罪、罪悪感、救い
からの翻訳
質問 #1:
こんにちは、ロバート。
もう一つ質問があります。もしかすると答えられないかもしれませんが。
今私が経験していることが、神の懲らしめ(Divine discipline)なのか、それとも悪い者から来ているもので、神が私の霊的成長や他の目的のためにそれを許しておられるだけなのか、どうすれば分かるのでしょうか。
お時間をありがとうございます!
キリストにあって
返信 #1:
キリスト者であるなら誰でも、長く続く苦しみに直面した時に、「これは自分の悪い行いのせいではないか」「神の懲らしめではないか」と考えたことがあるのではないでしょうか。実際にはそうではない場合でさえ、そのように考えたくなる誘惑があります。ヨブのような素晴らしい人物でさえ、その罠に陥りかけました。
あなたは私に苦いことを書き連ね、若い時の罪の報いを受けさせられる。(ヨブ13章26節/NIV)
私たちが罪を犯した時、神は私たちの益のために懲らしめを与えられます(へブル12章1節以下参照。第一コリント11章30-31節も参照)。しかし神は愛に満ちた父です。放蕩息子のように私たちが遠く離れてしまったとしても、神は喜んで私たちを受け入れ、祝福の状態へと回復してくださいます。
すべてのことには目的があります。しかし私たちは、この世をエデンの園のように「良いものを楽しむため」に生きているのではありません。もちろん神は多くの良いものを与えてくださいます。しかし同時に、私たちは悪魔の世界における主イエス・キリストの代表者でもあります。そのため、私たちは絶えず悪い者の攻撃対象となっています。もし罪を犯したなら、告白すべきです。告白するなら私たちは赦されます。そして、聖別された道を歩むことを拒まない限り、私たちは確信してよいのです。最初に私たちを正しい道へ戻すために与えられた懲らしめも、その後には祝福へと変えられ、私たちを神により近づけるものとなります。しかしヨブやパウロ、そして多くの他の信者たちの場合と同じように、主に近く歩んでいる信者に起こることの大半は、過去の罪に対する罰ではないということを覚えておくことが非常に重要です。私たちの神は恵み深く、愛に満ち、あわれみ深く、赦してくださるお方だからです。むしろそれらは、私たちが成長するため、また自分自身ではなく神に頼ることをより深く学ぶために、神が悪い者に許しておられる試練とテストなのです。私たちはこれまで何度も神の真実を経験してきました。ですから試練のただ中にある時、自分自身を責めて落ち込まないことが非常に大切です。その次の段階として、「神は不公平だ」と神を責め始めてしまうことがあるからです。ヨブでさえその罠に陥ったのです(実際に陥りました)。私たちが霊的な冷静さを保っていなければ、なおさらそうなりやすいでしょう。
私たちの主は共にいてくださいます。そして、今日という日が続く限り今日、もし明日が与えられるなら明日、そして最終的には永遠にご自身のもとへ迎えてくださるその時に、私たちをあらゆる苦しみから救い出してくださいます。
その大いなる日には、もはや涙も悲しみもありません。どのような試練にも一つの益があります。それは、もし何もかもうまくいっていたなら向け続けていたかもしれない「今ここ」に対する視線を外し、その代わりに前にある天の現実へと目を向けさせてくれることです。
このことについて、私はそれが私から去るようにと三度主に願った。しかし主は私に言われた。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」それゆえ私は、キリストの力が私の上に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう。だから私はキリストのために、弱さ、侮辱、欠乏、迫害、苦難を喜んで受け入れる。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからである。(第二コリント12章8-10節/NKJV訳)
天こそ、私たちの真の宝がある場所です。そして私たちの心もまた、そこに向けられるべきです。
自分のために地上に宝を蓄えてはならない。そこでは虫やさびがそれを損ない、盗人が押し入って盗む。しかし自分のために天に宝を蓄えなさい。そこでは虫もさびも損なうことがなく、盗人が押し入って盗むこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからである。(マタイ6章19-21節/NKJV訳)
友よ、あなたが解放されるよう祈り続けています。
以下に、この件に関連するいくつかのリンクを挙げておきます<英文>。
Mutual Encouragement in Christ IV(キリストにある相互の励まし IV)
Mutual Encouragement in Christ III(キリストにある相互の励まし III)
On the Firing Line: Encouragement in Christian Trials(最前線に立って ― キリスト者の試練における励まし)
Dealing with Sin and Guilt(罪と罪悪感への対処)
Sin, Fear and Forgiveness(罪・恐れ・赦し)
God’s Dealing with the Sins of Individual Human Beings (in BB 3B)(神による個々の人間の罪への対処(BB 3B))
Mutual Encouragement in Christ II(キリストにある相互の励まし II)
Sin, Salvation and Forgiveness: Claiming the Mental and Spiritual High-Ground(罪・救い・赦し ― 精神的・霊的高地を確保する)
God Heals – in His way (not our way)(神は癒してくださる ― 神の方法で(私たちの方法ではなく))
Fighting the Fight I: Accountability, Faith, Sin, Forgiveness, and Reward(戦いを戦う I ― 責任、信仰、罪、赦し、報い)
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
ボブ L.
質問 #2:
こんにちは、ボブ。
実りある聖金曜日(Good Friday)を過ごされますように(「Happy Good Friday」とは言えませんので)。
十字架刑を見るために集まっていた群衆は皆、起こった出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。(ルカ23章48節)
詩篇42篇6節は何を意味しているのでしょうか。
私は深く落胆している。しかし私はあなたを思い起こす。遠く離れたヘルモン山から、ヨルダンの源流から、ミザル山の地からであっても。
これはあまりにも具体的なので、何か特別な意味があるように思えます。また私は今、新しいブログ記事を書いています。それは「時間とは何か」、そして時間の流れが神の存在を支持する論証とどのように関係するのかというテーマです。
敬具
返信 #2:
友よ、あなたにも良い祝祭の時期となりますように(どの程度祝うかにかかわらず)。
NIVはこの節を次のように訳しています。
わが魂は私の内でうなだれている。それゆえ私は、ヨルダンの地から、ヘルモンの峰々から、ミザルの山から、あなたを思い起こす。(詩篇42篇6節/NIV訳)
これはヘブル語の正しい語順を反映しており、ヘルモン山がミザル山であることを明らかにしています(つまり、後者の名称は説明や強調のために添えられた別名です)。ヨルダン地溝帯は、この山塊から水の供給を受けていますが、地勢的には最も低い場所を表しています。それに対して、この山は最も高い場所を表しています。したがって、この組み合わせは地理的な全体性を表しています。つまり、「どれほど高い所へ行こうと、どれほど低い所へ行こうと」という意味です。言い換えれば、「私がどこにいようとも、この地上のどれほど高い場所にいようとも、どれほど低い場所にいようとも、主よ、私はあなたを覚えます」ということです。
この思いと、この節の冒頭との対比についてですが、詩篇や他の知恵文学(特にヨブ記)ではしばしば「意識の流れ」のような表現が見られます。そこでは人間の著者が、自らの思いや感情と格闘しながら、聖書の原則を思い起こして自分を奮い立たせようとする一方で、自分の置かれた状況から来る絶望感に激しく打ちのめされている様子が描かれています(例えばヨブ記19章21-29節)。これらは実に素晴らしい箇所です。なぜなら、人生や自分の状況を解釈する際に、真理を自分の視点として保ち続けるために戦わなければならないという私たちの人間的弱さは、決して新しいものではないことを教えてくれるからです。それこそがキリスト者の歩みの本質なのです。このテーマについては、次のリンクも参考になるでしょう<英文>:
Fighting the Good Fight of Faith.(信仰の良き戦いを戦う)
Courage in the Fight.(戦いにおける勇気)
Fighting the Fight IV: Dispatches from the Laodicean ‘Front’(戦いを戦う IV ― ラオデキヤ戦線からの報告)
友よ、あなたのブログを通した奉仕が発展していることに大いに励まされています。あなたとご家族のために祈り続けています。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
ボブ L.
質問 #3:
Bible Academyの動画とあなたのサイトで、「罪(sin)」と「悪(evil)」には違いがあると見ました。悪とは、罪を含むものであり、しかも暴力的で、人々の命を危険にさらすようなものなのでしょうか。例えば法を守らない生き方のようなものです。一方、罪とは単に神に対する違反、つまり神に従わないことなのでしょうか。
返信 #3: ヘブル語でもギリシヤ語でも、これらは別の言葉です。その主な理由は、罪(sin)が一つ一つの行為を指すのに対し、悪(evil)は行為を特徴づける、より広い概念だからです。ヘブル語では単純に ra’(悪い) です。ギリシヤ語では poneros で、もともとは「卑しい」「劣った」という意味でした。この重要な神学的違いを私なりに説明するなら、罪とはすべての人間が犯すものです。それには、罪と戦いながらかなり立派に歩んでいる信者も含まれます(罪を犯す回数が少なくなり、またより軽い罪しか犯さなくなったとしてもです)。一方、悪とは、いわばもっと大きな筆遣いで描かれるものです。それは人の行動様式全体や人格全体を特徴づけることもありますし、ある種の行動体系(組織化されているかどうかは別として)を指すこともあります。一般的に言えば、悪魔が推し進めるのは「悪」です。単なる個々の罪ではなく、悪を抱き込み、それに抵抗するのではなく受け入れてしまうような罪の生き方そのものです。この違いは非常に大きなものです。また私はよくこう言います。ある特定の罪や罪の体系について、「それは悪いどころか、本当は良いことなのだ」と主張すること、それこそが「悪」の本質です。私たちは心の奥底では、その違いを知っています。アダムとエバが「善悪〔ヘブル語 ra’ = 悪いもの〕を知る木」から食べて以来、人類はその違いを知っているのです。しかし、もし私たちが真理に対して心を頑なにし、善悪を逆転させ、自分の悪い行いを正当化してそれを善だと呼ぶようになるなら、その時、本来であれば単なる「過ち」であったものが、本当の意味での「悪」へと踏み込むことになります。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
ボブ L.
質問 #4:
こんにちは、ロバート。
本当にありがとうございます。あなたの忍耐、理解、親切さ、そして時間にとても感謝しています(そして、私の質問に答え、私が切実に必要としていた聖書的で確かな安心を与えることができるようになるまでに積み重ねてこられた長年の学びにも感謝しています)。あなたは本当に、本当に、本当にこの件で私を助けてくれました。もしかすると、いつの日か私も、かつての私と同じ場所にいる誰かを助けることができるかもしれません。おそらくこれも主の時とご計画の小さな一部なのでしょう。
あなたが紹介してくださった背教と死に至る罪についての記事を読みました。内容はよく理解できましたし、これからもっと読んでいくつもりです。実際、楽しみにしています。おっしゃるとおり、このサイトには膨大な量の内容があり、何年も学び続けることができそうです。
一つお聞きしたいのですが、私が学び始めるとしたら、どこから始めるのがよいと思われますか。
それから、R/xとは何の意味でしょうか。私にはそれがたくさん必要だとおっしゃっていましたが、その意味が分かりませんでした。
あなたのためにも祈ります。もし特別に祈ってほしいことがあれば、どうぞ教えてください。
こちらは真夜中です。そして今、あなたのサイトである記事を読んでしまい、再び落ち込んでしまいました……涙が止まりません。背教についての章を、今度はちゃんと読み直したのです。私はバプテスマを受けた後、ある日曜日に教会を休んでしまいました。そして牧師に叱られたので腹を立て、それ以来教会に戻らず、再び罪の生活に戻ってしまいました。私は恐ろしくなりました。自分がまったくキリスト者らしい生き方をしていなかったことに気づいたからです。
私はまさに第二ペテロに出てくる者たちのようでした。泥に戻る雌豚のように。またユダ書にある「二度死んだ者たち」のようでした。
もし私が背教してしまったのだとしたら――そして私はそうしたと思うのですが――昔の生活に戻ってしまったのだとしたら(しかも「イエスは何をしても私を愛してくださる」と信じながら)、今さら戻ろうとしても不可能なのではないでしょうか。無意味なのではないでしょうか。
私はもう何年も、自分が本当にクリスチャンなのだと信じようとしてきました。神がおられることも、イエスが罪のために死なれたことも完全に信じています(しかし悪魔もそれを知っています)。けれども私にはもう手遅れなのではないかと思うのです。
私はもう十年近くこの問題と戦っています。教区牧師は私や私の深い質問を避けています。そして、「あなたがそのことを気にしているという事実そのものが、あなたが背教者ではないことを示している」と言います。
でも、地獄に行くと思っている人なら誰だって心配するのではないでしょうか。(そしてそれがどれほど私を恐れさせているか、想像できると思います。だから眠れないのです。)
また、イエスがもう自分を愛しておられないのではないかと思うと、胸が張り裂けそうになります。
最近は、これまで説明してきたように、何度も努力しているのに確かな足場を得られないことで、ますます悲しみや怒りを感じるようになっています。
そして以前メールでお話ししたような故意の罪も犯してしまいました。
今や、私にはあなたの助けしかありません。
もし人が背教したなら、もう戻ることはできないのでしょうか。第二ペテロやユダ書が言っているように。本当にそうなのでしょうか。
私は滅びるのでしょうか。
どうかこのメールを無視しないでください。
自分があなたの時間と忍耐をたくさん奪っていることは分かっています。しかし私は本当に迷っているのです。そして、この苦しみにもう耐えられません。
ごめんなさい、ロバート。
何か、何でもいいので、私に与えていただけませんか。
返信 #4:
こちらとはまったく違う時間帯です。決してあなたを無視しているわけではありません。ただ、もうすぐ仕事に行かなければならないので、今回は短くしなければなりません。まず励まされてほしいのは、あなたはイエス・キリストを信じる信者である以上、背教者ではないということです。背教者とは、イエス・キリストに対する信仰を失った人、あるいは完全に捨てた人のことです。つまり、もはや信者ではなくなった人です。背教者は、あなたが今しているようなことで自分を苦しめたりはしません。なぜなら、彼らは気にしないからです。そして気にしないのは、もはやイエスを信じていないからです。彼らは不信者の状態へと戻ってしまったのです。背教とは、かつて信者であった人が今は不信者になっている状態のことです。それは罪の問題ではありません。実際には、人生への失望や幻滅が原因となることも多く、後になって大きな罪に陥り、その罪悪感のために自分の救いを誤って疑う場合と同じくらい多いのです。
生ける神から離れてしまう不信仰な悪い心が、あなたがたのうちの誰かにないように気をつけなさい。(へブル3章12節/NKJV訳)
どうか覚えていてください。イエスはあなたのすべての罪のために死なれました(私の罪のためにもです)。あなたが信じた時、それらはすべて赦されました。救われた後に私たちが罪を犯すなら――そして罪を犯さない人は一人もいません――愛に満ちた父なる神は、私たちを正しい道へ戻すために懲らしめを与えられます。もし罪の中にとどまり続けるなら、状況は悪化します。しかし、ついに立ち返るなら、回復があります。あなたは立ち返りました。主に罪を告白しました。ですから、あなたは回復されたのです。なぜなら、
キリストの血は私たちをすべての罪から清めるからである。(第一ヨハネ1章7節)
聖書のどこにも、「放蕩息子のように主から遠く離れた旅に出た人は戻ることができない」と書かれてはいません。むしろ、そのたとえの目的は、私たちが戻ることができることを示し、そうするよう促すことにあります。神が設計された人類の歴史は、選択に関わるものです。そして聖書のほとんどすべての頁で、主は私たちに正しいことをするよう、そして遠く離れているならご自身のもとへ帰るよう招いておられます。それこそが主の望みです。初めて主のもとへ来る人であれ、放蕩息子のように以前の祝福へ回復される人であれ、すべての人が主のもとへ来ることを主は望んでおられます。これは聖書が明確に教えていることです。何よりも、私たちのために御子を遣わして死なせてくださった神の愛に満ちたご性質を考えれば分かることです。それなのに、なぜ私たちは、「ただ自分だけはもう戻ることを望まれていない」などと考えるのでしょうか。それは復讐心に満ちた人間的な感情であり、神にはそのようなものはありません。そしてその考えは、間違った罪悪感から生じています。その罪悪感は、悪い者によって煽られ、誤解された聖句を利用してさらに強められるのです。
どの箇所を指しておられるのかは分かりませんが、あなたを悩ませている聖句があるなら、一つ一つ喜んで取り上げてお答えします。そして、その多くについてはIchthysですでに扱っているはずです。
背教についての学びがあなたを苦しめてしまったことは残念です。しかし私は確信しています。その中のどこにも、「人は二度と戻れない」と教える箇所や聖句はないはずです。
どうか理解してください。あなたは信者です。ですから背教者ではありません。過去にどれほど霊的に落ち込んでいたとしてもです。信仰を失いかけた信者は大勢います。しかし今信仰があるなら、その人は信者です。そして、すべての信者は救われています。あなたもその一人です。あなたがどう感じているかとは関係なく。
御子を信じる者はさばかれない。しかし信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ3章18節/NIV訳)
以下の記事もぜひ読んでください。
Salvation Lost and Found(失われた救いと回復された救い)
Lost my salvation?(私は救いを失ったのか?)
Lost my salvation II?(私は救いを失ったのか? II)
Have I Lost My Salvation? (III)(私は救いを失ったのか? III)
No, Hebrews does not teach that you lost your salvation.(へブル書は、あなたが救いを失ったと教えているのではない)
改めて、混乱を与えてしまったなら申し訳ありません。そして、この件については遠慮なくまた書いてください。
私たちを救うために死なれたのであって、私たちを罪に定めるためではない主イエス・キリストにあって
ボブ L.
質問 #5:
ありがとう、ロブ……。あなたは本当に親切な方ですね。特に仕事へ向かう途中だったにもかかわらず、わざわざ時間を割いて私一人のために助けてくださったのですから。私はこのことを決して忘れません。そして、あなたは本当に、本当に特別な人だと思います。
メールをありがとうございました。あれは今までで最も安心を与えてくれた、最も助けになったメールでした。読んだ途端、お腹の奥や心の中にあった恐怖が静まったのです。私は本当に恐れ、おびえていました。しかし、あなたのメールはそのすべてを突き破ってくれました。
私をこれほど恐れさせていた聖句については、またメールでお送りします。でも今は、とにかく少し眠って、今夜はただ主の愛を信頼したいと思います。
もしよろしければ、これからも連絡を取り続けたいです。今の震えるような不安がもう少し落ち着いたら、あなたのサイトの学びを始めようと思います。
あなたのためにも必ず祈ります。
ありがとう、ロブ。本当に、本当にありがとうございました。どうか素敵な夕べをお過ごしください。
神の祝福がありますように。
キリストにある愛をもって(あなたの時間と親切、そして知恵のおかげで、今は以前よりずっと自信を持ってこう言えます)
返信 #5:
どういたしまして。
あなたが信仰を立て直しつつあると聞いて、とても嬉しく思います。というのも、悪魔は不信者を攻撃しないからです。ですから、攻撃を受けているという事実そのものが、あなたが神の子であることを示しています。
霊的成長を始めるにあたってどこから取り組むべきかということですが、Ichthysの中で多くの人が最も助けられている入り口の一つは、(未完ではありますが)ペテロ・シリーズです(案内ページへのリンクをご覧ください)。私はこのシリーズを何年も前に、さまざまな苦難を経験しながらも、霊的成長のために忍耐し続ける励ましを必要としているクリスチャンたちを助けるために書き始めました。
また、FAQの「推奨される学習順序:まずどの学びから読むべきでしょうか?」および「推奨される活用法:これらの学びから最大の益を得るにはどうすればよいでしょうか?」もぜひご覧ください<下にそのリンクの内容の訳文を付します>。
お祈りをありがとうございます!私もあなたのために祈り続けています。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
ボブ L.
FAQ
からの抜粋訳
7. 推奨される学習順序:まずどの学びから読むべきでしょうか?:
これらの教材は、あなた個人のキリスト者としての霊的成長を支えるためのものです。祈り、聖書通読、礼拝、キリスト者同士の交わり、あるいは個人的な奉仕に取って代わることを意図したものではありません。しかし、今日の「目に見える教会」において実質的な聖書教育が極めて乏しいことを考えると、対面での教えによるのであれ、この働きによるのであれ、あるいは他の健全で信頼できる正統的な教えによるのであれ、神の御言葉という堅い食物をどこかで求めることをお勧めします。なぜなら、御言葉の深い教えという決定的に重要な要素なしに、真の霊的成長はあり得ないからです。
もしIchthysをあなたの主な学びの源(あるいはその一つ)とするのであれば、少なくとも毎週掲載されるEメール回答を読むこと、そして既に公開されている学びや投稿を計画的に読み進める個人的な学習計画を立てること(新しい投稿も継続して読みながら)をお勧めします。
また、この働きの資料の多くは詳細に論じられているため、内容を十分に身につけるには何度も読み返す必要があるかもしれないことを覚えておいてください。
さらに、脚注を読むこと、そして特に引用されている聖句を自分で開いて、教えられている内容がどのような聖書的根拠に基づいているのかを確認する習慣をつけることもお勧めします。
いつものように、私はより具体的な質問にお答えするためにいつでも利用できます:Questions2@ichthys.com
8. 推奨される活用法:これらの学びから最大の益を得るにはどうすればよいでしょうか?:
これらの学びはすべて互いに補強し合い、補完し合うものですので、さまざまな取り組み方が同じように有益です(提案の概要についてはリンク先をご覧ください)。
まずは 「聖書を読みなさい」 を読むことをお勧めします。この働きの学習方法を理解するための良い出発点だからです。
その後、「ペテロ・シリーズ」 は、多くの基本教理についての良い総合的入門となります。
また、「聖書の基礎」 シリーズは現在完成しており、収録されている各学び「神について」、Angelology(天使論)、Eschatology(終末論)、Anthropology(人間論)、Hamartiology(罪論)、「イエス・キリストの研究」、Soteriology(救済論)、Pneumatology(聖霊論)、Peripateology(クリスチャン生活論)、Ecclesiology(教会論)、Bibliology(聖書論)は、それぞれの主題を包括的に扱っています。
さらに、完成済みの「サタンの反逆」シリーズと「来たる艱難期」シリーズも、主として終末論を扱っていますが、多くの教理的内容を幅広く含んでいるため、一般的な霊的成長にも非常に有益です。
また、毎週掲載されるEメール回答を読むことを習慣にすることもお勧めします。
E-mails at Ichthys(IchthysのEメール集)。
質問 #6
先生、こんにちは。
お元気でおられることを願っています。ピリピ2章12節の「自分の救いを達成するよう努めなさい(work out your own salvation)」について解説していただけますか。これは「行いによる救い」の神学ではないことは分かっていますが、もっとよく理解したいのです。
私の最初の考えでは、「あなたはすでに救われたのだから、ヤコブが『行いのない信仰』について述べているのと同じように、従順によって救いの実を示しなさい」という意味ではないかと思います。
私は正しく理解していますか。それとも見当違いでしょうか。
いつもありがとうございます。
私たちの主キリストにあって。
返信 #6
私はこの節を次のように訳しています。
ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたはいつも真理に従順であったように、私が一緒にいた時だけでなく、今や私がいない時にはなおさら、恐れとおののきをもって自分の救いのために励みなさい。(ピリピ2章12節)
ここでの考え方は、霊的な安全とは立ち止まっていることではなく、着実に霊的前進を続けることにあり、また自己満足は危険な態度であるということです。私がよく言うように、道路には両側があり、そのどちらも最終的には溝に落ちてしまいます。ある人々は、私たちがイエス・キリストにあって安全であるという真理を強調します。それはすばらしく真実なことですが、それを極端に押し進めると高慢な自己満足に陥る危険があります(本来この真理から導かれるべき正しい適用とは正反対です)。また別の人々は、人が主から離れるならこの世には危険があるという事実を強調します。これも真実で有益なことですが、それを行き過ぎて主に対する確信や信頼を失わせたり、あるいは不当な恐れを和らげるために「行いによる救い」という律法主義的な考え方を持ち込んだりするなら問題です。私たちはこの二つの極端の中間にいるときに良い状態にあります。しかし、どちらか一方へ行き過ぎているなら、それを知らせる「接近警報」が必要です。パウロはここで励ますよりも警告することが適切だと考えたのでしょう。しかし励ましも警告も、どちらも必要です。ですから、「救いの確かさ」と「安全を追い求め続ける必要」を互いに矛盾するものとして見るのは誤りです。実際には、それらは同じ硬貨の表と裏なのです。私たちは主を愛し(感謝し)なければならないのと同様に、主を恐れ(敬い)なければなりません。これらは本当は反対の概念ではありません。むしろ、一方なしに他方を持つことはできないのです。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって。
ボブ L.
質問 #7
興味深いことに、詩篇の作者は、全能の神のような存在(神)が自由意志を持つ存在に対して計算された合理的な決断を下すという哲学的問題を扱っています。
しかし、あなたには赦しがある。それゆえ、あなたは恐れられます。(詩篇130篇4節)
ちょうど不正な裁判官のたとえのように、たとえ神が密かに人類に対して苦々しい思いを抱き、軽蔑していたとしても、神は人々を赦すことが良いことであると知っておられます。たとえそれが「やもめの絶え間ない訴えを黙らせるため」だけであったとしてもです。まして愛なる神なら、なおさらそうしてくださるでしょう。
返信 #7
これは本当に祝福に満ちた、しかも非常に興味深い聖句です。神の赦しはキリストの犠牲に基づいています。そして神はすべての人の罪を赦してくださったので、永遠の観点から見れば、今神に応答しないことについて誰にも言い訳はありません。頑なな人々は、神は愛のない方なのだと自分自身を納得させようとするかもしれません。そして最後の裁きの日に、自分には正当な弁明があると考えるかもしれません(また、自分が人生で何をしたかなど結局重要ではなかったのだと思い込むかもしれません)。しかし神が差し出しておられる赦し――しかも神が言い尽くせないほど大きな代価を払って備えてくださった赦し――は、そのような藁人形のような弁明をすべて打ち砕くのです。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって。
ボブL.
質問 #8
お便りありがとうございます。――しかし、私の一つの質問には答えてくださいませんでした。私が説明したような、人生を揺るがすほどの体験をあなたもしたことがありますか。
それこそが本当の意味で「新しく生まれる(Born Again)」ということです。
それは映画『十戒』のあの場面のようです。モーセ(チャールトン・ヘストン)が山から下りて来た時、髪が少し白くなっていました。彼の顔はまるで、「なんということだ……!私は神と話してきたのだ!」と言っているようでした。新生とはまさにそういうものなのです。親戚のジョージは私が言っていることを100%理解していました。その後、同じような体験を語った人をもう一人だけ聞いたことがあります。あるアメリカ人の女性はこう言いました。「今まで味わったどんな高揚感よりもすごいものなのよ!」――それは1982年のことでした。
祝福がありますように。
返信 #8
私はおそらく四歳くらいの時に救われたので、その時の記憶ははっきりしていません。しかし、その幼い頃からずっと信者であったことは分かっています。あなたが話しているような経験は、人生の後半になってから主のもとに来た人々により多く見られるものだと思います。一つ確実に言えることがあります。それは、本当に重要なのはその体験や感情的な衝撃ではないということです。重要なのは、イエス・キリストがどのようなお方であり、私たちのために何をしてくださったのかに基づいて、永遠のいのちのためにキリストを信頼することです(リンク先のBB 4B: Soteriologyをご覧ください)。
あらゆる種類の事柄について感情的な体験をする人はたくさんいますが、救われているとは限りません。また、救われた時に年齢が高かったとしても、救いが静かな出来事である信者もいます。神はそれぞれに必要なものを与えてくださるようです。あなたに良い思い出があることを私はうれしく思います。しかし忘れないでください。大切なのは真理に対する信仰なのです。真理は極めて重要です。私たちは真理への信仰によって救われ、その後もその信仰によって安全を保つのです。やがて来る艱難期では、信者の三分の一が背教すると私は考えています。たとえ彼らがすばらしい救いの体験を持っていたとしても、大背教の圧力の中で信仰を捨てるなら、その体験は何の助けにもなりません。ですから霊的に前進し続けてください。そうすれば来たるべき時に備えることができます。これが、この問題について私があなたと議論を続けてきた理由の一つです。私のつたない意見ですが、この問題はあなたの成長を妨げるつまずきになってしまっていると思います。ですから、しっかりした正統的な聖書の教えが体系的に語られている場所を見つけ、そこで霊的に成長し、その教えと奉仕に身を委ねてください。そうすれば将来の困難な時代に備えることができるでしょう。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって。
ボブ L.
質問 #9
ボブ兄弟へ
お元気であるようお祈りしています!
創世記3章22節の「見よ。人はわれわれの一人のようになり、善悪を知るようになった」という言葉を理解しようとしているのですが、何か重要なことが欠けているように思います。善悪を知ることによって、人間には何か大きな変化が起きたのでしょうか。不従順の行為が私たちと創造主なる神との関係を変えてしまったことは分かります。しかし、「善悪を知ること」自体にも何か意味があるのでしょうか。
いつものように、神があなたに与えてくださる知恵に満ちたお返事を楽しみにしています。
祝福された希望を待ち望みつつ。
返信 #9
この件について私が述べたいことの大部分は、リンク先の「善悪の知識の木」に書いてあります。要約すると、この木の実を食べたことによって人間の良心が機能し始めたのです。食べる前、すなわち罪が入る前には、善悪の区別についてそのような理解は必要ありませんでした。しかし罪と死の世界に入った後、人間には何が本質的に善であり、何が本質的に悪であるかを大まかに識別できる良心が必要になりました(私たちはキリストにあって成長する中で、信じた真理によってこの良心をさらに正しく調整していきます)。また、「knowledge」と「trees of Eden」のリンクもご覧ください。
神のかたちを持っていることは非常に重要なことです。今や私たちは罪のうちに生まれますが、その神のかたち――すなわち選択する能力――によって、神が定められた方法で主のもとへ立ち返ることもできますし、拒むこともできます。したがって、善悪を識別する能力は、救いを受け入れるためにも(あるいは救いを拒絶した責任を負うためにも)、また悪魔の欺きに満ちたこの世界で真理を生活に適用するためにも極めて重要なのです。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって。
ボブ L.
質問 #10:
まず、私のメールを読んでくださるために時間を取っていただき、感謝いたします。私と似た問題を抱えている人たちから、あなたは数多くのメールを受け取っているのだろうと思います。私の状況はかなり深刻で複雑です。何らかの安らぎを見いだせるよう願い、祈っています。
私は2010年8月に新生しました。息子がまれな病気を持って生まれ、そのことで祈っていた時、古いビリー・グラハムの伝道集会を見ていました。そして最後の招きに応答しました。すると、それまで一度も経験したことのないような穏やかな平安を感じました。私はすぐに教会へ通い始め、変えられたいと思い、神が私にしてくださったことへの感謝を神にお返ししたいと願いました。
しかし、その後まもなく、私はひどい不安症、脱毛、そしてうつ状態を経験するようになりました。それは生活を麻痺させるほど深刻なものでした。私は新しい教会の家族に助けを求めましたが、彼らは「もしかすると何か罪への入り口が開いていて、それが原因なのではないか」と尋ねました。しかし誰一人として私の経験に共感することはできませんでした。私はそのキリストの教会に1年以上通いましたが、2012年の春に牧師が転任してしまい、その後私たちは教会にまったく行かなくなりました。
その頃(教会に通っていなかった時期)、私は新しい仕事を始めました。そして上司はイスラム教徒でした。私は、これは私に与えられた試練であり召しであり、この人にイエスについて伝えることなのだと確信していました。私は経験がなかったにもかかわらず、彼は私に管理職の地位を与えました。しかし今振り返ると、これが私の最初の間違いだったと思います。彼は私を職場内に閉じ込めておくつもりだったのでしょう。なぜなら、私が現場で働いていた時には、すべての顧客にキリストを伝えていたことを彼は知っていたからです。
しかし私の計画は裏目に出ました。私は強く立ち続けてイエスの光を運ぶ者になるどころか、罪に陥ってしまったのです。ある日、「どうして私は赦されることができるのだろう。イエスはこの罪を覆うために再び十字架にかかることはできない」という声を感じました。そして別の声は「ただ悔い改めればよい」と言いました。
私は夫に教会が恋しいと伝えました。すると彼も、私たちは教会に戻る必要があると同意しました。私はできる限り悔い改めようとしました。しかしそれは私にとって非常に困難でした。
1月に私たちはダニエル断食を行いました。そして私は2年以上ほとんど開いていなかった聖書を読み始めました。すると、へブル書が「習慣的で故意の罪」や「キリストを再び十字架につけること」について語っていることに気づきました(ちょうど私が聞いたあの声と同じように)。
断食の後、私は「冒涜」という声を聞きました。そしてある日、「お前は信仰を捨てた。お前は信仰を捨てた」という声を聞きました。私は「信仰を捨てる(renounce)」という言葉の意味が分からなかったので辞書で調べなければなりませんでした。また別の声は、「私は山だ。私は動かされることがない」と言いました。
私は大きな苦悩の中にいます。1年間悔い改めようと努力したと思っています。しかしその後で、その結果について読んでしまい、自分は救いを失ったのではないかと恐れています。エサウは涙をもって求めましたが、本当の意味で悔い改めることはできませんでした。サウルも同じです。私はひどく落ち込んでおり、一日中このことばかり考えています。聖書は、赦された後に再び絡み取られるなら、その人は真理を知らなかったほうが良かったと言っています。また神の御言葉は、私たちが確信を捨て去り、恐るべきさばきの予期だけが残ることがあるとも語っています。そして私はまさにその状態にいるのではないかと恐れているのです。キリストの血が私たちを覆うことは知っています。しかし、もし私たちが故意に恵みを乱用したなら、そのような罪を覆う贖いの血はもはや存在しないのでしょうか。
返信 #10:
キリストにある同じ信者の方と知り合えるのはいつでも嬉しいことです。ただ、あなたが現在深い苦しみの中におられると聞いて残念に思います。まず最初にはっきり申し上げたいのは、あなたはイエス・キリストを信じる信者である以上、これまでどのような罪を犯したとしても、確かに救われているということです(イエスはそれらすべての罪のために死なれました。そして真実な告白によって、それらはすべて赦されます。第一ヨハネ2章2節と第一ヨハネ1章9節を参照してください)。すべての信者は救われています。救われていないのは不信者だけです。主ご自身もこう言っておられます。
御子を信じる者はさばかれない。しかし信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ3章18節/NKJV訳)
エサウは信者ではありませんでしたし、主を求めたこともありませんでした。彼が悲しんだのは祝福を失ったことについてであって、主との関係についてではありませんでした(創世記27章38節以下を見れば明らかです)。サウルは主の御心に逆らって行動した信者でしたが、不信者になったわけではありません(第一サムエル28章19節はそのことを明らかにしています)。「初めよりも悪い状態になった者たち」(第二ペテロ2章20-22節)とは、「打ち負かされ」、ついには信仰を完全に失ってしまった者たち、つまり、背教して不信者へ戻ってしまった者たちのことです。信仰を保って「勝利する」(ローマ8章37節)者たちとは対照的です。
神から生まれた者はみな世に勝つからである。そして世に勝った勝利、それが私たちの信仰である。(第一ヨハネ5章4節/NIV訳 )
救いを失うのは背教者だけです。背教者とは、苦しんでいる信者のことでも、罪に陥った信者のことでも、さらには神の御心に逆らって行動している信者のことでもありません。背教者とは、神に対して完全に反逆し、かつて受け入れた主を完全に拒絶し、もはや主を信じず、主に忠実でありたいという思いもまったく持たなくなった人のことです(リンク参照)。明らかに、あなたはそのような人ではありません。
私の子どもたちよ。私がこれらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。しかし、もし誰かが罪を犯したとしても、私たちには御父のもとに弁護者がおられる。義なる方、イエス・キリストである。この方こそ私たちの罪のためのなだめの供え物であり、私たちの罪だけでなく全世界の罪のためでもある。(第一ヨハネ2章1-2節/NIV訳)
私たちの主はあなたのために死なれました。あなたのすべての罪のために。そして私のためにも、私のすべての罪のために。主は私たちを罪に定めようとしておられるのではありません。私たちをご自身へさらに近づけようとしておられるのです。そして私たちが迷い出た時には、放蕩息子や失われた銀貨や百匹のうちの一匹の羊のたとえのように、再びご自身のもとへ連れ戻そうとしておられるのです。私たちの神は愛です。そして主は、私たちには到底理解し尽くせないほど深い愛をもって、私たちのために死んでくださいました。ですから、私たちが滅びる唯一の道は、主を拒絶すると決意し、主への信仰を完全に捨て去り、他の神々を求めるか、自分自身を神としてしまい、もはや信じなくなることだけです。しかし、あなたは信じています。今も主への信仰を保っています。この間ずっと、主は真理のうちにさらに近く歩めるよう、あなたを引き寄せ続けておられたのです。ここで本当に問題なのは、まさに「真理」なのです。
わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ってくださることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。(ヨハネ17章15-17節/NIV)
真理とは神の御言葉です。真理とは、私たちがこうではないかと想像するものではなく、実際にそうであるものです。真理とは、私たちの最も深い恐れに相談し、聖霊によって心の中で真実だと知っている聖書の教えを無視することではありません。真理とは、神である私たちの父の愛、善、憐れみ、赦し、犠牲、そして真実さであり、それらはすべて聖書のあらゆる頁から高らかに歌われているものです。
あなたがたの思い煩いをすべて主にゆだねなさい。主があなたがたのことを心にかけていてくださるからである。(第一ペテロ5章7節;詩篇55篇22節参照)
ですから、私はあなたに、主から離れていたことに気づいた時にすべての信者が感じる恐れに屈しないよう勧めます(長い期間であれ短い期間であれ、大きなことにおいてであれ小さなことにおいてであれ)。イエスはご自身の体の一部として私たちすべてを愛しておられます。そして決して私たちをその愛の抱擁から放されることはありません(ヨハネ10章28-29節)。私たちの救いを危うくすることができるのは、私たち自身が、最初に信じた時に主、主人、救い主として受け入れたそのお方を意図的に拒絶する場合だけです。ルカ8章13節の枯れた植物のように信仰が完全に死んでしまわない限り――そしてそれには、ある期間にわたって主とその真理を意図的かつ継続的に拒絶し続け、その結果、もはや主や主との関係について何の関心も持たなくなる状態です。しかし、あなたは明らかにそのような状態ではありません――私たちは神から生まれた子どもであり続け、キリストの体、キリストの花嫁の一員であり続け、主に深く愛されているのです。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、そのためにご自身をささげられたように、自分の妻を愛しなさい。(エペソ5章25節/NIV)
あなたが引用されたへブル書の箇所もまた、しばしば誤解され、さまざまな人々によって誤用されています。そして、あなたの教会があなたの健康問題に対して思いやりのない反応を示したという話を聞く限り、あなたはその教会からも間違った教えを受けてきたのではないかと思います。真理とは真理です。つまり、聖書が実際に教えていることであって、教えていないことではありません(そして終わりの日である今、多くの誤った教えが広まっています)。そのことについては後で紹介するリンクでさらに知ることができますが、ここでは「再び十字架につける」ということは、信者でありながらユダヤ教の神殿儀式を続けることを指していると言っておきましょう。なぜなら、それらの儀式は「まだ来ていないキリスト」と「まだささげられていない犠牲」を宣言していたからです。クリスチャンがそれを行うことは最悪の証しとなりました(もっとも、エルサレム神殿は存在しないため、そのような儀式を今日実際に行うことは不可能です。)。
最後に、恐れに相談しないよう勧めるのと同じように、私は「声」に耳を傾けないようにも勧めます。私たちの感情は、誰もが持っている罪の性質によってかき乱され、さらに悪い者の手下たちによって煽られるため、さまざまな恐ろしい考えを私たちに吹き込みます。そしてそれらは時として本当に聞こえる声のように感じられることさえあります。しかし私たちはキリストにあって成長するにつれ、自分の感情よりも、さらには自分の目で見たり耳で聞いたりするものよりも、聖書の中の主の御言葉を信頼することを学びます。この世のあらゆるものは私たちを欺く可能性があります。しかし神の御言葉の真理だけは決して私たちを欺きません。
そうは言っても、このような問題や苦しみに対する解決はただ一つです。それは御言葉の中へ深く潜り込み、自分で聖書を読み、さらに健全で確かな正統的聖書教育の働きに触れ、霊的に養われて成熟へと成長することです。それこそ私たち皆に必要なことです。残念ながら、ラオデキヤのこの終わりの日には、そのような教えは非常に不足しています。Ichthysのすべての資料はあなたに開かれていますし、上記のことでも他の聖書の問題でも、いつでも質問してください。また、カート・オモ牧師のBible Academy(リンク)もお勧めします。
最後に、私の友よ、私はあなたが語っているのと同じような悩みを多くの兄弟姉妹から聞いてきました。そして、さらに深刻な話も聞いてきました(しかしその人たちも信者でした。ただ神の御言葉について大きく誤解していただけなのです)。以下にいくつかのリンクを挙げます(これらからさらに多くのIchthysの記事へ進むことができます)。
いいえ、へブル書は救いを失うことを教えてはいない
私は救いを失ったのでしょうか?(第3部)
私は救いを失ったのでしょうか?(第2部)
私は救いを失ったのでしょうか?
失われた救いと回復された救い
罪悪感、罪、そして霊的成長による勝利
ヨハネによる罪の基礎教理
悔い改め、告白、そして赦し(Bible Basics 3Bより)
第一ヨハネは罪について何を教えているのか
罪、救い、そして赦し ― 霊的・精神的優位を確立する
罪、贖罪、そして赦し II
律法主義 ― 過去と現在 II
キリスト者の葛藤、忍耐、そして救い出し
「赦されない罪」についての詳しい対話
救いと罪
英語リンク:
No, Hebrews does not teach that you lost your salvation.
Have I Lost My Salvation? (III)
Lost my salvation II?
Have I Lost my Salvation?
Salvation Lost and Found
Guilt, Sin and Victory through Spiritual Growth
John’s Primer on Sin
Repentance, Confession and Forgiveness (in BB 3B)
What does 1st John mean about sin?
Sin, Salvation and Forgiveness: Claiming the Mental and Spiritual High-Ground
Sin, Atonement and Forgiveness II
Legalism, Past and Present II
Christian Struggle, Perseverance and Deliverance
An Extended Conversation on the ‘Unpardonable’ Sin
Salvation and Sin
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
ボブ・L
質問 #11:
あなたの詳しいお返事に心から感謝します。聖書箇所について丁寧に説明していただき、本当に感謝しています。それから約8か月後、夫と私は何度か教会に行きました。ある礼拝で牧師が預言を始め、「女性たちは夫の手を取って前に来なさい」と言いました。そして彼は私の人生について言い当てました。その時、私は全身を震えが走るような感覚を覚えました。私は赦しを求めましたが、その罪から立ち返ることはしませんでした。また、その罪の中にいながら主の晩餐にあずかったこともありました。私は、十分早く罪から離れなかったのではないか、自分に与えられていた機会を無駄にしてしまい、再び罪へ戻ってしまったのではないかと心配しています。私は自分の罪、当時神を恐れていなかったこと、そして神よりもこの世を優先していたことを本当に嫌悪しています。御言葉は、「たとえ全世界を手に入れても、自分のたましいを失ったなら何の益があるだろうか」と言っています。
また、以前お話しした異言についてですが、それは背教に当たるのでしょうか。夫はその件について調べて、「おそらく相手は、自分を正当化するための偽りの儀式を急いで行わせようとしていたのだろう」と言いました。私は、自分がそのようなことを許してしまったことが信じられません。実際、その出来事の数か月前には、大学のスピーチの授業でイスラム教の危険性について発表していたのです。私は御言葉に戻りたいと思っています。しかし非常に強い罪責感があり、そのために圧倒されています。また、地獄の苦しみや、永遠に家族と引き離されることを考えてしまいます。すると今度は、「本当は神ご自身から引き離されることを恐れるべきなのに」と思い、神が怒られるのではないかと不安になります。(人間としてこうしたことを考えるのは自然なことだと思いますが、私は正直に自分の気持ちをお伝えしています。)私は自分にこう言い聞かせています。もし本当に自分が見捨てられた者(reprobate)だとしても、最後まで信仰の中にとどまり、教会での奉仕を続け、すべてを投げ出して無駄な人生を送ることだけはしない、と。私は週に三回教会へ行っています。しかし説教を聞くたびに、神の約束はもはや自分のためのものではないように感じます。私は退けられ、暗闇のために取っておかれた者なのだと感じてしまうのです。
返信 #11:
どういたしまして。
まずはっきり申し上げたいのですが、罪責感が真理から切り離され、意志を踏みにじるほどに暴走するようになると、それは非常に破壊的な感情になります。 これはすべての感情について言えることですが、とりわけ罪責感についてはそうです。聖霊が私たちに、「間違ったことをやめなさい」「すべきことを始めなさい」と促しておられる時、あるいは自分が慣れ親しんできた明確な基準に違反したことで罪悪感を覚える時、それは良いことです。なぜなら、それによって私たちは正しい道へ向き直る必要があることを知るからです。しかし、過去のことをいつまでも思い悩むことは、決して良い結果を生みません。私たちは、「自分は簡単に赦されすぎているのではないか」と心配する必要はありません。父なる神は、私たちを正しい道へ戻し、また私たちや他の人々に学ぶべき教訓を教えるために、常に完全な訓練を与えてくださるからです。振り返ってみれば、そのことが真実であると証言できないクリスチャンは一人もいません。そしてそれは聖書にも書かれています。
そしてあなたがたは、子として語りかけられているこの勧めを忘れている。「わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない。また主に責められて気落ちしてはならない。主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子を鞭打たれるからである。」このような考えで懲らしめを忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのである。父に懲らしめられない子がいるだろうか。もしすべての子が受ける懲らしめを受けていないなら、あなたがたは私生児であって、本当の子ではないのである。(へブル12章5-8節)
しかし聖書は、過去のこと、しかも多くの場合は遠い過去のことについて、自分自身を苦しめ続けるよう命じてはいません。そのようなことは現在の私たちにはどうすることもできないからです。もし本当に罪を告白し、誤った道から立ち返ったのであれば、それこそ神が私たちに求めておられることです。そして神は赦すと約束されました。では、神が赦してくださらないと考えることは、間違いであり、さらには傲慢なことではないでしょうか。ですから、もし告白すべきことがあるなら告白すべきです。考え方や意見を完全に改めなければならないことがあるなら(聖書的な意味での悔い改め)、直ちにそうすべきです。しかし、それがすでに告白され、対処された過去の問題であるなら、私たちは次の聖書の勧めに従うべきです。
(13) 兄弟たちよ。私は自分がすでにそれを得たとは考えていない。ただ一つのことをしている。後ろにあるものを忘れ、前にあるものに向かって身を伸ばし、(14) キリスト・イエスにあって神が上から召してくださるその賞を得るために、目標を目指して走り続けているのである。(ピリピ3章13-14節)
私たちが誤った道から正しい道へ向きを変え、罪を告白し、放蕩息子のように主のもとへ戻った後に、主が望んでおられることは何でしょうか。それは、過去について思い悩み続けることではありません。そのようなことは誰の益にもならず、霊的回復を遅らせるだけです。主が望んでおられるのは、主が私たち一人ひとりのために備えておられるご計画に従って前進することです。その計画とは、神の御言葉を読み、聞き、学び、信じることによって霊的成熟へと成長し、信仰によって心に蓄えた真理を人生の試練や苦難に適用することで主にさらに近く歩み、そして十分に前進した後には、自分の霊的賜物を正しく用いて他の信者たちを助けることです。
赦されない罪は一つしかありません。それはイエス・キリストを信じることを拒む罪です(これが唯一の「赦されない罪」です)。私たちは罪のために訓練を受けます。しかしそれは、生ける神の息子・娘として訓練を受けるのであって、そのこと自体が私たちが神に愛されている証拠です。地上での行いには結果があります。たとえば、人に見せびらかそうとして愚かにも火の中へ手を突っ込めば火傷をします。神はその愚かさを赦してくださいます。しかし火傷を即座に奇跡的に治してくださるとは限りません。しかし、クリスチャンが犯し得る最悪の過ちの一つは、悪魔が用意した罪責感の罠に陥ることです。私たちは皆罪を犯します(ローマ3章23節; ヤコブ3章2節; 第一ヨハネ1章5-10節)。だからこそ私たちは悔い改め、告白し、霊的回復を必要とするのです。しかし私たちの神は愛と赦しの神です。神は、ご自身のもとへ戻る者を赦すと約束しておられます。それなのに、どうして私たちは神を疑うことができるのでしょうか。もし疑うなら、私たちは悪魔のゲームに乗せられているのであり、主イエスが望まれる応答をしていないことになります。
私からの助言はこうです。神は真実を語っておられると信じ、その真理を信じなさい。罪責感や恐れではなく、主とその御言葉を信じなさい。罪責感や恐れは、サタンの助けによって、いつでもあなたに嘘をつきます。しかし主は決して嘘をつかれません。主はあなたを愛していると言われます。そしてその通りです。主はあなたを赦すと言われます。そしてその通りです。主は、何ものもあなたを主から引き離すことはできないと言われます。そしてその通りです。それを台無しにできるのは、私たち自身だけです。つまり主の約束を信じず、自分の道へ進むことによってです。
イエス・キリストはあなたのすべてを赦してくださいます。聖書がそう言っています。
私たちの役割は、その赦しを信仰によって受け入れ、それから主がこの人生において私たちに望んでおられることへ向かって前進することです。それこそが大いなる永遠の報いへ至る道です(リンク参照)。一方、偽りの罪責感と神の約束への不信仰によって燃え上がる終わりのない自己分析の道は、決して良い結末に至りません。
それゆえ主はあなたがたに恵みを与えようと待っておられ、あなたがたをあわれもうとして高く上がられる。主は公義の神だからである。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。(イザヤ30章18節/NASB)
しかし愛する者たちよ。私たちはこのように語るとはいえ、あなたがたについてはもっと良いこと、すなわち救いに伴うことを確信している。神は不義な方ではなく、あなたがたが御名のために示した働きと愛の労苦を忘れられることはない。あなたがたは聖徒たちに仕え、今も仕えている。そして私たちは、あなたがた一人ひとりが終わりまで同じ熱心さを示し、希望の十分な確信を持ち続けることを願っている。怠ける者とならず、信仰と忍耐によって約束を受け継ぐ人々にならうためである。(へブル6章9-12節/NKJV)
以前お送りしたリンクもぜひ読んでください。それらはあなたの霊的成長の助けになるでしょう。そして、どのような質問でも喜んでお答えします。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
ボブ・L
質問 #12:
何と言ったらよいでしょうか、教授。まず第一に、私はこうした事柄についてこれまで何度も間違ってきましたし、昨年は自分自身を非常に多くの問題へ突っ込ませてしまいました。ですから今は、あまり多くを思い込まないほうが賢明でしょう。しかし一方で、今日そこへ行ったことによって、最も重要な真理が改めて強く心に刻まれました。この困難な一年を経た今、私は自分がこのような助けを受けるに値するなどとは決して言えません。そして、その助けが与えられるかもしれません。しかし、最も重要な救いについて考えるなら、私たちはどれほどそれに値しない者たちなのでしょうか。この真理が私の心にもっと深く刻み込まれていなかったことを恥ずかしく思います。しかし、このことには非常に励まされる面もあります。なぜなら、恵みによって与えられるものには大きな励ましがあるからです。私たちはそのようにして救われました。そして私たちの行いによって、そのような救い出しにふさわしい者であることを示すことはできませんが、それでも私たちは自分が主のものであることを知っており、愛をもって主に仕えたいと願っています。これから何が起こるのかは分かりません。しかし、そのような平安な場所にいることができるなら、それこそまさに、自分では決して見つけることのできなかった素晴らしい贈り物です。そしてそれは、私が備えを進めており、願わくは近いうちに、ごく小さな形であっても始めたいと望んでいる御言葉の奉仕を通して主に仕えるうえで、大きな助けとなり、本当に必要な助けとなるでしょう。
あらゆる賜物の中の賜物を受けた私たちの主にあって
返信 #12:
それは素晴らしいですね、友よ!
この件がすべてうまく進み、あまり面倒なことなくその場所を手に入れられるよう、そして仕事の件もうまくいくよう願っています(そして祈っています)。これらすべてのことについて、あなたのために祈っています。特に、ここで語ってくださったあなたの証しには、個人的にもとても励まされました。ぜひその後の経過も知らせてください!
私たちの主イエス・キリストにあるあなたの友
ボブ・L
質問 #13:
こんにちは、先生。
お元気でおられることを願っています。そしていつものように、キリストのからだを助けるあなたの働きのために祈っています。御霊が引き続きあなたを強め、御国のための働きを支えてくださいますように。
今回のメールの題名を「恐れずに戦う(fight without fear)」としたのは適切だと思っています。というのも、私の心は、主から来たものでも御霊によるものでもないと分かっている考えで絶えず攻撃されているからです。ご存じのとおり、私は現在進行中の状況だけでなく、経済的な重圧にもさらされています。さらに、自分に落ち度はないにもかかわらず、会社が売却されるため職を失う可能性まであります。
私は神の真理を理解していますし、人生の多くの試練の中で神が救い出してくださったことを何年にもわたって証ししてきました。問題は、信仰がないとか霊的成長をやめてしまったということではありません。私は今も祈り、聖書を読み、学び、そして御霊がふさわしいと導かれるときにはキリストのからだを励ます歩みを続けています。最近の問題は、神の御言葉の確かさや救いについて疑わせるような有害な考えが突然頭に浮かんでくることです。その考えとは、「神は残酷で、私をもてあそんでいるのではないか」というものです。まるで私は神のヨーヨーのようです。いつもではありませんが、かなり頻繁に起こっています。私は祈り、悔い改め、しばらくすると気分は良くなります。しかし、その考えは完全には消えてくれません。
最近の具体例としては、現在の試練とは別に仕事の件があります。神の恵みによって、私は会社売却のことを前もって知らされ、仕事探しの準備をする時間が与えられました。そして全知全能で愛に満ちた神は、私には全く予想していなかった機会を備えてくださいました。別部門の上級役員の一人が私に連絡を取り、昼食に誘ってくれました。そして内密に、自分の部門へ移らないかと打診してくれたのです。私はこれを神からの祝福であり、失業して仕事を探すのではなく、神が備えてくださった道なのかもしれないと受け取りました。その話し合いはうまくいき、来週の火曜日にはさらに別の上級役員も交えて再度話し合う予定です。
私はこれが神の摂理の御手によるものだと分かっていました。しかしその直後、「神はこれを目の前にぶら下げておいて、あとで取り上げるのだ」という考えが頭に浮かびました。これは今の試練全体に共通する思考パターンです。神はご自身が共におられることを示しておいて、それを取り去る。だから私はヨーヨーのようだ、という考えです。
私はこれがすべてサタンによるものだと理解しています。しかし、このような試練の最中にいるとき、心と思考への試練も同時に受けるのは普通のことなのでしょうか。それとも全部同じ試練の一部なのでしょうか。また、聖書を読み、祈り、悔い改め、学び続けること以外に、「結局はお前が笑い者になるのだ」というような考えを弱めるために何か有効な方法があるでしょうか。
私は信仰から一歩も後退していないと断言できます。しかし、聖書に出てくる信仰の勇士たちのような確固たる信仰者になりたいのです。そして、この断続的に襲ってくる考えの問題のために、この試練の一部において私は合格できていないのではないかと感じています。私はなお喜びを持っていますし、平安の御霊も持っています。しかし、この分野でより効果的に歩むにはどうすればよいのか知りたいのです。「思考と感情(Thinking and Emotions)」についてのあなたの学びを読み返してみようと思っています。そこにはきっと聖書的な助言があるはずです。
話を聞いてくださってありがとうございます。そして、もし今ですら私たち、つまり本当に日々主と共に歩もうとしている信者たちがこれほど苦労しているなら、やがて訪れる本当の試練の時に私たちに耐えられるのでしょうか。そう考えると恐ろしくなります。この問題はそうした恐れも引き起こします。
最後にもう一つ、申し訳ありません。私はメールの中で多くの質問をしてきましたが、大まかな意図は伝わっていると思います。悪い者はどのようにして私たちの思考を知るのでしょうか。思考を知ることは三位一体の神だけの領域ではないのでしょうか。彼は私たちの行動を観察することで考えを推測しているのでしょうか。それとも、神が私たちの思考を試すことを許しておられるのでしょうか。
キリスト・イエスにあるあなたの友より
返信 #13:
お便りをいただけてうれしいです、友よ。悪い者の攻撃にもかかわらず、主があなたを守っておられることを知り、喜んでいます。そして私たちは、主が常にそのようにしてくださることを確信しています。しかし確かに、圧力の下では知識と信仰との間に隔たりが生じることがあります。それが人間であるということです。しかし、神から最も大きな称賛を受ける人間とは、その隔たりを最も長く、最も多くの場面で埋め続ける人たちです(結局のところ、へブル書11章の主題はそこにあります)。十分な圧力をかけられれば、誰でも試され、その隔たりを閉じたままにするために戦わなければならなくなります。
もし私たちが主を見ているなら、すべての疑いは消えるでしょう。もし私たちが神がどれほど「偉大」であるかをほんの少しでも理解できているなら、何一つ心配することはないでしょう。もし神が絶対的に真実であり、神である以上そうでないことはあり得ないという真理を完全に自分の内に取り込み、それをしっかり握り続けることができるなら、私たちの信仰はその真実さをしっかり抱きしめ、信じた真理と圧力の中で感じていることとの間に一筋の隙間も生じさせないでしょう。しかし実際には、私たちは①悪い者とその手下たち、②私たち自身の感情と罪の性質、③不完全な歩み、不完全な実績、そして不十分な備え――たとえ霊的には非常に忠実で備えられた人であっても、私たちの主のように完全な人は一人もいません――を相手にしているのです。
ですから戦いが来たとき、それが必ずしも非常に容易なものになるとは限りません。まず受け入れるべきことは、私たちは完全ではないということです。自分の不完全さによって動揺したり、打ちのめされたりしてはなりません。それは微妙な形の高慢であり、悪魔はその弱点を利用することに大喜びします。私たちは、この地上にいる限り常に罪を告白する必要があり、常に態度を立て直し、ときどきこの戦いを戦い続けなければならず、どれほど進歩しても一夜にしてすべての弱点を消し去れるとは期待できないという事実を受け入れなければなりません。つまり、私たちは本質的に弱く、この地上では常に主の助けを必要としていることを認めなければならないのです。しかし、それこそが勝利の始まりです。
しかし主は私にこう言われた。『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。』だから私は、キリストの力が私の上に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう。だから私は、キリストのために、弱さと、侮辱と、困難と、迫害と、苦しみを喜ぶ。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからである。(第二コリント12章9-10節/NIV訳)
これはすべて信仰の問題です。しかし信仰とは何でしょうか。信仰とは、今は見ることのできない天の現実を真実として受け入れることです(へブル11章1-2節)。この目的において最も重要なのは神の真実さです。圧力を感じているときにはいつでも、神は完全に真実であり、そうでないことはあり得ないということを、私たちははっきりと思い出し、自分自身に言い聞かせなければなりません。たとえば詩篇23篇の言葉は、単なる言葉ではなく、私たちにとって現実でなければなりません。主について知っている真理、主がどのようなお方であるか、十字架で私たちのためにしてくださったことによって示された主の愛――それらは、私たちが見たり、聞いたり、感じたりしているものよりもはるかに現実なのです。私たちの経験は、私たちが信じている真理ほど現実ではなく、それほど重要でもありません。もちろん、言うほど簡単ではありません。ヨブを考えてみてください。彼は歴史上最も偉大な信者の一人でしたが、この罠に陥りました。つまり、自分が経験していることを「真理」だと解釈し、それによって感情が左右され、その結果として思考が左右され、そして最終的には語る言葉まで左右されてしまったのです。もちろんヨブには、ヨブ記を読むことができなかったという事情がありました。もし彼が読めていたなら、その困難な試験にも合格していたのではないかと思います。
もし私たちが主の望まれることを行い、主と親しく歩み、そして他の人々もそのように歩めるよう最善を尽くしているなら、何も心配する必要はありません。最悪の場合は何でしょうか。もちろん命を失うことです。しかし私たちは、本当は主と共にいる方がはるかに良いことを理解しています(ピリピ1章23節)。また、この肉体の命を離れた瞬間に、いかなる苦痛も苦しみも感情的な苦悩も存在しないことを知り、理解し、そして何よりも信じています。もし今すぐ命の危険があるわけでないなら、私たちは一体何をそんなに恐れているのでしょうか。この人生は永遠には続きません。この地上のものはすべて塵です。そして永遠の報いに直接関係しないこの世の達成は、最終的には無に等しいのです(詩篇39篇6節参照)。
私たちは今、苦しんでいるのでしょうか。確かにそうかもしれません。しかし、苦しむこと自体は罪ではありません。そして私たちは、涙の中にあっても喜びを持つことができることを知っています。では、何が私たちが試練の中で「この上ない喜びと思う」(ヤコブ1章2-4節)ことを妨げているのでしょうか。それは常に、起こっていることを私たちがどのように考えることを自分に許しているかという問題です。肉体的な苦痛は霊的なマイナスではありません。感情的な苦悩もそうです。問題となるのは、それらや同様の圧力(さまざまな世的な脅威)によって、私たちの考え方そのものが影響を受けてしまう場合です。では、信者はどのように考えるべきなのでしょうか。常に信仰に従って考えるべきです。信仰とは本質的に、自分の自由意志を用いて神を信頼することです。もちろん、脅かされているときや不利益を受けているとき、あるいは何らかの圧力の下にあるときには、それはより難しくなります。目に見える脅威や、それに対する自分の感情に目を向ける方が、私たちと共におられ、この世界を創造される前から私たちの救いの道を備えておられた見えない神に目を向けるよりも容易だからです。だからこそ、そのような時に発揮される真の信仰は非常に尊く、素晴らしいのです。私たちは皆、ダニエルやその三人の友人たちの偉大な信仰の勝利を称賛し、共に喜びます。しかし私たちが十分理解していないかもしれないことは、私たちにも全く同じ力が与えられているということです。それは、獅子の穴で一夜を過ごしたり、火の燃える炉に投げ込まれても生き延びたりする力ではありません(それは神のみこころによります)。そうではなく、たとえ確実な死を目の前にしても、自分の考え方を変えないこと、信仰を捨てないこと、何が起ころうとも、あるいは何が起こると脅されようとも神を信頼し続けることです。
なぜ私たちは、この世が恐れるあらゆるものに対してそのような確信を持てるのでしょうか。それは、この人生、この世界、この人生のもの、この世界のものが、私たちにとって全く価値のないものである一方、私たちの主であり救い主である方の評価こそが私たちにとってすべてだからです。ですから、もしそれがイエスの望まれることであるなら、私たちは喜んですべてを失います。また、どのような脅威があろうとも、もしそれがイエスのみこころなら、私たちの髪の毛一本でさえ傷つけられないことを確信しています。
ですから問題は私たち自身ではなく、主ご自身と、私たちの人生に対する主のみこころなのです。そして、もし私たちが今、本当に主の望まれることを行っているのであれば、なぜ物事が「悪い方向へ向かう」ときに落胆したり不安になったりするのでしょうか。もし最近の過ちのために懲らしめを受けているのでなければ、もちろん悪い者の反対に遭っているのです。ですから、悪いことが起こっても落ち込む必要はありません。むしろ喜ぶべきです。なぜなら私たちは勝利しているからです(「この上ない喜びと思いなさい」、「キリストの苦しみにあずかる者となる」)。ヨブがそうであったように、私たちが悪魔の照準に入るのは、正しいことをしているからであり、決して道を踏み外しているからではないのです。
ヨブについて言えば、彼があれほど苦しんだとき、実際には主ご自身から人類史上最も大きな賛辞の一つを受けていました。しかし彼はそれをそのようには受け取りませんでした。それが彼の唯一の失敗でした。彼にはある意味で言い訳がありました。十分な情報を持っていなかったからです。しかし私たちにはその言い訳はありません。私たちにはヨブ記があり、聖書全体があります。その一節一節に、完全な主の真実さと愛に満ちたご性質が脈打っているのです。
問題は、私たちが読んでいること、知っていること、告白していることを本当に信じているかどうかです。そして、もちろん私たちは信じています。しかし、本当に圧力がかかったときに、それをどれほど強く信じていられるでしょうか。
「もしこれが大変なら、艱難期はどうなるのだろう?!」というあなたの気持ちはよく分かります。しかし実際には、艱難期は今私たちが受けているどの試練よりも難しいわけではありません。ただ違うだけです。主が今でさえこれほど困難に思える試練を許しておられる理由は、おそらく将来の「勝算」を心配させるためではなく、今ここで勝利する機会を与えるためであり、また主がどのようなお方であるかを学ばせるためです。その結果として、将来どのようなことが起ころうとも、私たちが確信を持てるようになるためです。主は昨日と同じお方であり、今日も同じお方であり、その暗い日にも同じお方です。すなわち、100%真実なお方です。
また間違いなく、このような試練が今与えられているのは、私たちの考え方の中にある欠点や弱点を示すためでもあります。この点においても、私たちは「悪いこと」のただ中にあっても喜ぶ十分な理由があります。なぜなら、①主は私たちの信仰を強めておられるからです。②主はご自身の真実さを示し、それをより深く理解できるよう助けてくださっているからです(そして私たちはそれらを心に深く刻み、決して手放してはなりません)。③主は、この世のすべてが一時的なものであり、自我や感情、そして残念ながら多くの友人や家族、さらにはこの世全体が考えているほど重要ではないことを教えてくださっているからです。本当に重要なのは、私たちが主のものであり、主が決して私たちを見捨てられないということだけです。
私たちがこの真理を覚え、このような「攻撃」を受けたときにその真理によって自らを励ますなら、私たちは決してつまずきません。そして主は、私たちのために、また私たちを通して、ご自身のすべての良きみこころを成し遂げてくださいます。物事が自分中心であればあるほど失敗する可能性は高くなります。しかし、あらゆる挫折や脅威や苦難を、主の目を通して見る機会として用いるなら、その時点ですでに私たちは勝利しているのです。
だから私たちは落胆しない。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日ごとに新たにされている。私たちの今の軽い患難は、比べものにならないほど重い永遠の栄光を私たちにもたらしている。私たちは見えるものではなく、見えないものに目を留める。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠だからである。(第二コリント4章16-18節/NIV訳)
主はこれまで私たちに数え切れないほど多くの勝利と祝福を与えてくださいました。立ち止まって考えてみれば、それは私たちの髪の毛の数よりも多く、数え切れないほどです。そして主が時折その反対のことを許されるのもまた祝福なのです。そうでなければ、私たちが本当にこの世よりも主を信頼し、愛していることを、どのように示すことができるでしょうか。
確かにこれは戦いです。しかし、それは主に戦っていただくなら決して負けることのない戦いです。そして、私たち自身のためではなく、主のために戦うなら、決して負けることのない戦いなのです。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
ボブ・L
質問 #14:
こんにちは、ボブ。
ここ一週間ほど、以前にはほぼ克服していたある罪にかなり苦しめられています(全体としては勝利していて、ときどきつまずく程度でした)。最近のこの失敗の期間は、現在の私の奉仕への備えという状況を考えると、かなり心を乱されるものになっています。この道を歩み始めたらすべてが簡単になるなどとは思っていませんでした(むしろ聖書を読む限り、その逆だろうと思っていました)。しかし今は、その破壊的な影響を以前よりもはるかに痛切に感じています。以前から「もっと分かっているべきだった」のは確かですが、今となってはなおさらです。
私はあなたの「悔い改め、告白、そして赦し」に関する解説を読み、神との交わりを回復する仕組みについても理解しています。しかし、それが最も必要なときに、その真理を自分のものとして受け取ることに苦労しています。私は「知識」から「実際の経験としての現実」への飛躍に苦しんでいるのです。以前であれば、私は立ち上がり、ほこりを払い、歯を食いしばって再び戦いに戻りました。自分の欠点は忘れ、神がそこから救い出してくださることに目を向けようとしていました。しかし最近では、立ち直りを十分に果たす前に再び倒れてしまいます。まるでようやく立ち上がろうとした瞬間に何度も突き倒されているような気がします。
私は、再び神の御顔を見ることに耐えられるようになるとすぐ、自分に告白を強います。しかし心はそれに伴っていません。私はそれが罪であることを「知っています」。神が罪を容認されないことも「知っています」。実際、神は私たちを罪から清めるためにご自身の御子をさえ裁かれました。しかしもちろん、私は本当にはそのことを重く受け止めていないのでしょう。もし本当にそうであれば、これほど無神経にそれらを無視し、自分を肉の欲望に引き渡したりはしないはずだからです。
質問:
1) 告白について二心を抱いたまま、つまり言葉では告白していても心から100%そう思っていない状態で神の前に出ることは、罪になることがあるのでしょうか。もちろん、告白し、悔い改め、それを本心から行う方が望ましいのは分かっています。しかし、無理にでもその手順を踏もうとすることは、全くしないことよりも悪いのでしょうか。
2) 同様に、告白していない罪、あるいは「半分しか告白していない」罪の状態で、無理にでも聖書を読むことは良いことなのでしょうか、それとも悪いことなのでしょうか(あるいは無意味なことなのでしょうか)。私たちがまだ完全には御霊の支配の下にいない場合でも、御霊はなお私たちの心に御言葉を受け入れさせる力を与えてくださるのでしょうか。
3) ヤコブ3章1節以下は、キリストの裁きの座において受ける「より厳しい裁き」のことを指しているのでしょうか。それとも神の懲らしめに関する、より厳しい裁きのことでしょうか(あるいはその両方でしょうか)。
もちろん私たちは誰一人完全ではありません。そして「告白したい気分になるまで」待っていたら、ほとんど告白しないまま終わるかもしれません(聖書を読むことについても同じです)。しかしこれまでのところ、心が従うようになるまで真理を心に投げつけ続けるという私の戦略は、あまりうまくいっていないようです。
どう思われますか。
キリストにあって
返信 #14:
あなたの苦闘について聞き、気の毒に思います。私たちは皆、シオンへの道の途上で、このような、あるいはこれに似た抵抗と戦い抜かなければなりません。
ご質問には逆順でお答えしますと、ヤコブはここで、少なくとも主として、今この時代の私たちに語っているのだと思います。結局のところ、指導者には常により多くのことが期待されますし、キリスト教的な意味で指導者は人々から模範として見られ、真似される存在ですから、その悪い行いは個人のレベルを超えた結果をもたらします。また教師についても同じことが言えます。誤った教えは教師自身に影響するだけでなく、当然ながらそれを聞く人々にも影響を与えるからです。そして、もし私たちがこの点で悪い働きをするなら、キリストの裁きの座において報いの面で損失を受けることは間違いありません。しかし、これらすべてについて、私はあなたに対してもっと良い希望を抱いています。
霊的に問題のある状態にあるときに何かを行うことについてですが、もちろん主との関係において100%正しい状態でいる方が良いですし、霊的成長や奉仕への備えに役立つことを行う方が良いに決まっています。ですから答えは両方です。働き続けること、そして必要なときにはその都度告白し続けることです。
部分的な従順についてですが、あなたの言いたいことは理解できます。しかし単純に言えば、私たちは主が望んでおられることをしているか、していないかのどちらかです。確かに、あらゆる物事には程度の差があります。しかし主は、私たちがそれらを灰色の濃淡としてではなく、白か黒かという観点で見ることを望んでおられます。主は、私たちが主と御言葉に対して燃えるように熱心であることを望んでおられ、生ぬるいよりは冷たい方がましだとさえ言われます。聖書には、二心やそれに類するものを戒める箇所が数多くあります。なぜなら、悪を避け善に固く結び付くということに関しては、実際には「すべてか無か」ということはないにしても、主は私たちが「無」よりも「すべて」に近い状態であることを望んでおられるからです。しかし、その違いをあれこれ細かく分析し始めるなら、結局は従うことよりも従わないことの方へ傾いてしまうでしょう。
もし誰かがある罪や行動、あるいはなすべきことに対する抵抗に苦しんでいるなら、その罪を犯すたびに告白すべきです。もしそれが間違っていると分かっているなら、本来それを自分の人生から取り除きたいと願うはずです。そして、それが困難になると分かっているなら、主が助けてくださると信頼すべきです。ですから、告白し、前へ進もうと努めるべきなのです。あなたが語っているような形で葛藤し、悩んでいるという事実は、確かに問題があることを示しています。しかし同時に、それはあなたの心がどこにあるのかも示しています。たとえ百回つまずいて倒れたとしても、そのたびに立ち上がって前進する方が、「また倒れるかもしれない」という恐れから立ち上がらないよりもはるかに良いのです。キリスト者の人生には、主に喜ばれる方向がただ一つしかありません。それは前進です。前進の道は時として険しく、この世やその支配者、さらには自分自身の肉からの抵抗と戦わなければならないことも多いでしょう。しかし、そのすべてを通して主は私たちに何かを教えておられます。その一つは、御霊の声に耳を傾け、その力をどのように用いるかということです。正しい方法で行うたびに、あなたを悩ませている問題に対する実際的な勝利へと少しずつ近づいているのだということを知っていてください。そして、そのような技術は、将来必ずやって来るもっと複雑な問題に対処するためにも不可欠なものとなるでしょう。悪魔は、この戦いにおいて重要でない者に対して、自分の時間や資源を無駄にはしません。あなたはより良い方を選びました。だからこそ攻撃を受けているのです。たとえあなた自身には対処できないように思えても――特に対処できないと感じるならなおさら――主はこの問題を取り扱うことがおできになるのだと信頼してください。
しかし主は私に言われた。『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。』それゆえ私は、キリストの力が私の上に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう。だから私はキリストのために、弱さ、侮辱、苦難、迫害、困難を喜ぶ。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからである。(第二コリント12章9-10節)
ですから、告白し続けてください。そして、良い戦いを戦い続けてください。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
ボブ・L
質問 #15:
こんにちは、ボブ。
ご助言をありがとうございます。
もちろん私は、「どれほど熱心さを失っても大丈夫なのか」を試すような意味で、火遊びをしようとしているわけではありません(質問の意図はそこにはありませんでした)。ただ、しばらくの間、自分の感情に振り回されてしまい、その結果、自分がどのように神のもとへ立ち返ろうとしているのかについて疑問を抱くようになってしまったのです。ありがたいことに、今ではほとんどその状態から抜け出すことができました。しかし将来このようなことを繰り返さないために、その状況や引き金となった要因について理解しようとしています。熱意を失った状態や中途半端な悔い改めの状態を癒してくれるものは、結局のところ時間だけのように思えます。数日間、その罪について考えないように努めているうちに、自分自身に「もう大丈夫だ」と感じることを許せるようになり、再び主の務めへと戻ることができました。
結局のところ、この問題の根底にあったのは、自分自身を赦していなかったこと、そして自分で生み出した罪悪感や恥の感情を十分早く心から追い払えなかったことだったのだと思います。キリストの赦しを受け入れて自分自身のものとし、神が私たちにふさわしい懲らしめを正確に与えてくださると信頼することは、言うのは簡単ですが、実際に行うのははるかに難しいことです。以前の罪について気分が落ち込んだ結果、さらに罪を犯してしまうという本末転倒なことを、どうして自分がしてしまったのか理屈では理解できません。しかし、結局のところ、すべての罪は狂気と愚かさから生じるものですから、それも不思議なことではないのかもしれません。
おそらく、キリストにあって成熟していくことの大きな部分は、問題を引き起こした後ではなく、その前に全体像を見られるようになることなのでしょう。神が痛みを伴う経験を通して教えなければならないほど頑なである代わりに、聖書の言葉をそのまま信じられるだけの信仰が私たちにあれば、どれほど良いことでしょうか。
キリストにあって
返信 #15:
その通りですね、友よ!
私たちがイエスとより近く歩むようになればなるほど、私たちは本当に「主を常に自分の前に置く」(詩篇16篇8節)ようになり、日々の歩みの中で「見えない方を見ているようにして」(へブル11章27節)主と共に歩むようになります。そうなればなるほど、私たちはあらゆる面で主に敏感に応答するようになるでしょう。以前、私はある人にこう言ったことがあります。もし本当にイエスがいつも私たちの隣に座っておられるなら――しかも目に見える形で――、それは間違いなく私たちの行動に影響を与えるでしょう。もちろん実際には、そのとおりなのです。主は本当に私たちと共におられます。そして実際、主は私たちの内におられ、私たちは主の内にあります(聖霊も同様です)。しかし、これらの真理は目に見える形では現れておらず、真理を学び、それを信じ、それを適用する努力を通してのみ把握できるものです。そのため、それらは自動的に実感できるものではありません。このことが最初から得意な人などいませんし、私たちは皆、この点で成長の余地があります。私たちがシオンへ至る高い道、すなわち上へ向かう正しい方向を向いている限り、私たちは大いに励まされてよいのです。そして実際、そのように励まされるべきなのです(詩篇84篇4-7節)。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
ボブ・L
質問 #16:
こんにちは、ルギンビル博士。
前回の説明をありがとうございました。しかし、もう一つ質問があります。これも「キリスト論(Christology)」の学びの中の「神の小羊(Lamb of God)」という項目です。
次のような記述があります。
「もちろんイエスは、ご自身のいのちをささげられたのであって、(文字どおりの血をささげられたのではない)(へブル8章3節『ささげるべきものを持っておられる』参照)。」
そしてあなたは第一ペテロ1章19節を引用しています。
あなたがたが先祖から受け継いだむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちるものによるのではなく、傷も汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。(第一ペテロ1章18-19節)
私はもちろん、旧約聖書の「肉のいのちは血の中にある」という教えを理解しています。また、多くのキリスト者、特にカトリック信徒は、ヨハネ6章54節、あるいはヨハネ6章全体が象徴的に語られていることを理解していないと思います。
またヨハネ20章17節にはこうあります。
イエスは彼女に言われた。『わたしにすがりついていてはいけない。わたしはまだ父のもとへ上っていないからです。兄弟たちのところへ行って、「わたしは、わたしの父でありあなたがたの父である方、わたしの神でありあなたがたの神である方のもとへ上る」と伝えなさい。』(ヨハネ20章17節)
ここでイエスは、将来父のもとへ昇られる時のことを語っておられるのでしょうか。それとも別の意味なのでしょうか。私はずっと、イエスはこの時に父のもとへ行き、天の贖罪蓋(Mercy Seat)の上にご自身の血をささげられたのだと思っていました。しかし、その後、使徒行伝では弟子たちの前で再び昇天しておられます。つまり二度昇天されたことになるのでしょうか。
多くのキリスト者は、おそらくあなたのこの説明に反発するかもしれません。しかし、あなたが言おうとしていることは、「肉のいのちは血の中にある」のだから、キリストは究極の犠牲としてご自身のいのち、すなわちご自身の血をささげられた、という意味なのでしょうか。
質問ばかりで申し訳ありません。しかし、この点については、ぜひ先生の専門的な見解を伺いたいのです。
空の墓を残してくださったお方に、とこしえに賛美がありますように。そして……
あなたの友より
返信 #16:
あなたの質問にはいつでも喜んでお答えします。この件について重要なのは、聖書における「キリストの血(the blood of Christ)」という表現は比喩であり、文字どおりの血液を指しているのではない、ということです。ヨハネの福音書から分かるように、私たちの主がご自身の霊を渡された時、その血はまだ体の中にありました(ヨハネ19章34-35節)。また私たちは、主が私たちの罪の宥め(propitiation)によって贖いを成し遂げられたのは、まだ肉体的に生きておられた時、すなわち暗闇の三時間の間であったことも知っています。その時に主は私たちの罪を負い、その刑罰を支払われました。そしてその後で、「成し遂げられた」と言われたのです(ヨハネ19章30節)。これこそが「キリストの血」です。すなわち、律法の下で動物の肉体的な死によって表されていた、私たちの主の霊的な死のことです。律法の下では、動物たちは文字どおり血を流しました。その血は、キリストが私たちのためにすべての罪を負い、その罪のためにさばきを受けられた際の苦痛と恐怖、すなわち主の霊的な死を象徴していました。しかし、イエスが文字どおりの小羊ではないのと同じように、「血」もまた文字どおりの血液ではありません。それは、はるかに深い意味を持つものなのです。この極めて重要で(そしてしばしば誤解されている)点については、以下を参照してください。
「キリストの血」(ペテロ・シリーズ#9)
「キリストの霊的な死 I」(Bible Basics 4A)
「キリストの霊的な死 II」(Bible Basics 4A)
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
ボブ・L
質問 #17:
こんにちは、先生。
ご返信ありがとうございます。これから順に読んでいこうと思っています。先生が私の数多くの質問に根気強く答え続け、私の成長のために時間を割いてくださってから、もう五年半になります。本当に感謝しています。私自身も少しずつ教える働きへの準備を進める中で、その務めに備えること、そして実際にその務めを果たすことに、どれほどのものが求められるのかを認識するようになりました。
この場所は本当に素晴らしいです。まさに私が住み続けたいと思えるような場所です。ここでは避け所を感じ、平安と静けさの中にいることができます。そしてこの場所には、至るところに恵みが記されています。私が得たものは、到底ふさわしいものではありません。しかし私自身について言えば、良い霊的判断によって正しい決断を下す代わりに、すでにいくつもの失敗をしてしまいました。そしてそれは私自身の責任です。これまで与えられていた多くの機会を十分に生かして自分の弱さを克服しなかったために、本来ならすべてが始まる前に備えができているべきだった今になって、それらに取り組まなければならなくなっています。
先生――ここにある良いものはすべて神から来たものです。しかしここで私自身が行ったことは、どれも十分ではありませんでした。一つ、先生にお伝えしなければならないことがあります。先生は私の教師であり、真の友人だからです。私は、これらすべてのことには目的があって起こっていることを知っています。私は長い間、ごく質素な生活を送り、生活に必要なものさえほとんど足りない状態で暮らし、ときにはそれすら欠くこともありました。そして今のように多くの事柄に気を配る必要もありませんでした。小さな借家の一室に住み、本当に大切なことに集中するのは容易でした。
しかし今こそ、自分を否むべき時なのだと分かっています。そして、自分を否む機会がなければ、自己否定もありません。ですから、信仰者となった初期の頃には、私の性格のある側面は実際には試されていなかったのです。しかし今、それらは試されており、しばらく前からそうでした。そのすべての中で、今はっきりと見えることがあります。それは、私がラオデキヤ的な戦いを過小評価していたということです。そして、それを当然のものとして受け取っていたということです。目標が変わったからでもなく、贅沢な暮らしを望んだからでもありません。そうではないのです。ただ私は、この世のくだらない事柄の洪水がこれほど人を麻痺させるものだとは、本当に予想していませんでした。この点については正直でなければなりません。それは私の不意を突いたのです。
しかし私のような性格の者にとっては、すべてをうまく整えたい、何もかも完璧に配置したいと願う誘惑があります。しかし、それはすべて、先生のお言葉を借りれば、「錆び、欲望、そして塵(rust, lust and dust)」にすぎません。本当の危険は、こうした霊的な罠が一見すると些細なものに見えることです。以前のように、傷ついた心や病気と向き合うという話ではありません。むしろ、時間と注意力が全く価値のない事柄に食い尽くされないよう、絶えず警戒していなければならないのです。そして、そのようなものはあらゆる方向から現れます。私は、今これを与えられているのは、今それに取り組む必要があるからだと分かっています。しかし私は本当に、本当に後悔しています。こうした事柄について御霊によって歩むことを学び、自分の人格を聖書に従って形作る機会を十分に活用しなかったことを。そしてその機会は豊富にありました。そうしていれば、今、本当に神が私を置こうとしておられるかもしれない場所へ、霊的に備えられた状態で入ることができたはずです。それなのに私は、次から次へと失敗を重ね、そのたびに学び、実践しなければならなくなっています。なぜなら問題は真理を知らないことではなく、ただ適用の問題だからです。本来ならずっと以前に学び、実践しておくべきだったことを、今になって学び、実践しているのです。
先生、私は先生とご家族のために祈っています。そして霊的な面だけでなく、地上の生活の面でもすべてが順調であることを願っています。どうか先生に危険が及ぶことがなく、また現在の状況が先生の霊的な働きの実りを少しも妨げることがありませんように。
私たちの主にあって、
返信 #17:
私の友よ、良い住まいを見つけられたことを本当にうれしく思います。主がこのような素晴らしい形であなたの必要を満たしてくださったことを、私は心から感謝していますし、あなたも同じだと分かっています。物事を完璧に整えるのは非常に難しいことです。また、心配し過ぎて何も手につかなくなることがない程度に「十分うまく」整えることさえ難しい場合があります。信じてください。私はその両方の試練を知っています。そして私の経験では、一方の試練を乗り越えると、今度はもう一方がやって来るものです。私たちは、この世が永続するものではなく、ここには何一つ永遠に続くものがないということを、絶えず思い起こさなければなりません。しかしそれは実に良いことです。その事実自体も、そのことを思い出させられることも、どちらも良いことなのです。そして私たちが、そうした視点をある程度自動的に、また当然のこととして持てるようになればなるほど、それだけ良いのです。私の考えでは、それもまた「敬虔さ(godliness)」の一部です。単に聖別された歩みをすることだけではありません(罪深い生き方が間違っており、主を喜ばせるものではないことは、新しい信者であっても比較的容易に分かります)。それだけでなく、物事をますます「神の見方」で見るようになることです。私たちの生まれながらの、ごく自然な、習慣的な、地上的な、この世的な、理解はできても益にはならない「誤った見方」ではなく、神の見方で見るようになることです。
私はヨナのことを思い出します。彼は、自分のために生えたとうごまの木を喜びました(そもそも最初から存在していなかったにもかかわらず)。そしてそれが枯れてしまった時には腹を立てました。私たちが御言葉を学び、教える働きをすることは主にとって重要なことです。ですから、働きを行う環境に何か問題があるなら(照明、机、椅子、外部の騒音、空気の質など)、それは確かに煩わしく、また苛立ちの原因にもなり得ます。そしてそれが妨げになることもあります。しかし問題なのは、その「問題」自体というよりも、その問題に対する私たちの反応です。では、そのような場合はただ我慢すべきなのでしょうか。もし時間や労力や資源をすべて費やしてしまうことなく有益な改善ができるなら、そうする必要はありません。しかし重要なのは次の二点です。①地上において、何事も決して完璧にはならないということです。特に悪い者から本格的な「反撃の砲火(counter-battery fire)」を受けるようになれば、なおさらです。私たちはその事実を理解し、受け入れなければなりません。②主は、ご自分が私たちに行わせたい働きのために必要なものを、必ず与えてくださるということです。それが今日や明日でないかもしれません。以前持っていたものとは違うかもしれません。不満や不平を感じる余地が全くないほど十分ではないかもしれません。しかし、それでも十分なのです。もし誰かに不平を言う理由があるとすれば、それはパウロでした。彼がどれほど多くのことを経験したかを考えてみてください。しかし彼は不平を言う代わりに、敬虔な視点で物事を見ました。そして、圧力の中でも前進し続けることによって主を栄光あるお方として示す機会を与えられたことを感謝しました。私たちはパウロではありません。しかし、いつでも今より良くすることはできます。
自己否定については、あまり心配しない方が良いでしょうし、そのような言葉で考えない方が良いかもしれません。信じてください。もしその分野で訓練が必要なら、主は必ずその機会を与えてくださいます。あなたが語っていることはよく分かります。世の事柄に気を取られ過ぎてしまうこと、失敗をしてしまうこと、後になって自分の高い基準に達していなかったと感じる決断を後悔すること。しかし私たちは誰一人として完全ではありません。そして主が戻って来られるまでは、完全な状況など存在しません。実際には、艱難期が始まれば、多くのことはさらに悪化すると予想されます。それなのに、私たちはなぜそこまで気にするのでしょうか。真理についてこれほど多くを知っているにもかかわらず。それは単純に、私たちがまだ人間だからです。そして毎日、一歩一歩、自分の見方ではなく神の見方で物事を見るために戦わなければならないからです。
私の友よ、あなたへの助言はいつも同じです。必要でもない重荷を自分自身に負わせないでください。必要であれば、主ご自身が十分にそうなさいます。過去の失敗や過ちや誤った判断について思い悩まないでください。そのようなことは、主にあって持っている喜びを浪費することにしかなりません。そしてその喜びを失えば、他のすべてのことまで悪い方向へ向かってしまいます。私たちは皆、多くの点でつまずくのです(ヤコブ3章2節)。つまずいたなら、正しい行動は立ち上がって再び前進することです。「後ろのものを忘れ」て進むことです。もしそうしなければ、前進する中で状況を良くするどころか、かえって悪化させてしまうでしょう。サッカーで例えるなら、もし私がゴールキーパーとして、自分のミスで失点したことに心を奪われ、落ち込み過ぎたり動揺し過ぎたりすれば、次の失点もすぐに許してしまう可能性が高くなります。なぜなら、すでに起きたことに意識が向いていて、「今」起きていることに集中していないからです。
嵐が来る前に残された限られた時間を最大限に生かそうと努める中で、新しい「住まい」で祝福された時を過ごされることを願っています。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあるあなたの友
ボブ・L
質問 #18:
ボブ、
この節について助けていただけますか。これは二つの意味のどちらかを言っているように思えるのですが、ギリシヤ語の助けなしにはどちらなのか判断できません。
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊は義のゆえにいのちです。(ローマ8章10節)
これは次のどちらを意味しているのでしょうか。
①もし[キリストの御霊が]あなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいる。しかし[キリストの]御霊はいのちを与える方であり、それは[信仰によって受けた]キリストの義のゆえである。
つまり、あなたはキリストの御霊が内住し、その義があなたに帰せられたことによって、霊的死から霊的いのちへと移された、という意味です。
もっとも、これは真理ではありますが、旧約の聖徒たちもまた霊的には生きており、信仰によって義を受けていました(将来の十字架を根拠とした前払いの形で)。御霊は彼らと共にはおられましたが、彼らの内におられたわけではありませんでした(昇天以前にはそれは不可能だったので)。
②もし[キリストの御霊が]あなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいる。しかし、あなたの霊は[信仰によって受けた]義のゆえに生きている。
つまり、あなたは信仰によって受けた義によって霊的死から霊的いのちへと移された、という意味です。これはキリストの御霊が福音についてあなたに証しし、あなたが信仰によってそれを信じたから可能になったことです。
この解釈なら、旧約と新約のすべての聖徒に当てはまります。また、この節が意図している対比――罪のゆえに死んでいるからだ(律法によって力づけられる側面)と、義のゆえに生きている霊(信仰の福音によって力づけられる側面)――にも合っているように思えます。
ギリシヤ語では、この「霊」がキリストの御霊を指しているのか、それとも私たち自身の霊を指しているのかがはっきりしているのかどうか、私には判断できません。
キリストにあって
返信 #18:
私たちの内に住んでおられる御霊こそが、①私たちがキリストへの信仰によってこの世に対して死んだこと、そして②私たちが信じた時に新しく生まれたことによって神に対して生きていることの証拠です。その結果として、この現在の葛藤に満ちた状態――すなわち、罪の性質を抱えながらも、立場においては生きており、将来を待ち望んでいる状態――は終わりを迎えます。そして、今の肉体が変えられる時、私たち自身も復活によって変えられ、その時に永遠のいのちを受けることになります。
あなたのお母様のためにお祈りします。また、Ichthysの祈祷リストにもお母様のための祈りの要請を載せておきました。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
ボブ・L
返信 #18:
私たちの内に住んでおられる御霊こそが、①私たちがキリストへの信仰によってこの世に対して死んだこと、そして②私たちが信じた時に新しく生まれたことによって神に対して生きていることの証拠です。その結果として、この現在の葛藤に満ちた状態――すなわち、罪の性質を抱えながらも、立場においては生きており、将来を待ち望んでいる状態――は終わりを迎えます。そして、今の肉体が変えられる時、私たち自身も復活によって変えられ、その時に永遠のいのちを受けることになります。
あなたのお母様のためにお祈りします。また、Ichthysの祈祷リストにもお母様のための祈りの要請を載せておきました。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
ボブ・L
質問 #19:
ボブ、ありがとうございます。
ただ、私が求めていた説明はまだ得られていません。私たちが御霊によって生かされていることは分かっています。なぜなら、御霊が福音について証しし、また十字架以後は私たちの内に住んでおられるからです。しかし、ローマ8章10節のこの箇所で、「霊(spirit)」は聖霊を指しているのでしょうか、それとも私たちの霊を指しているのでしょうか。そこには定冠詞(the)が付いていないように見えるので、キリストが私たちの内に住んでおられるなら、私たちの霊が生きている、という意味なのではないかと思えます。
NASBは私たちの霊が生きていることを示唆しているようですし、NIVは御霊がいのちを与えることを示唆しているようです。(もちろん、どちらも真理であることは分かっていますが、私が知りたいのは、この節そのものが何を言っているのかということです。)
返信 #19:
多くの翻訳は、この箇所を誤って訳しています。あなたの理解は正しいです。この箇所の「霊」は聖霊を指しています。また、定冠詞があることもその方向を示していますし、さらに文脈全体が聖霊について語っていることもその根拠です。ローマ8章10節におけるパウロの意図を明確にするために、私が言い換えて訳すなら、次のようになるでしょう。
もしキリストがあなたがたの内に住んでおられるなら(そして、あなたがたに御霊があるなら、キリストは確かにあなたがたの内に住んでおられるのであり、もし御霊がなければ、あなたがたはそもそもキリストのものではありません。前の節を参照してください)、あなたがたの現在の肉体は、人類全体に共通する罪と腐敗の問題のゆえに死ぬ運命にあります。しかし、あなたがたの内に住んでおられる御霊は、あなたがたが復活することの保証です(次の節を参照)。なぜなら、御霊は、あなたがたが永遠のいのちを持っていることのしるしだからです。そのいのちは今は立場上のものですが、復活の時に実際の経験となります。なぜなら、あなたがたは信者となり、神の義を受けたからです。その義は、行いによるのではなく、イエス・キリストに信仰を置いた時に、信仰によって与えられた義です(4章参照)。(ローマ8章10節)
もちろん、もしすべての聖句をこのように拡大して訳したなら、持ち運べないほど大きな聖書になってしまうでしょう。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
ボブ・L
質問 #20:
ボブ、
御言葉を正しく理解しているか確認したいので、導きをいただけないでしょうか。私は今まで十分には気づいていなかったことが、少しずつ見えてきたように思います。それは、義、罪の赦し、新生、養子縁組、霊的割礼など、神のほとんどすべての約束は、贖いの後でさえ、なお「将来の実現を保証されたもの」として与えられているのではないか、ということです。もちろん、その保証は神の御言葉に基づいています。そして神の御言葉に基づいているからこそ、それが真実であることを私たちは知ることができます。私たちが信じている間、神はこれらの約束がすでに実現したかのように私たちを扱い、そのように見なしてくださいます。しかし、ピリピ3章7-14節でパウロが言っているように、私たちはまだそれらを「完全に獲得した」わけではありません。だからこそ聖書は、「信じる者は救われる」とも言えますし、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とも言えるのだと思います。私たちが信仰を持っている間は、それが実現したものとして扱われます。神はほとんど何も惜しまずに与えてくださいます。しかしそれは信仰に基づいており、もし背教によってその信仰を捨てるなら、その扱いも取り去られます。私たちは神の家族に養子として迎えられています。しかしそれも実際には、将来の実現を保証された状態に過ぎません。本当の養子縁組はまだ将来にあります。たちは「上から生まれた者」「新しく生まれた者」ですが、それも将来の実現を保証された状態です。本当に神の子らとして現されるのは将来です。私たちの心は清められ、体はきよい水で洗われたと言われていますが、それも信仰によって与えられたものであり、実際に完全に清められるのは、将来の復活と栄化の時です。その時、御霊は私たちをキリストの栄光の体と同じ姿へと完全に変えてくださいます。私は信仰によって霊的割礼を受けた者と見なされていますが、罪と死の体から本当に切り離されるのは将来の栄化の時です。私は信仰によってキリストによるバプテスマを受け、キリストの体の一員とされ、キリストを着せられた者とされています。しかし実際にキリストの体に加えられ、キリストの義を完全に受けるのは将来の栄化の時です。昇天後のキリストは、今や私たちに印を押し、将来これらの約束が実現する保証として御霊を与えてくださいました。そしてその同じ御霊によって、私たちは教会を整え建て上げるための霊的賜物を受けています(これもまた、すべてが将来の実現を待つ状態でありながら、その愛によって神は霊的祝福を与えてくださっています)。神の聖さ、義、恵み、そして愛によって与えられるその保証は、神の御言葉と同じく完全です。
キリストにあってあらゆるものをもって祝福してくださる神の愛によって
返信 #20:
これが間違っているとは言いません。
ただし、私はこのような表現はしません。なぜなら、聖書の中にこのような言い方をしている箇所を見いだせないからです。「保証されたもの」という表現は、おそらくローマ書でパウロが用いている logizomai(λογίζομαι)という語のさまざまな用法から導き出されたのでしょう。この語はしばしば「転嫁する(impute)」と訳されてきましたが、それが「転嫁の教理」という非常に大きな神学的誤りを生み出す原因となりました(もちろん、それは誰が神学体系を作るかによりますが)。その大部分は聖書的ではありません。たとえば、私たちは今すでに永遠のいのちを持っているが、まだそれを経験してはいない、と言うのは確かに正しいことです。また、もし不忠実になって信仰を捨てるなら、その永遠のいのちを経験することは決してない、と言うのも正しいことです。しかし、それは「将来の実現を保証されたものとして持っている」という意味なのでしょうか。そうかもしれません。しかし私は、それらがまったく同じことだとは確信していませんし、聖書がそのような言い方をしているとも思いません。また、この表現を聞いた人がどう理解するかも問題です。ある人がこの言葉から受け取る意味は、あなたが意図している意味とは違うかもしれません(もし私があなたの意図を正しく理解しているならですが)。
ですから、まずはこの原則を教えていると思われる聖句を並べ、それらを慎重に検討する方がよいでしょう。その上で結論を導くべきです。先にモデルを作り、そのモデルの中に聖句を当てはめようとする方法は、非常に問題を生みやすいものです。実際、それこそ多くの神学者たちが行っている方法であり、彼らが多くの誤りを犯す理由でもあります。特に、自分の「モデル」を気に入りすぎている場合にはなおさらです。ですから、私が言いたいのは、教理(doctrine)と説明のためのたとえ(teaching illustration)との間には大きな違いがあるということです。もし私たち自身がその二つをきちんと区別しなければ、私たちの話を聞く人たちがそれを区別できないことは確実です。この点について、個々の聖句を一緒に検討することなら喜んでお手伝いします。
私の友よ。あなたと奥様のために祈っています。
私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって
あなたの友
ボブ・L