思い、がっかりすることはないのです。この次第に年老いて行く自分の姿にもがっかりすることはありません。天国では老いることもなくなるのですから。

この地上においては、枯れたり、腐ったり、老いたり、病気になったり、死んだりしますが、 天の国においては、命はいつまでも完璧な状態で永遠に続いているのです。

永遠の天国を思えば、この地上での人生は長いようでもあっと言う間です。

私たちが不幸せな時、この地上のものに目を留めている時なのかも知れません。神様は、そんな私たち人間に、かすかな天国の記憶と思いを与 えて、今あなたのいる所は仮の場所、あなたの見ている悲しみの風景は、天のふるさとへの道中の景色なのだ、ということに気づかせようとしているのだと思います。

主は、ゆっくりと時間をかけて、私たちを諭してくれます。天からきたこの愛しいものは、そろそろまた天に帰る時が来たんだと。

しわが増えてきて、生気が衰える姿から、それがわかるようにしてくれているのです。それは決して悲しいものでも虚しいものでもありません。

私たちは、懐かしく過去の若々しい時のことを思って悲しむ代わりに、命溢れる天の国へ、もうじき旅立とうとしていることゆえに喜ぶべきだと思います。

天国に行ったら、この世の痛みや苦しみはなくなります。そして、地上では、じっくりと味わい楽しむことができなかった全てのものを、ゆっくり楽しみ味わうことのできる機会もたくさん持つことになります。

ですから、美しさや体力が衰え、そして大切なものが損なわれ、惜しい気持ち、残念な気持ちを抱く時、その美しさも完璧さも損なわれずに完璧に保たれる天国に思いを馳せようではありませんか?

この世のもの、目に見えるものは一時的なものです。しかし、目に見えないものは永遠です。

私たちを愛するために遣わされ、その美しさと優しさをもって、私たちに触れ、慰めてくれた花も、また動物たちも、そして愛する人たちも、この世から消え去っても、いつまでも私たちの心の中に生きています。単なる過去の記憶としてだけではなく、今ここで霊の内に共におり、また将来天においては、顔と顔とを合わせて、その再会を喜び合う時がやってくるのです。

愛はいつまでも絶えることがない。(第一コリント人への手紙十三章八節前半)

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされ ていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにで はなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。      (第二コリント四章十六~十八節)