終末論に関する諸問題 CXXXII

https://ichthys.com/mail-eschatology-issues132.htm

の抜粋翻訳

ロバート・D・ルギンビル博士による返信

質問 #1:

こんにちは……

私は今夜、携挙前艱難期説を信じ、その信念を固く持っている人たちと話すことになっていますが、そのうちの一人が最近、いくつか興味深い点を提示してきて、それらに反論するのが難しいと感じています。

1) ハルパゾー<引き上げ、いわゆる携挙>は、イエスが天から降って来られる時に起こります(第一テサロニケ4章16節)が、復活は、イエスがすでに地上におられる時に起こります(ゼカリヤ14章4-5節; マタイ24章29-30節)。

2) ハルパゾーにはイエスご自身が伴われます(第一テサロニケ4章16節)が、復活には御使いたちが伴います(マタイ24章31節)。

3) 黙示録20章5節の艱難期の聖徒たちは、第一の復活に含まれています。旧約時代の聖徒たちの復活(ダニエル12章1-2節)は、第一の復活の一部だとお考えですか、それとも第二の復活だとお考えですか。

4) ハルパゾーの目的は、教会を主とともに永遠にいるようにすることです(第一テサロニケ4章17節)が、復活の目的は、義なる死者をよみがえらせて千年王国に入れることです(マタイ25章34節)。

5) ハルパゾーの結果、教会はイエスが今おられるところへ行くことになります(ヨハネ14章2-3節)が、復活の結果、聖徒たちは千年王国へ行くことになります(マタイ25章34節)。

もし復活とハルパゾーが同じ出来事だとお考えなら、これらすべての聖句をどのように調和させるのでしょうか。

返信 #1:

匿名の友人へ

まず初めに申し上げておきたいのですが、「携挙」(あなたが「ハルパゾー」と呼んでいるもの)は非常に危険な偽りの教理です。なぜなら、私たちがまさに艱難期の入り口に立っており、しかも教会時代のどの時期にもましてクリスチャンが困難に対する備えを欠いているラオデキヤ時代の末期にいるというのに、この教理は信者たちに、艱難期に備える必要はないと教えるからです。それは「気分を良くさせる」偽りの教理です。この人生で自分のしたいことをし続け、霊的成長という困難な働きを避けても、何の結果も被ることはないと考えるのは「気分が良い」ものです。なぜなら、(その教理によれば)たとえ艱難期が到来しても、「まあ、私たちは『携挙』されるのだから」というわけです。しかし、そうではありません。聖書の中で将来の出来事が語られている箇所ではどこでも、私たちの主の再臨、すなわち主の parousia(パルーシア)は、艱難期の初めではなく、その終わりに起こるとされています。そして、二度の再臨があることを示唆する箇所は一つもありません。実際、聖書には「艱難期前の携挙」を明確に教えている箇所は一つもありません。「これはキリストが艱難期前に再臨されることを意味している」と解釈されるような聖句は一節たりともありません。そのように解釈されるのは、携挙説の支持者たちが、聖書が実際に述べていることに反して、その前提を不当に聖句に持ち込んでいるからです。さて、あなたが挙げた点についてですが、

1) この偽りの教理を「ハルパゾー」と呼ぶのを、私はこれまで聞いたことがありません。確かに第一テサロニケ4章17節では、その動詞(すなわち未来受動形 ハルパゲーソメタ<harpagesometha: つかみあげられる)が、キリストの再臨、すなわち15節にある主の来臨(parousiaパルーシア)の際の、生きている信者たちの復活を表すために使われています。リンク「Parousia means 2nd Advent<英文>(パルーシアは第二の来臨を意味する)」を参照してください。あなたは「復活は、イエスがすでに地上におられる時に起こる」と言っていますが、それは明らかに事実ではありません。ゼカリヤ14章4-5節は、まったく復活について述べているものではありません。そこに描かれているのは、ユダヤ人たちがエルサレムから逃れることです。彼らは不信者であったため、私たちの主の再臨の際に復活させられることはありません。彼らは実際、主が戻って来られるのを見た時に悔い改めるのです(リンク参照)。彼らは救い出され、なお生き残っている他のユダヤ人たちとともに、千年王国におけるユダヤ民族の中核を形成します。マタイ24章29-30節は確かに復活について述べていますが、ここでメシヤはまだオリーブ山に「降り立って」はいないことに注意してください。したがって、この箇所はもう一方の箇所と完全に一致しており、実際の復活と、携挙説の支持者たちが教えているこの偽りの復活との間に「違いがある」という主張を裏付けるものではまったくありません。

2) 第一テサロニケ4章にもマタイ24章にも、私たちの主はおられます。また、どちらの箇所にも御使いたちがいます。したがって、そこに矛盾はありません。マタイ24章31節で「大きなラッパの音とともに」御使いたちを遣わされるのはキリストです。そして第一テサロニケ4章16節では、主は復活を告げ知らせるため、「御使のかしらの声」と「神のラッパ」とともに降って来られます。

3) KJV訳(および他の多くの翻訳)にある黙示録20章5節の前半部分は、聖書本文の一部ではなく、後代に挿入されたものです(リンク参照)。第一の復活には三つの段階があり、パウロが第一コリント15章23-24節で教えているとおりです。1] キリスト、2] 教会、3] 花嫁の友人たち(すなわち千年王国時代の信者たち)です。もちろん、私たちの主はすでに復活しておられます(第一段階)。アダムとエバから、ハルマゲドンに先立ってキリストが空に現れるまでの艱難期中に救われる最後の人に至るまで、教会全体が教会を構成します(第二段階)。千年王国の間に救われるすべての人は、その終わりに復活します(第三段階)。死者の復活も、人類史七千年の終わりに、その時に続いて起こります(黙示録20章11-15節)。

4) 「羊と山羊」の裁きは、千年王国時代の信者たち(羊)の裁きと、カイン以来のすべての不信者たち(山羊)の裁き、すなわち黙示録20章11-15節の「大きな白い御座」の裁きです。これは歴史の終わりに起こるものであり(第二の来臨<再臨>の時ではありません)、マタイ25章34節で言及されている御国は千年王国ではなく、永遠の御国です(リンク参照<英文>)。

5) ヨハネ14章2-3節は、今の信者たちにとっての慰めであり、私たちの主が昇天された時以来ずっとそうでした。十字架以前、信者たちは地の下にあるパラダイスへ行きました(例えばルカ23章43節)。その後、私たちは中間の期間、中間の状態において、主とともにいるため第三の天へと連れて行かれます(リンク参照)。したがって、この箇所は復活について述べているのではまったくありません。そして、すでに述べたように、マタイ25章34節も教会の復活について述べているのではありません。

あなたが受け取っているこれらの質問を見れば、それだけで十分なことが分かります。携挙説の支持者たちは、聖書が終わりの時(終末論)について教えていることをまったく理解していません。その代わりに、彼らは一つのお気に入りの理論(しかも間違った理論)を聖書の教えの代わりに据え、この非常に重要な主題について聖書が教えている他のすべての事柄に関しても、その理論によって道を踏み外すままになっています。彼らは自分たちの理論を支持するために聖書をねじ曲げ、その結果、復活の本当の時期と性質についての真理だけでなく、それに関連する他のすべての事柄についての真理も失っています。しかし、もし彼らが聖書を読み、聖書を通して御霊に語っていただいていたなら、そもそもこのような誤った考えを思いつくことは決してなかったでしょう。実際、彼らはそれを他の人たちから教えられたのです(偽りの教えは偽りの教えを生みます)。

彼らに対する私の助言は、良い聖書の教えを見つけ(このラオデキヤの時代には、それがいかに難しいことであっても)、いったん見つけたなら、それにしっかりとついて行き、霊的に成長して、私たちの主が実際に戻って来られる時に、主から「よくやった!」との言葉をいただけるようにすることです。以下に、この議論の詳細をさらに明らかにするいくつかのリンクを挙げておきます。

『携挙』およびその他の終末論上の問題」<英文>

終末論に関する諸問題 XXIV:『携挙』その他」<英文>

艱難期前の『携挙』:いわゆる『切迫性』その他の誤った根拠への反論」<英文>

艱難期前携挙という偽りの教えの危険性」<英文>

携挙はいつ起こるのか?」<英文>

Parousia(パルーシア)」<英文>

艱難期前携挙説の起源と危険性」<英文>

携挙はない」<英文>

信仰を脅かす三つの偽りの教理」<ペテロシリーズ#27>

艱難期前携挙に置かれた誤った信頼」<英文>

小羊の花嫁の復活(来たる艱難期第5部)」<A4版印刷本「来たる艱難期第五部」の94頁->

イエスにあって

ボブ・L.

質問 #2:

こんにちは。

今はあまり調子がよくありませんが、気にかけてくださってありがとうございます。

七つの教会についての記事を読んでいたのですが、現在の教会の時代が2026年に終わるとありました。これは正確にはどういう意味なのでしょうか。

気になったのでお尋ねしました。

返信 #2:

それを聞いて本当に残念です。あなたのために祈ってきましたし、これからも祈り続けます。

ご質問についてですが、ラオデキヤの教会時代は、教会時代全体の最後の時代です。それが2026年に終わるのは、その年をもって、教会時代だけが単独で続く期間が「終わる」からです。艱難期は、ユダヤ人の時代の最後の七年間、すなわちダニエル9章24-27節(26-27節)の第七十週と、教会時代とが重なり合う期間です。したがって、ラオデキヤ時代の終わりは艱難期の開始と同時になります(リンク参照)。

この年代の推定/解釈については、ウェブサイトに多くの説明があります。基本的なことが分かるリンクを一つ挙げておきます:「艱難期の推定される開始時期

要するに、人類史に対する神のご計画は七千年間、いわば七つの千年からなる「日」に及び、これは創世記1章と2章における地の再創造の七日間に対応しています。聖書に記されている年代上の詳細に基づけば、異邦人の時代が二千年間であり、ユダヤ人の時代も同様に二千年間(ただし七年間、すなわちダニエルの第七十週を除く。ダニエル9章27節)であったことを確定することができます。千年王国は、その定義上、千年間続きます(創世記2章の第七日の安息日に対応します)。そうすると、現在の時代である教会時代には二千年間が割り当てられることになります。教会時代は、(私たちの主の昇天の少し後の)ペンテコステの日に始まりました。私たちが知り得る限りでは、これらの出来事は紀元33年に起こりました。そうであれば、第二の来臨は2033年に起こることになります。したがって、艱難期の開始年は2026年となり、それによってラオデキヤ時代がその時に終わる理由も説明されます。先ほど申し上げたように、このことについてはサイトにさらに多くの説明があります(上記のリンクから他の関連箇所にもたどることができます)。

友よ、あなたの状況が早く良くなることを願っています。

イエスにあって

ボブ・L.

質問 #3:

ああ、なるほど、今わかりました……。

ここで今おっしゃったことに対応する年代表が下にあります。

ということは、人類史の七日間は、人類史における七つのディスペンセーションのようなものなのでしょうか。

ここでこの図も見つけました。

先生のおっしゃるとおりだと思います!

わあ、主イエスよ、来てください!

返信 #3:

ディスペンセーションについてですが、あなたが言っているのはスコフィールドの理論のことであり、それには多くの誤りがあります。聖書におけるディスペンセーションとは、神がご自身の真理をどのように「分け与えられるディスペンス(dispense)」か、その方法によって定義されるものであり、契約とは間接的に関係しているにすぎません(契約についても、スコフィールドの理論では大きく誤解されています)。このことについて詳しくは、以下のリンクを参照してください。

ディスペンセーション(へブル1章)」<リンク先ファイルの35頁- /A4版印刷本「パウロのへブル人への手紙」の87頁-参照>

ディスペンセーション、契約、イスラエルと教会 I」<英文>

ディスペンセーション、契約、イスラエルと教会 II」<英文>

その年代表/図について、いくつか気づいたことがあります。まず、その図では十字架/復活/ペンテコステが紀元29年に起こったとされています。もしそうであれば、艱難期は二年前に始まっていたはずです(明らかにそうではありません)。また、これはバプテスト派の図です……つまり、彼らは「携挙」によって、自分たちは艱難期を経験することさえなく免れると考えているということです(ですから、彼らの言うことについては何であれ、十分に警戒したほうがよいでしょう)。

Ichthysでこれらすべての問題についてまず一通り概観するのに最もよいのは、『Bible Basics 2B: Eschatology(聖書の基本 2B:終末論)<英文>』です(リンク)。

イエスにあって

ボブ・L.

質問 #4:

私自身は、艱難期前携挙を信じています。

その他のことについて言えば、ペンテコステは紀元33年でした。

ペンテコステに始まった教会時代の二日間、すなわち二千年間を数えると、2033年になります。

これがキリストの第二の来臨です。キリストは千年王国の統治を開始されます。

しかし、その前に、携挙と大艱難期が起こります。艱難期はユダヤ人の歴史の最後の七年間です。

先生が正しく述べられたとおり、それは2026年に始まると私は信じています。ただし、その日、その時がいつなのかは、私たちにはわかりません。

返信 #4:

私自身は、艱難期前携挙を信じています。」とのことですが、もちろん、そう信じるのはあなたの自由です。しかし、この誤った理論には、聖書的な根拠がまったくありません。また、それは危険でもあります。なぜなら、その時が近づくにつれて信者が持つべき熱心に備える姿勢ではなく、艱難期に対する油断を助長するからです。

確かに、私たちは正確な「その日、その時を知りません」。しかし、イエスがマタイ24章でこの言葉を語られたのは、目を覚ましているようにという文脈においてであり、その際、いちじくの木を例に挙げ、それを観察することによって夏が近いことをかなりよく知ることができると教えられました。ですから、この言葉を用いて「心配する必要はない!」と言うのは、「目を覚ましていなさい!」という意味とはまったく正反対の適用です。聖書から私たちが知っていること(あなたもここで認めているとおりです)、また、私たちの周りの世界に見て取れることを考えれば、艱難期が近いうちに起こるはずがないと考えるのは無謀なことです。そうすると、私たちに残されている選択肢は二つです。備えるか、備えないかです。もし艱難期が始まる前に私たちが「携挙」されて危険から逃れられるので、実際には信者が一人として艱難期について心配する必要がないのだとしたら、なぜ聖書は艱難期とその危険について、これほど多くのことを私たちに教えているのでしょうか。

「だから、目をさましていなさい。あなたがたの主がいつ来るのか、あなたがたにはわからないからである。このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイ24章22-24節 /NKJV訳)

以上のことが艱難期の後の私たちの主の第二の来臨に当てはまるという事実については、私たちの主ご自身がこの同じ章で極めて明確にしておられます。

「しかし、その日の艱難のすぐ後に、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」(マタイ24章29-31節/NKJV訳)

以上の箇所は、復活が艱難期の後に起こることを疑いの余地なく明らかにしていますが、いわゆる艱難期前の復活の「根拠」はすべて、想像に基づく、もっともらしいだけの演繹的推論によるものです。なぜなら、それを明確に教えている聖句も箇所も一つとしてないからです。

以下に、この重要な主題についてさらに詳しく扱っているリンクをいくつか挙げておきます。

『携挙』およびその他の終末論上の問題」<英文>

終末論に関する諸問題 XXIV:『携挙』その他」<英文>

艱難期前の『携挙』:いわゆる『切迫性』その他の誤った根拠への反論」<英文>

艱難期前携挙という偽りの教えの危険性」<英文>

携挙はいつ起こるのか?」<英文>

Parousia(パルーシア)」<英文>

艱難期前携挙説の起源と危険性」<英文>

携挙はない」<英文>

信仰を脅かす三つの偽りの教理」<ペテロシリーズ#27>

艱難期前携挙に置かれた誤った信頼」<英文>

小羊の花嫁の復活(来たる艱難期第5部)」<A4版印刷本「来たる艱難期第五部」の94頁->

イエスにあって

ボブ・L.