聖書によれば、私たちの思考と感情を支配するのは誰か?
からの抜粋翻訳
質問 #1:
友人が私に書いてきたことについて考えていました。彼はこう書いていました。「あることに気づきました。人生にこれほど多くの『グレー・ゾーン』があるのは、私たちが神の御言葉を適用することによってではなく、『灰白質(グレー・マター、つまり自分の頭)』を使って結論を出してきたからです。」先生もそう思われますか?
返信 #1:
ある意味では、そうです。私の経験と観察からすると、「グレー・ゾーン」が生じるのは、私たちが弱い立場から物事に対処している時だけです。その弱さは、次のいずれかに基づいています。1)過去の過ちによって、神が私たちに本来望んでおられた最善の御心とは異なる困難な状況に陥ってしまった場合、あるいは、2)私たちの心の中にある問題のために、大小を問わず、完全な信頼や従う意志が欠けており、そのため、本心では何をすべきか、あるいは何をすべきでないかについて本当の真理を分かっていながら、自分の行動を正当化するような理屈をつける方向へと、自らを追い込んでしまう場合、あるいは、3)霊的成長が不十分な場合(すなわち、ある事柄についてまだ真理を知るに至っていない場合)です。
すべての人間、すべての信者が、上に挙げた三つすべてについて責任を負っており、またその影響を受ける弱さを持っているということに注意すべきです――違うのはその程度です。しかし、それはまた、方向と速度の問題でもあります。イエス・キリストに献身する信者として、私たちは羅針盤の示すまさに正しい方向を、まっすぐ正確に向いているべきです(数度ずれているのでもなく、まして180度反対を向いているのでもありません!)。そして、シオンへと続く高い道を力強く歩み、日々イエスにあって成長し、イエスのために実を結んでいくべきです。私たちの戦い、すなわち、イエスが望まれるように生きるという私たちの課題において大切なのは、過去の過ちを振り返ったり、現在の不完全さに目を向けたりすることではありません。むしろ、これから先を見つめ、「今」がどのような地点であろうとも、そこから、過去の罪を告白し、過去の過ちを認めて、それらを後ろに置くこと、どのような状況にあっても、ますます深く主を信頼し、主により頼んで自分自身を主に委ねること、そして、主の真理を学び、日々できる限りその真理のうちに成長するために最善を尽くすことです。
私たちが霊的成長の道筋からそれることなく、神の御言葉を学び、それを日々ますます一貫して適用していけばいくほど、あらゆる「グレー・ゾーン」が次第に消えていくだけでなく、主が私たちに歩むよう招いておられる道を、まさに主が望まれるとおりに歩もうとする意志も、また実際にそうする力も、ますます強くなっていくことに気づくでしょう。
正しい者の道は、夜明けの最初の光のようであり、真昼の完全な光に至るまで、ますます明るく輝いていく。(箴言4章18節 /NIV訳)
私たちの主イエスにあって、ボブ・L
質問 #2:
最後にお話ししてから、ずいぶん長い時間がたちました。それ以来、私は多くの試練や苦難を経験してきました。かなり長い間、私はとても孤独に感じていました。熱心に祈っても、まるで話し中の信号が返ってくるだけのように思えました……心では、決してそうではないと分かっていたのですが。長年キリストとの堅固な関係を保ってきた後なのに、まるで道に迷ってさまよっているような感じでした。
この迷っていた時期、私は本来あるべき生き方をしていませんでした。聖書を読み、学んできたことから、私は罪を分類しないようにしています(つまり、「これは本当にひどい罪だが、こちらはそれほどでもない」というように)。私の罪は、ほかのだれの罪より軽いわけでも重いわけでもありません。罪はすべて、私たちを主から隔てるものです……。しかし、ともかく、最近、主は私に懲らしめが必要だと判断されたようです。それで、主は私を「物置小屋の裏へ連れて行かれた」のです。少なくとも、私にはそう感じられます。でも、それは確かに効きました。先生はメールの中で、ご自身の過去や、どのようなことがきっかけとなって今のミニストリーに至ったのかについて、よく話しておられますが、先生もこれまでに「物置小屋の裏へ連れて行かれた」ように感じたことがありますか? 立ち直らせる方法としては非常に効果的ですが、確かに痛いものです。私はもう一度、先生の「第一ペテロ」と「罪についての教理(Hamartiology)」を読み返しました……。どちらも慰めとなり、心を新たにしてくれ、私の霊にとって素晴らしい癒やしとなりました。
どうしてこうなったのか、あるいはなぜこうなったのか、少し説明していただけないでしょうか。最初はいくつかつまずくことがあっても……私は大丈夫でした……ところがその後、まるで誰かが突然明かりを消したかのようになったのです。これは成長の過程だったのだと確信してよいのでしょうか? その直前まで、私は主を非常に身近に感じていました……。主は私のすべてでした――今もそうです。そして、どうか分かっていただきたいのですが、この危機の最中でさえ、私は主がどなたであるのか、また主が存在しておられることを一度も疑いませんでした。ただ突然、暗闇になったのです。私は自分についたほこりを払い、気を取り直して立ち上がらなければならないことは分かっています。自分を責め続けたり、過度な罪悪感を抱いたりすべきではないことも分かっています。それでも、自分がこれほど簡単にだまされてしまったことが信じられないのです。このようなことが二度と起こらないようにする方法はあるのでしょうか? 聖書を持って物置に閉じこもる以外に? もちろん、それが現実的でないことは、先生も私も分かっています。それに、それが正しいことなのかどうかさえ分かりません――それでは本当に「戦っている」ことになるのかどうかも分かりません。
先生が注いでくださっているすべての時間、労力、知恵、そして努力に、改めて感謝します。私たち皆が主と共にいるその日が来るまで、私は何度でも同じことを言うでしょう。先生は、ご自分が日々どれほど多くの人々の人生に影響を与えているのか、本当の意味では決して分からないのではないかと思います。人から質問を受け、それに答えようとする時、私は多くの人に先生のサイトへのリンクを送ってきました。今日、人々はキリストについて非常に混乱しています。明かりが消えていた時でさえ、私は混乱してはいませんでした。暗闇の中にはいたかもしれませんが、明かりのスイッチへどうやってたどり着けばよいのかは分かっていました。そして何よりも大切なことに、「光」が存在することを知っていました。考えてみれば、これは先生のサイトを表すなかなか良いたとえかもしれません。それは、いわば明かりのスイッチへと導いてくれる道のようなものです……そして時には、「光」そのものへと導いてくれる道なのです。
返信 #2:
最近、いろいろと大変な思いをされたことを残念に思いますが、それを乗り越え、信仰をしっかりと保っておられると聞いて励まされました。また、聖書の基礎第三部Bその他の学びが役に立ったと聞いて、私も心からうれしく思います。それは、(「来たる艱難期」を何とか完成させようとしている一方で)「基礎教理」シリーズの次の各部にもこつこつ取り組み続けようという励みになります。
へブル12章8節にあるように、私たちは皆、キリストへの信仰を通して神の本当の子供であり、本当の子は皆、その行いを正すために懲らしめを受けます――そして、もし私たちがまったく懲らしめを受けないのであれば、それは私たちが本当の子ではなく、私生児であることを示すだけです。ですから、もちろん、私も自分なりに懲らしめを受けてきました。何が試練で、何が懲らしめなのかを区別するのが難しいこともあるのは確かですが、実のところ、それを私たちが知ることはそれほど重要ではありません。何が罪に当たるのかを十分に理解し、問題が罪にある時には自分の行いを改めることができるかぎり(聖書と聖霊と良心があるので、これはごく若いクリスチャンにとってさえ、それほど難しいことではありません)、また、どのような圧力に直面しても主に忠実であり続ける決意があるかぎり、問題の実際の原因が何であるかは、それほど重要な問題ではありません。むしろ問題は、懲らしめ、あるいは試練――またはその両方が重なったもの――のもとで、私たちがどのように耐え抜くかということです。懲らしめを受ける際に陥りやすい危険は、弱り果てたり、落胆したりすること、すなわち、本質的には信仰を失うことです(へブル12章5節; 12章12節参照)。一方、試練を受ける際に陥りやすい危険は、神を責めることによって失敗すること、すなわち、本質的には信仰が欠けることです(へブル3章12-19節; 出エジプト15章22節-17章7節など参照)。
自分でもよく分かっている失敗のために懲らしめを受ける場合、普通、問題は神を責めることではありません(なぜなら、その結果によって苦しい思いをし始めると、むしろ私たちは自分自身をかなり激しく責めることでしょう)。むしろ大切なのは、すぐに正しく応答し、悔い改めて十分に罪を告白し、へブル12章の勧めを心に受け入れるよう努めることです。そこでは、このすべての中にある良い面に目を向けるよう私たちに教えています。私たちが失敗した時でさえ、神は私たちを愛しておられます。そして、正当に罰を受けている時に、自分が神から以前より遠く離れてしまったかのように「感じる」ことに固執するなら、実際には自分で自分を傷つけているだけなのです。殺人と姦淫のことで責められた後、喜んで主のもとに立ち返り、心を尽くして主にすがったダビデの模範を、私たちは心に留めておくべきです。確かに、主は彼を厳しく罰せられ、その懲らしめは何年にもわたって続きました。しかし、主はなおダビデを愛し、なおダビデを用い、なおダビデの祈りに耳を傾け、なおダビデの上に豊かに祝福を注がれました――懲らしめの最も苦しい時期のただ中にあってさえ、そうされたのです。ダビデは主を、また主の愛と正義を理解していました。そして、ダビデの信仰と希望と愛は、彼の過ちを通して衰えるどころか、かえって成長していきました。このために、彼は常に「神の御心にかなう人」であったのです。そしてもちろん、この例外的な失敗そのものを除けば、私たちもダビデの模範に従うのがよいでしょう。
一方、ヨブはまったく懲らしめを受けていたのではありません。そしてもちろんヨブ自身も、自分に多少の欠点があったとしても、それが自分の受けているような懲らしめを正当化するものでは決してないことを、よく分かっていました。しかしヨブは、自分が受けているものがそもそも懲らしめではなく、試練である可能性を考慮に入れることができませんでした。彼の場合、自分の正しい行いがかえって自分に不利に働いてしまったのです(それに対して、あなたや私、あるいは普通のクリスチャンであれば、実際には試練であったとしても、自分は懲らしめを受けているのだと思うかもしれません)。この試練におけるヨブの忍耐もまた、完全であり、ことわざになるほどのものでした――彼の友人たちがやって来て、彼らが特別に厳しい神の懲らしめだと思い込んでいたこの苦難の原因は、ヨブの罪深さにあると責めるまでは。もしヨブが、友人たちの冷たい慰めも試練の一部なのだと理解してさえいれば、この試練にも耐え抜くことができたかもしれません。しかしこの点では、彼はまったく不意を突かれたようです。少なくとも、それ以外のすべてには耐えることができたのに、このような苦境の中で、自分がそうではない者であるかのように決めつけられたことに対する怒りを抑えることができなかったのです。
懲らしめの目的は、私たちの悪い行いを正すことです。試練の目的は、私たちの良い行いをさらに完全なものにすることです。私たちが成長するためには、その両方が必要です。一般的に言えば、成熟した信者であれば、この二つを見分けることができるはずですが、前進していてもなお不完全な私たちには、両者が重なり合う時もあるでしょう。大切なのは、1)自分にできるかぎり、外から来るいかなるものにも、自分の霊的成長と実を結ぶ働きを妨げさせないこと、2)信仰の不足や喪失によって、内面的に失敗しないことです。むしろ、すべては私たちの信仰にかかっています。すなわち、その信仰を日々築き上げ、成長させていくことです。
これは「感じる」かどうかの問題ではありません。あなたの言いたいこと、そしてあなたが何を言っているのかは分かりますが、これは非常に重要な点です。私たちは、思考、言葉、行いという三つの領域で行動しており、自由意志によって、理論上はそのすべてを完全にコントロールすることができます。実際には、罪の性質、悪魔、肉の弱さ、置かれている状況の制約、そして私たち自身の不完全な霊的状態がすべて、私たちの内にある「意欲はあっても」という霊に対する足かせとなっています。さらに私たちは、しばしば間違った選択をします――あまりにも頻繁にそうしてしまいます。しかし、私たちが自分の思考をコントロールしないなら、いったい誰がするのでしょうか。私たちが自分の感情を支配しないなら、いったい誰がするのでしょうか。私たちが自分の言葉を注意深く選ぶことができないなら、いったい誰ができるのでしょうか。そして、自分の霊的成長と実を結ぶ働きを最大限にすることを目標として、可能なかぎり最善の決断をするために、自分自身の人生に責任を持たないなら、いったい誰がそうしてくれるのでしょうか。
これらはすべて私たち自身の手に委ねられています。そして、私たちが直面する妨害や制約にもかかわらず、私たちには非常に大きな強みもあります。私たちの内には聖霊が住んでおられます。私たちには聖書全体が与えられており、それを読み、学ぶための手段と機会もあります。そして、もう一つ、私の考えでは非常に強力でありながら、十分に活用されていない武器があります。それは、現在と将来の自分たちの状況について、具体的な知識を持っているということです。私たちは、自分たちが主によって評価されることを知っています。主が今この瞬間も私たちと共におられ、私たちを愛し、気遣い、守ってくださっており、私たちが主のために最善を尽くすことを望んでおられることを知っています。この世は、ちりと欲望とさびにすぎませんが、来たるべき世界は、今の私たちの想像力をはるかに超える素晴らしいものであることを知っています。そして、この世で私たちが考え、語り、行うことに基づいてなされる、すべての良い決断と努力に対して、永遠において報いを受けることも知っています。その報いは、私たちが何ものにもまして愛する方を喜ばせるものであり、また、これから永遠にわたって私たち自身を祝福するものなのです。
したがって私たちは、霊的な面で攻勢に出て、それも積極的に前進すること、とりわけ霊的成長と実を結ぶ働きにおいて、また、私たちが考え、行い、語るすべてのことに真理を適用することにおいて、積極的に前進することが何よりも重要であると知っています。それは人生におけるほかの何よりも重要です(そしてもちろん、この世の人々が重要だと考えている事柄の99.9999%よりも、はるかに重要なのです)。
多くのクリスチャンは、このようなことは「自動的に」起こるものだと考えています。しかし、そうではありません。旧約聖書の偉大な信仰者たちは、おそらく私たちには想像もできないほどの「精神的な汗」を流し、一日を通して一瞬一瞬、主に意識を集中し、主とその真理に思いを向け続けていました。一般的に言って、今日のクリスチャンは、これほどの真理の適用には到底及んでいません。しかも、私たちのほうが多くの利点を持っているにもかかわらずです。聖霊の助けがあれば、これを行うことがより容易であることは疑いありません。そして、その聖霊が私たちの内に住んでおられます。聖書の助けがあれば、これを行うことがより容易であることも疑いありません。そして私たちには、聖書が豊富に、しかも容易に手に入ります――旧約聖書だけでなく、新約聖書もあります。また、少なくともこの国では、私たちの大部分にとって、近代以前の生活に伴っていた過酷な苦労がない分、これを行うことはより容易なはずです。私たちには多くの技術的、物質的な利点があります。しかし、それらを良いことのために用いるどころか、私たちは怠けるようになり、自分たちが霊的な戦場を歩いていることを忘れてしまう傾向があります。
ですから、ここには大きな課題があります。そして私は、あなたにも、ほかのすべての人にも(私自身を含めて)、この課題を全面的に受け入れるよう勧めたいと思います。私たちがそうしていないこと、少なくともこれまで十分にそうしてこなかったことは、まったく理解できないことではありません。そうすることが難しいのは明らかだからです。それに加えて、私たちは、主の臨在を本当に感じ始め、防御と攻勢、聖別、そして霊的成長と実を結ぶ働きにおいて本当に前進していると感じ始めると、気が緩んでしまう傾向があるかもしれませんが、悪魔とその勢力がそのような罠に陥る可能性はずっと低いのです。実際、私たちが戦場で存在感を示し始めたまさにその時こそ、悪魔が反撃してくる可能性が最も高いのです。ですから、前進しているクリスチャンが、苦労してようやく奪い取った丘から、また一気に押し戻されてしまうような経験をすることは珍しくありません(実際、世俗的な戦争のたとえで言えば、まさにその時こそ反撃する絶好の機会です)。しかし、そのような時に私たちができる最悪のことは、自分の失敗や敗北に過剰に反応することです。それはしばしば、最初の失敗や敗北そのものよりも悪い結果を生みます。この点について「サタンの反逆」シリーズで私が強調しようとしてきたのは、この人生で起こることを個人的なこととして受け止めないようにすることです。神はただ私たちの最善だけを願っておられます。悪魔は、私たちが何をしようとも私たちの敵です。そして、私たちの周囲に見える人々や物事や状況は、たいてい、霊的な領域で実際に何が起こっているのかを見る私たちの目を曇らせる、単なる気をそらすものにすぎません。私たちには使命があり、目標があり、達成すべき目的があります。そして、それを達成するために、自分に与えられた資源と機会を最大限に活用すべきです。私たちが存在するこの第一の目的のために、時々いくらかの資源を注ぐだけではなく、この決定的に重要な目的のために、常に自分自身をささげ、専念すべきなのです。この世では、こうしたことはすべて目に見えないため、この視点を失うのは非常に簡単です。しかし、私たちが信仰を置いているのは目に見えないものに対してであり、目に見えるものの大部分は、実のところ何の価値もありません。
私たちは、見えるものに目を留めるのではなく、見えないものに目を留める。見えるものは一時的であるが、見えないものは永遠だからである。(第二コリント4章18節)
私たちは、[生ける御言葉と書かれた御言葉への]信仰によって[クリスチャンとして]歩んでいるのであって、目に見えるものによって歩んでいるのではない。(第二コリント5章7節)
勝利を得るためには、毎日、一瞬一瞬、信仰の良い戦いを戦い続ける必要があります。つまずいた時には、いつまでもそこにうずくまっているのではなく、すぐに立ち上がる必要があります。そして成功するたびに、そこでくつろいでしまうのではなく、決意をもって前進し続ける必要があります。私たちは、いつでも自分が何を考えるか、またどのように感じるかについて、全面的に責任を負わなければなりません。心の平衡を崩されそうになった時には、聖書から学んだ真理について考え、人生における真の優先事項へと自分の思いを立て直すことができます。そして「気分が悪い」時にはいつでも、御言葉と、自分が知り信じている真理の原則によって、主にあって自分自身を励ますことができます(ダビデがそうしたように。第一サムエル30章6節)。人生は、「上にあるもの」以外のことに思いを費やすには短すぎます(コロサイ3章14節)。人生は、キリストご自身の体の一部とされている自分たちの立場と、復活という祝福された希望を思って喜びに満たされずに過ごすには短すぎます。そして人生は、この地上で私たちに与えられている時間と自由意志を最大限に活用し、永遠にわたって私たちの救い主に栄光を帰する報いを得ることなく過ごすには短すぎます――実際、それこそ主が私たちに望んでおられることなのです(リンク「報い」<リンク先のファイルの8頁-/A5版印刷本「ペテロの手紙」の130頁-「クリスチャンの生産と永遠の報酬:Ⅲ.生産は報われる」を参照下さい>参照)。
方向を見失うこと、気分が落ち込むこと、霊的にさまようこと、罪に巻き込まれること、すべきだと分かっている良いことを行うのに気が緩んでしまうこと――これらはすべて、霊的な攻勢に出て積極的に前進しているのではなく、程度の差こそあれ、霊的に「無断離脱(AWOL)」していることの症状です。私たちは皆、個人的な霊的成長、聖書を読むこと、内容のある聖書の教えから学ぶこと、祈ること、そして自分に割り当てられた実を結ぶ奉仕に、もっと多くの時間を費やすことができます。また、同じ時間を使うにしても、もっとよく行うことができます。もっと精神的な努力を払い、もっと集中し、それらが本当はどれほど決定的に重要であるかをもっと強く意識し、もっと愛と喜びをもって取り組み、本当に大切にする価値のあるものを、心から大切にするよう努めることができます。これは、達成不可能な基準を掲げようとしているのではありません。明らかに、私たちのだれ一人として、この点で100%に近づくことさえできないでしょう。しかし、このような純粋で積極的な主との歩みを自分たちの理想とするなら、願わくは、私たちは常に自分自身の限界を押し広げていこうと励まされるでしょう(そうすれば、自分が封筒の中に封じ込められ、宛先不明郵便物の係へ送られてしまうことも少なくなるでしょう)。私たちはもっとよくできるのです。そして、努力すればするほど、確かに「気分」も良くなるでしょう。
それゆえ、あなたがたの心の腰に帯を締め(すなわち、自分の感情をしっかりと制御し)、身を慎み、イエス・キリストの現れの時にあなたがたにもたらされる恵みを、最後まで望みなさい。(第一ペテロ1章13節 /KJV訳)
以上の事柄のいくつかの側面について論じているリンクを挙げておきます。
戦場(SR #4)<リンク先ファイルの33頁-/A4印刷本「サタンの反乱」では209頁-を参照下さい>
イエスと共に歩む<英文>
徳に満ちた思考の方法(ペテロの手紙 #17)<リンク先ファイルの5頁-/A4印刷本「ペテロの手紙-Ⅰ」の110頁-を参照下さい>
サタンの誘惑の手口<リンク先ファイルの133頁-/A4印刷本「サタンの反乱」325頁-「誘惑」を参照下さい>
新しく生まれた信者としての私たちの新しい方向性(BB 4B)<英文>
クリスチャンの試練とテスト<英文>
世の光である方から、さらに多くの光を熱心に求めつつ。
ボブ・L.