終末論に関する諸問題 CLXXI (171)
あなたのメール
[2026年8月29日掲載]
<「返信:」部分がロバート・D・ルギンビル博士によるものです>
からの抜粋翻訳
質問 #1:
こんにちは、ボブ。
ちょっと一言。ちょうど、定期的に行っている第一・第二コリントの通読を終えたところですが、先生のおっしゃるとおりだと思います。ローマ書ではなくコリント書を選ばれたのは賢明でした。コリント書は、今日の私たちを堕落させているように思われる多くの事柄を扱っていますが、ローマ書ではそうではありません。同性愛のことだけではありません。特に、異なる福音を宣べ伝える人々について扱っています――これは今日、蔓延しているように思われます。
最近、ここ米国のチャーチ・オブ・クライストのある聖職者が、イエスは神の御子ではないと主張したという記事を読みました。また、英国の正教会の別の聖職者は、聖書の三分の一は誤っているので、それを破り捨て、新しい福音に置き換えるべきだと主張していました。ちなみに、二人とも女性でした。それがこのことと関係があったのかなかったのかは分かりませんが、この問題についてのパウロの見解を無視することはできません。妻と私が聖書を教える教会を探そうとした時、そのような教会を一つも見つけることができませんでした。カトリック、正教会、プロテスタント、そして数多くのユダヤ教の諸派、そのどこでも聖書と矛盾する教理が説かれていました。妻はオクラホマ州で、実際に聖書を読む指導者を見つけ、その後しばらくして、私も先生を見つけることができました。
今では、「UFOファイル」が公開され、そこでは「異星人」は私たちよりはるかに進んでいると主張され、説明を受けたキリスト教指導者たちは、それを恐ろしいものだと述べています。そのため、これから新たな異端の波が広く伝えられ、数え切れないほどの人々がそれを信じるようになるのではないかと思います。これは、パウロが第二テサロニケで書いた「強い惑わし」ではないかもしれませんが、確かにそう呼んでもよいほどのものです。そして今度は、1分1ドル99セントで相談できる「AIイエス」まであるという記事を読みました!
先生とご家族が皆お元気で、今年度の学校生活も順調であったことを祈っています。おそらくもう学年末も近いのではないかと思いますし、「理不尽な管理職から浴びせられる矢や石」に苦しめられていないことを願っています。こちらはまずまず順調です。私の湿疹も、一進一退ではありますが、少しずつ良くなっていますので、不平を言うことはできません。お祈りをありがとうございます。
私たちの主イエスにあって、
返信 #1:
便りをもらえて本当にうれしいです、友よ!
第二コリントを取り上げることも考えました<ルギンビル博士は、自身のサイトの次の聖書研究箇所のために選択を考慮していたことを言っています。最終的にはコロサイ書に決めました。今はコロサイ一章まで英語でサイトにアップされています>。ギリシヤ語では、私の考えでは、この書簡<第二コリント>は意味を読み解き、それを説明するのが比較的難しい書簡の一つです(いくつもの英訳を比較しない限り、その難しさは英語では分かりませんし、比較しても分からないことがあります。特に第一章の終わりの部分は難しく、ほとんどすべての英訳で誤訳されています)。しかし、1)まず第一コリントを取り上げるべきだと思われること、そして2)両方を最後までやり遂げる時間があるかどうか分からないことから、代わりにコロサイ書を選ぶことにしました。コロサイ第一章はすでに半分以上終わっていますので、あと一か月ほどすれば、すでに掲載してある序論に加えて、それも掲載できるでしょう<すでに掲載されています>。
昔からある「主流派」の諸教会が、真理からこれほど遠く離れてしまったのは本当に悲しいことです。いわゆる福音派やそれに類する教会も大してましなわけでもなく、ただ別の仕方で行き過ぎに陥っているだけです(ニューエイジのたわごとも、グノーシス主義と大して変わりません)。私がいつも言っているように、こうしたことすべてが、IchthysやBible Academyのようなミニストリーがインターネット上に存在している理由を説明する助けにもなります。私なら、教派に属したままやっていくことは到底できなかったでしょう。
[追伸:特別なお願い――これまで長年にわたり、このミニストリーに献金する必要を感じながらも、(このミニストリーでは献金を受け付けていないため)そうすることができなかったすべての方々へ。どうか、神に喜ばれる惜しみない献金によってBible Academyを祝福することをご検討ください。]
UFOについて。これは間違いなく、これから起ころうとしていることのための下準備の一環です。人々は、ほんのわずかな具体的証拠さえないのに異星人の存在は喜んで信じます。しかし、神にしか造ることのできない被造世界が自分たちの周囲の至るところにあるにもかかわらず、神に耳を傾けようとはしません。人々が、反キリストが自分自身について語ることを、ほとんど抵抗することなく受け入れるようになることは容易に想像できます。しかも、こうしたことはすべて、御霊による抑制が取り除かれる前の今、すでに起こっているのです(リンク参照<リンク先ファイルの60頁-/A5版印刷本の110頁-を参照下さい>)。
手術があり、人事委員会の議長を務めなければならず、また「世界言語専攻」を設置するための一連の取り組み(私もそれに関わっています)があり、そのほかにもさまざまな仕事や多忙を極める事柄がありましたが、それでも[今年度は]何とか(ほぼ)終わりました。次の秋学期の副議長に選ばれ、すでにそれに関連する問題に対処しなければならなくなっています。研究のほうはまだあまり進んでいませんが、とはいえ、まだ五月です(もうぎりぎりですが)。
友よ、そちらの大平原で元気にしていることを願っています。今年は私たちも唐辛子を育てています(私たちには非常に珍しいことです)。完璧なモーレ・ソースを求めてのことです。
こちらでも引き続きお祈りしています――そして、あなたのお祈りにも心から感謝します!
イエスにあって、
質問 #2:
こんにちは、ボブ。
異星人の話には私も注目しています。今回、小預言書を通読していて、当時の人々も今日の人々と同じように邪悪だったのだということに、ようやく気づきました。実際、これまでいつの時代も違っていたのかどうか、私には分かりません。結局、「今あるものは、すでにあったもの」なのですから。今日、目立って違う唯一のものは、この異星人についてのたわごとです。政府や聖職者たちが、この「啓示」をどう扱うのか興味があります。
このことに気づくまでこんなに時間がかかってしまって、すみません。私は物覚えが遅いのです。先生が育てている唐辛子がどんなものなのか気になりますし、モーレを作っているというのにも驚きました! 中西部の人にとっては、あまり一般的なソースではありませんよね。将来、チキンのモーレ・エンチラーダを作るつもりですか?(私はあれが大好きです)
私たちの主にあって、
返信 #2:
「これまでいつの時代も違っていたのかどうか、私には分かりません」について。違っていた時代を探すなら、エデンの園までさかのぼらなければならないでしょう。
「今日、目立って違う唯一のものは、この異星人についてのたわごとです」について。しかし、これさえも言葉の問題です。悪霊たち(下級の神々、ドリュアス、ネレイスなどなど)とは、別のところから来た人間ではない存在でなくて何でしょうか? 異教における物事の描かれ方にせよ、グノーシス主義の空想にせよ、そこには、人間ではない超越的な存在が私たちと関わっているとされる構図があります。「異星人」という言い方のほうが、多少は科学的で、神学的ではないのでしょうが(あえてそのように言うなら)、結局のところ、あなたが正しく表現しているように、どれも同じ類いの「たわごと」にすぎません。
唐辛子とモーレについて。これは、私がよく引用する昔のスティーヴ・マーティンのジョークを思い出させます。「100万ドルの税金を払わずに済ませるにはどうすればいいか? まず、100万ドルを手に入れなさい……」。私たちは種を蒔いたところです。唐辛子が一本でも採れるようになるまでには、まだまだ先は長いです。
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #3:
そのように考えたことはありませんでしたが、悪霊は異星人ということになりますね。そして、もし彼らが私たちに見せている写真が本物で(それも疑わしいですが)、ハリウッドやAIによって作られたものではないのなら(まあ、どちらも同じようなものかもしれませんが)、私もそれらは悪霊だと思います。
返信 #3:
悪霊が人間の目に見える形で現れた出来事が聖書にあったかどうか、思い出そうとしているところです。選ばれた天使たちは、神からの知らせを伝える時に何度も姿を現しています(特にキリストの誕生の時がそうです)。しかし、現在のところ、神が定められた規則のもとでは、悪霊たちは自分たちの姿を現すことを許されていないと私は思います――光のない底知れぬ所に投げ込まれる危険を冒さない限りは(ルカ8章31節参照)。艱難期に聖霊による抑制が取り除かれた時に何が起こるのかについては、実際にその時が来るまで待って見なければなりません(リンク参照<リンク先ファイルの60頁-/A5版印刷本の110頁-を参照下さい>)。
イエスにあって
質問 #4:
こんにちは、ボブ。
興味深い考えで、私もそれまで考えたことがありませんでした。私にも、そのような例は思い浮かびません。私にとって関係のある事実は、悪霊が追い出されることがあり、また人間に取りつくことができるということでした。もし先生が理解しておられるとおり、悪霊が自分たちの姿を現すことを許されていないのなら、UFO/異星人の話はでっち上げということになります。
これが作られたプロパガンダだと私に確信させることが二つあります。1)最初の発表以来、UFO関連のプロジェクトに携わっていた18人の科学者が不可解な原因で死亡しています。これほど短い期間に、関連する研究に携わる18人もの人が死亡したというのは、到底信じがたいことです。そして2)これらの映像の中には、瞬間的に加速する様子を映したものがありますが、そのような加速は生身の生物なら死んでしまうほどのものです。結局のところ、ハリウッドはもう一世代にわたって異星人を作り続けてきました。AIがあれば、モデルか『スター・トレック』の一話でも学習させれば、あとは安価に自分たちで作り出すことができるでしょう。もしほかの世界が存在するのであれば、聖書にもそれについて述べられているだろうと思います。
私たちの主イエスにあって、
返信 #4:
これほどありそうもないことについては、私自身は、それを信じないための理由をわざわざ探そうとは思いません。人々がありとあらゆるたわごと――偽り――を信じる一方で、真理には抵抗するというのは驚くべきことです……聖霊が彼らの心の奥底にその真理を証ししておられるにもかかわらずです。しかし、それが自由意志というものです……そして、心のかたくなさです。そして、それこそが私たち全員がこの地上にいる理由なのです。すなわち、私たちに与えられた神のかたちを用いて、神を選ぶか、神に反対するかを選択するためです。
もう一つ、気づいたことがあります。人類の歴史において、誰かが秘密を守り通すということ自体、非常にまれです。まして、大勢の人々がそろって一つの秘密を守り続けられる可能性が、いったいどれほどあるでしょうか? 陰謀が現実の世界よりも文学や空想の中ではるかに多く見られる理由の一つは、そこにあります。
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #5:
こんにちは、ルギンビル博士。
ヤコブ4章13-17節で、ヤコブは読者であるユダヤ人信者のうち、裕福な人々と貧しい人々の両方に語っていたと考えるのは正しいでしょうか? この箇所を学んでいると、これらの言葉を裕福な人々だけに限定するのは、どうもあまり意味が通らないように思えます。というのも、私の理解では、貧しい信者たちの中には、自分たちが直面していた試練に対して良くない反応をし、(裕福な人々からの)迫害や、社会の下層階級にいることに伴う苦しみから逃れようとしていた人たちもいたからです。そのため彼らの中には、その過程を通して主が自分たちを顧みてくださることに信頼するのではなく(彼らの中のある者たちがより裕福になることが主の御心であったかどうかにかかわらず)、自分のことは自分で何とかし、自分の運命を自分で支配しようとする者も出てきたように思えます。富を望むことや計画を立てること自体が間違っていたのではなく、その背後にある、神への信仰と畏敬を欠いた、傲慢で誇る態度が間違っていたのです。恐れから生じた主への信仰と信頼の欠如によって、これらの貧しい信者の中には、自分たちの境遇から何とか逃れようと必死になった者もいたのかもしれません。それは主が彼らの益のために用いておられた試練でしたが、彼らの中には、それを喜ぶのではなく(ヤコブ1章2節)、悪いものとして受け止めていた者もいたのでしょう。
そういうわけで、13-17節のこれらの言葉は、裕福な人々だけに限定されたものではなく、今述べたような理由から、貧しい人々にも向けられていた可能性が高いと先生はお考えでしょうか? つまり、これらの言葉は、裕福な人にも貧しい人にも、それぞれの置かれた状況に応じて当てはまるとお考えでしょうか?
最近はいかがお過ごしですか? 先生のために祈り続けてきましたし、これからも祈り続けます。
キリストにあって、
返信 #5:
あなたに同意します。確かにヤコブは、この手紙の中で「裕福な人々」や「えこひいき」について多くのことを語っています。しかし、商売のための旅に出るには、ある程度の資力があり、まったくの「極貧」ではない必要はあったでしょうが、当時、そのような旅をするために、私たちが(そして当時の人々も)「裕福」と呼ぶほどの人である必要は必ずしもありませんでした。辺境で毛皮を取る猟師でも、同じようなことを言ったかもしれません――そして彼らは、裕福なことで知られていたわけではありません。また、「私たちの時は御手の中にある」(詩篇31章15節)ことを認めずに、自分のことを自分の手で何とかしようとするこの態度こそが問題だという点にも同意します。私たちは皆、絶対的に主を必要としています。意識して主に頼れば頼るほど、それだけよいのです――なぜなら結局のところ、私たちがこれまでに受けたすべての良いものも、経験したすべての救い出しも、主から直接与えられたものだからです。
すべての良い贈り物、すべての完全な賜物は上から来るのであり、移り変わる影のように変化することのない、天の光の父から下って来るのである。(ヤコブ1章17節/NIV訳)
主を完全に信頼するというこの見方は、霊的な成長、前進、実を結ぶことにとって、いつの時代にも極めて重要なものでした。そして艱難期には、その重要性はいっそう増すことになります。
「あなたが受けようとしている苦しみを何も恐れてはならない。見よ、悪魔はあなたがたを試すために、あなたがたのうちの何人かを獄に投げ入れようとしている。そして、あなたがたは十日の間、艱難に遭うであろう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたに命の冠を与えよう。」(黙示録2章10節/NKJV訳)
私は元気にしていますが、まだ「あれやこれやすべて」から回復している途中です。手術前とまったく同じ状態まで戻るには、最後の10~20%が思っていたより少し大変だということが分かりました。夏になって、体調を整えることにも、休息にも、もう少し時間を使えるようになったのはありがたいことです。
友よ、私もあなたのために祈り続けています。職場の新しい状況はどうですか?
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #6:
どうか、どうかお願いします。私のメッセージに書いたことは真実です。私はただ確信が欲しいのです。私が犯したオカルトの罪について答えてください。その後は、もう何も質問しません。先生がとてもお忙しいことは分かっています……。どうか、私がオカルトに関わったことについて安心させてください……そうすれば、本当にもう先生を煩わせずに済むことを願っています。キリストにある愛と感謝を込めて。私が現在通っている教会は英国にあります。それで、ボブ、もし神が何かの律法や儀式を付け加えることにそれほど厳格であられるのなら、罪を繰り返してきた私の人生に加えて、オカルトにまで関わった私を憐れんでくださるでしょうか? 若い頃、私は一人で祈っていた時、聖霊による力強いバプテスマを受け、それと同時に神はエゼキエル書から御言葉を与えてくださいました。その油注ぎが去った後、私は教会の建物の近くの通りを歩きました。すると、二人の若い兄弟が通りをこちらへ歩いて来るのが見えました。彼らは私に時間があるかと尋ね、神が私の人生について語るために自分たちを遣わされたのだと言いました。私たちは皆、教会の建物の中に入りました。兄弟の一人が棚に聖書があるのを見つけました。彼は私に、「この聖書を開きます。そうすれば神があなたに語られます」と言いました。彼は聖書を開いて言いました……「主の御言葉は……エゼキエル2章です」。これは土曜日の夜のことでした。日曜日の朝、教会で(集会が始まる前に)、年老いた牧師がふと口を開いて語ったのが……エゼキエル2章でした。神に召されたというのに、それからわずか数年で、私はなんと堕落してしまったことでしょう。
[省略]
このことは先生を驚かせたかもしれません。神は、あの恐ろしい罪を私から赦してくださったのでしょうか?
[省略]
ボブ、先生の愛と尊いミニストリーに感謝します。
兄弟よ、どうか返事をください。
返信 #6:
今日の世界には、ニューエイジの教え、カルト組織、そしてオカルトを行う人々やその行為があふれています。これらは、未信者を奴隷にし、信者を無力化しようとする悪魔の企ての主要な手段です。もちろん、こうしたものはすべて罪です。そして私たちは、罪についてすでに詳しく話してきました(リンク先の『聖書の基礎第3部B: 罪論――罪についての聖書研究』をお読みください)。
聖書は、私たちが罪から離れ、その罪を主に告白するなら、赦されるとはっきり述べています(以前のメールを参照)。私たちが罪Yよりも罪Xについて強い罪悪感を感じるからといって、神にとって何か違いがあるわけではありません。また、私たちが罪だと気づきさえしなかった罪Zもあります。たった一つの罪でさえ、私たちを罪に定めるには十分だったのです……しかし幸いなことに、私たちの救い主は、私たちのすべての罪のために十字架で死んでくださいました。
罪の告白と悔い改めについて大切なのは、自分の過ちから学ぶことです(何かをやめることが難しい場合には、神からの懲らしめも、そのための助けとなります)。あなたの場合、これはずっと昔のことです。パウロの勧めに従って、「後ろのものを忘れ」(ピリピ3章13節)、前へ進み始めることを強くお勧めします――過去の行いについての罪悪感に心を奪われ続けているなら、前へ進むことはほとんど不可能だからです。
わたしは自分の罪をあなたに知らせ、わたしの咎を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのそむきの罪を主に告白しよう」と。すると、あなたはわたしの罪の咎を赦された。セラ(詩篇32章5節 /NKJV訳)
もしわたしたちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方であるから、わたしたちの罪を赦し、すべての不義からわたしたちを清めてくださる。(第一ヨハネ1章9節 /NIV訳)
イエスにあって、
ボブ・L.
追伸:そして覚えておいてください。私たちは自分の罪を主に告白するのです(詩篇51章4節参照)――ほかの人々がそれを知る必要はありません(そして多くの場合、罪を他人に「打ち明ける」ことは、かえってほかの人々の信仰を弱めることにもなり得ます)。
質問 #7:
ルギンビル先生、
今までお返事できず、申し訳ありません。先生からのお返事にはいつも感謝していますし、それまで見えていなかったことに気づかせてもらっています(すぐには「理解できず」に苦労する時でさえもです)。私はいろいろなことについて考えてきましたが、私の霊的な見方は日々(ゆっくりと)変わってきているように思います(願わくは正しい方向に……それを目指して努力しているのですが、少し時間がかかっています)。今のところ、私の大きな疑問の多くには先生が答えてくださったと思います。あとは、神の真理を自分の心と生活にどのように適用するのが最善なのかを整理していかなければならないところです。
メンタルヘルスや苦しみ、罪悪感などに関する過去のメール投稿の多くは、とても助けになり、慰めにもなっています(覚えておきたい段落や引用文、聖句などは、スマートフォンにスクリーンショットを保存するのが好きです)。
詩篇56篇8節について先生にお尋ねしたいと思っていました。英語訳をいくつか比較しているのですが、どの訳が最も適切なのでしょうか。
私のNIV Rainbow Study Bible(1984年版)では、次のようになっています。
私の嘆きを記録してください。私の涙をあなたの巻物に書き留めてください。それらはあなたの記録にあるのではありませんか。― 詩篇56篇8節 NIV訳
また、ほかに調べたものでは、
あなたは私の苦しみを数えておられます。私の涙をあなたの皮袋に入れてください。それらはあなたの書に記されているのではありませんか。― 詩篇56篇8節 /NASB訳
あなたは私のさすらいを数えておられます。私の涙をあなたの皮袋に入れてください。それらはあなたの書に記されているのではありませんか。― /詩篇56篇8節 ESV訳
あなたは私のさすらいを数えておられます。私の涙をあなたの皮袋に入れてください。それらはあなたの書に記されているのではありませんか。― 詩篇56篇8節 /NKJV訳
この節はどのような意味なのでしょうか。これは主として、神は私たちの悲しみや苦しみを見ておられ、私たちや私たちの置かれている状況をただ無視しておられるのではない、ということを伝えているのでしょうか。「皮袋」と「書」は、概念を表現するための詩的な表現にすぎないのでしょうか。それとも、実際に存在する物なのでしょうか。
先生がお元気で、学期も無事に終わった、あるいは終わりつつあることを願っています! キリストにあって、
返信 #7:
いつもお便りをいただくのは嬉しいことです。
「書」なのか「皮袋」なのかについてですが、ここは「皮袋」で、文字どおりには「ぶどう酒の皮袋」です。次に続く「それらはあなたの書に記されているのではありませんか」という句の影響を受けて、翻訳者たちはこの比喩表現を統一してしまったようです(その必要はないのですが)。
「これは主として、神は私たちの悲しみや苦しみを見ておられ、私たちや私たちの置かれている状況をただ無視しておられるのではない、ということを伝えているのでしょうか」についてですが、そのとおりです。ダビデは、私たちが受けたあらゆる苦しみを神が記録しておられることを私たちに思い起こさせています。そして彼自身は、そのことに基づいて、神に慰めと「行動」を求めています(詩篇25篇18節参照:「わたしの悩みと苦しみを顧み、わたしのすべての罪をおゆるしください」)。このような訴えは、艱難期に事態が激しくなれば、私たち皆にとって十分ありふれたものとなるでしょう(まだそうなっていないとしても)。
彼らは大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ、いつまであなたは、地に住む者たちをさばかず、また、わたしたちの血の復讐をなさらないのですか」(黙示録6章10節 /NIV訳)
授業は終わりました! ここ何か月もの間、後回しになっていた事務的な仕事を片づけています。もうすぐ研究モードに入ります(毎年5月になると、そう言っているのですが(笑))。
あなたもお元気でありますように!
イエスにあって、
ボブ・L
質問 #8:
ルギンビル先生、
「書」なのか「皮袋」なのかについてですが、申し訳ありません、先生のおっしゃる意味がよく分かりませんでした。「皮袋」(ぶどう酒の皮袋)という語だけが本文にあるという意味でしょうか。それとも、「皮袋」と「書」の両方が出てくるのでしょうか。また、これは単なる比喩表現なのでしょうか。それとも、文字どおりの涙が入った実際の皮袋がどこかに存在するのでしょうか。
いつもお時間を割いてくださり、ありがとうございます! 事務仕事と研究が順調に進むことを願っています!
キリストにあって、
返信 #8:
両方の語が出てきます。しかし、いくつかの翻訳は「皮袋の中の涙」というイメージを無視して、比喩表現全体を「書き記す」という一つのイメージに統一してしまっています。ですから……
わたしの嘆きを記録してください。わたしの涙をあなたの巻物に書き留めてください。それらはあなたの記録にあるのではありませんか。― 詩篇56篇8節 /NIV訳
あなたはわたしのさすらいを数えておられます。わたしの涙をあなたの皮袋に入れてください。それらはあなたの書に記されているのではありませんか。― 詩篇56篇8節 /ESV訳
簡潔に言えば、ESV訳のほうが正しく、NIV訳は本文について不必要に自由な訳し方をしています(この節の前半は、ヘブル語では「皮袋」です。「書」が出てくるのは後半だけです)。
イエスにあって、
ボブ・L
質問 #9:
先生、おはようございます。
マタイ12章8節、マルコ2章28節、ルカ6章5節。これらは、イエスが「人の子は安息日の主である」と言われている箇所です。
ふと思ったのですが、これらの節は、千年王国が世界史における安息日であり、キリストがその時代の主であるという事実とも関連しているのでしょうか。
弟子たちが穀物の穂を摘んだことには、その時代に教会に加えられる信者たちと関連する、さらに何か霊的な適用があるのでしょうか。これも今ふと思ったことで、正しいかどうかあまり自信がありません。ここでの主要なポイントは、やはり実際の安息日と、その本来の役割を正しく理解することにあるのだと思います。
いつもありがとうございます。
『SR(サタンの反逆)』はすばらしい学びです。ありがとうございます。
返信 #9:
お便りをいただけて嬉しいです! 温かいお言葉をありがとうございます。
「これらの節は、千年王国が世界史における安息日であり、キリストがその時代の主であるという事実とも関連しているのでしょうか」についてですが、少なくともその考えと矛盾するものではありません。実際、ルカ6章5節には、「人の子は、安息日の主でもある」とあります。言い換えれば、イエス・キリストはすべてのものの主であり、すべてを支配される方です。その日が安息日であったからといって、それによって主の権威が少しでも制限され、ご自分が正しいと判断されたことを行えなくなるようなことはありませんでした――主を非難する者たちが何と言おうともです。
イエスは教会の主であり、今は教会時代です。主は千年王国の間、統治されます。そして現在は、その祝福された日が到来するまで、御父の右の座で待っておられます。
弟子たちについての興味深い考察ですね。安息日であっても、私たちに主のためになすべき働きがあるなら、律法主義的な考えにとらわれることなく、それを行うべきである、という適用をすることは十分にできるでしょう。
イエスにあって、
ボブ・L
質問 #10:
ルギンビル先生、
ご存じのように、私たちは家族で先生の「来たる艱難期」シリーズを学んでいます。現在、第5部で、信者がどのようにして「奥義であるバビロン」から脱出できるかについて学んでいるところです。先生は次のように書いておられます。「イザヤ43章14節は、後にバビロンから逃れる不信者の逃亡者たちについて述べており、少なくとも、この時にも海路による移動が可能であり、それが有力な移動手段となることを示唆しています(ただし、イザヤ21章6節は、さまざまな移動手段が可能であることを示しています)。」イザヤ21章6節が、さまざまな移動手段が可能であることをどのように示しているのか、私にはよく分かりません。むしろ、見張り人に戦車、らくだ、ろばに注意するよう命じている7-9節のほうが、さまざまな移動手段を示しているのではないでしょうか。この点について理解できるよう助けていただけますか。
返信 #10:
「バビロンから逃げよ!」という命令が下されることは明らかです(リンク<リンク先ファイルの43頁-/A4版印刷本「来たる艱難期第5部:ハルマゲドンと再臨」の「バビロンを離れ去れ!」42頁-を参照下さい>)。その命令を受ける信者にとっての実際的な問題は、「では、どうやって?」ということになります。あなたが言及された箇所で私が取り上げようとしたのは、その問題です。もちろん、聖書が書かれた当時にはアメリカ合衆国は存在していませんでしたから、「どうやって?」ということについての考察は、どうしても推測的なものにならざるを得ません。私は、イザヤ43章14節が、バビロンにおいて、またバビロンから出るための海上輸送手段が依然として存在することを示唆しているという点から、それが艱難期にも利用できる可能性の高い手段であると考えました。たとえ技術水準が何千年も後退することになったとしても(私の見立てでは、その可能性は低いと思いますが)、船は依然として存在するでしょう。たとえ帆で動く船であったとしてもです。もう一つの箇所(イザヤ21章6節)も、歴史上のバビロンの滅亡について述べています(そしてそれが「奥義のバビロン」の型となっています)。そこでは、避難民はさまざまな種類の陸上交通手段によって逃れています(あなたが気づかれたとおりです)。ここにはいくつかの可能性が挙げられているので、このことは、ほかの脱出手段も利用できる可能性があることを私には示しているように思われます。それが具体的にどのようなものになるのか(飛行機での移動でしょうか?)、その時が来るまでは分かりません。
ですから、そうです、これは(必然的に)推測です。しかし、確実に言えることは、私たちの主が逃げるようにと命じられる時、逃げる手段も、どうすればよいのかという見当もまったくないまま、私たちを途方に暮れた状態に放置されることはないということです。艱難期には、間違いなく多くの超自然的な出来事が起こるでしょう。聖書はその多くについて私たちに語っています。それらの多くは(不信者にとっては)恐ろしいものとなる可能性がありますが、その一方で、私たちが前もって知らされていない、あらゆる種類の超自然的な方法によって主が私たちに必要なものを備えてくださることも数多くあると、私たちは確信すべきです。
彼がえにしだの木の下に横になって眠っていると、見よ、ひとりの御使が彼にさわって、「起きて食べなさい」と言った。彼が見ると、頭のところに、焼け石で焼いたパン一個と、水のはいったびんがあった。彼は食べ、また飲んで、再び横になった。主の使は再び来て、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くてあなたには耐えられないでしょう」。彼は起きて食べ、また飲み、その食物で力づいて四十日四十夜歩き、神の山ホレブに着いた。(列王記上19章5-8節 /NKJV訳)
ふたりが水から上がると、主の霊が突然ピリポを連れ去ったので、宦官はもう彼を見ることがなかったが、喜びながら旅を続けた。一方、ピリポはアゾトに現れ、町々を巡りながら福音を宣べ伝え、ついにカイザリヤに着いた。(使徒行伝8章39-40節 /NIV訳)
イエスにあって、
ボブ・L
質問 #11:
こんにちは、ボブ。
今週はいかがですか。メール/ウェブサイトのサーバーの問題は、もうすっかり解決したでしょうか。
私は慎重ながらも前進していて、全力で取り組んでいます(少し行き当たりばったりで、少しおそるおそるではありますが、それでも進んでいます!)。家族のことで感じる悲しみが、潮の満ち引きのように私の心に寄せては返していきますが、その後には、主への愛と信頼がしっかりと取って代わり、それを乗り越えさせてくれます。そして、その愛と信頼が再び強くなっているのを感じています!
今、「教会論」のラベル作りをしながら学んでいるのですが、苦しみを受けるメシヤを拒絶したイスラエルの心のかたくなさについての箇所が、非常に当てはまると感じています。私のカトリックの家族も、十字架につまずいているか、それをどう理解してよいのか分からずにいるように強く感じます。十字架は彼らのすべての教会の中心的な場所に掲げられているのに、彼らはその意味をまったく理解していないように見えます。カトリック教会で育ち、二つのカトリック系の学校に通った者として言いますが……教皇制度が教えるイエスは、私たちが主また救い主として知り、愛しているイエス・キリストではありません。彼らは、勝利を得ていないイエスを信じているように見えます。
以前先生は、ローマ・カトリックの儀式や神秘主義は、ユダヤ教の律法主義や神秘主義の延長のように見える、とおっしゃっていました。この学びを通して私が気づいたのは、私の家族が(ほかの多くの人々と同じように)目の欲、肉の欲、そして生活上の誇りに本当に捕らわれているということです。また、彼らは苦しみというものも、それが神のご計画の中で果たす重要な役割も理解していません。世的な意味で成功している人なら「善い人」だと考える一方、苦しみは「悪い人」に対する罰であるといつも考えています。奇妙なことに、これはまさにヒンズー教徒が世界を見る見方でもあり、ダーウィンの進化論における適応と「適者生存」という考え方の基礎でもあります。
彼らには、何の落ち度もないのに受ける苦しみという概念がないので、そもそもなぜイエスが苦しまれたのかを理解することにも苦労しているようです。彼らが苦しみを受け入れる場合には、自分たちの苦しみを、主が十字架上で成し遂げられたことに付け加えることができるという、この冒瀆的な考え方になってしまいます。自分たちは苦しむべきではなく、世的な成功を得るべきだと考えながら、いざ苦しむことになると、それを自己義認の誇示や自己宣伝のために用いるのです。いつも自分、自分、自分なのです。
こうしたことは彼らだけではないと思います。多くのカトリックの人々にも同じようなものが見られるからです。これらは偶然に生じた、ばらばらで奇妙な考え方ではありません。互いに競合し、矛盾さえするこれらすべての偽りを一つにまとめ、それを推し進めている明らかな霊的欺瞞が存在します。貪欲やむさぼりと、放縦な自己卑下の敬虔さを通した奇妙で神秘主義的な自己崇敬とを両立させているカトリックの人々を、私はほかにも知っています。これは結局、昔ながらの修道院的禁欲主義が形を変えて現れているだけなのだと思います。しばらくの間は欲望のままにふるまい、その後、それを埋め合わせるために「わざ」を行うのです。
本当に奇妙なのは、彼らがすべてを別々のものとして区切ってしまい、何一つ互いにつながっていないように見えることです。それは結局のところ、一種の迷信的な恐れとなっていますが、お金や地位(貪欲/むさぼり)に意識を向けている間は、その恐れを無視することができます。彼らは自分たちをクリスチャンだと称し、同時に左翼の社会主義者でもあるとし、貧しい人々などを気遣っていると言います。しかし実際には、苦しんでいる人々を目の前にすると、そこに「人からの称賛」が得られるのでないかぎり、ただ立ち去り、苦しんでいる人々を見下すのです。
今の私にとって最もつらいのはこのことです……彼らは、私がこの世のものをほとんど持っていないのを見て、そのために私を見下しています。彼らには霊的な富というものがまったく分からず、悲しいことに、私がそれについて話すと嘲笑してきました。
結局のところ、すべてを動かしているのは高慢なのだと思います。私の血縁者のどの家系にも、自分自身に対するこの圧倒的な高慢があるように見えます。__は、彼らに共感も思いやりも謙遜もまったくないことに、どれほど驚いているかを何度も私に話しています。そのような人たちが、どうして自分の十字架を負い、私たちの主のように苦しみを受ける僕となることができるのだろう、と私は思います。もしかすると、彼らは最後の最後まで主に立ち返ることを先延ばしにするのかもしれません。しかしもちろん、そうなれば報いは何もないでしょう。このようにして「どちらに転んでも損をしないようにしておこう」とする人が、あまりにも多いように思えます。
彼らの信じていることは、いわば雑多なものを寄せ集めたごちゃ混ぜのようなもので、状況が良い間なら、そのようなものにふけっている余裕もあるのでしょう。しかし、本格的な艱難期の激しい熱の中に置かれた時、それらがどこまで持ちこたえられるのか、いずれ分かるでしょう。
不思議なのは、私はこのような偽善のただ中で育てられたにもかかわらず、ずっとそれを拒み、家族のほかの人たちとは違う道を歩んできたことです。そして感謝すべきことに、その道が最終的に私を主のもとへと導いてくれました。
敵が彼らを私に対する武器として利用してきたことは分かっていますが、それでも私は彼らを赦していますし、実際に彼らを愛し、彼らのために祈っています……以前と比べれば、このことについて私ははるかに良い状態にあります。それでもまだ心が痛むことはありますが、そのことについても平安があります。
このメールで彼らをけなしたり、意地悪なことを言ったりしようとしているのではありません。ただ、彼らが物事をどのように考え、どのように反応するのかを理解しようとしているのです。しかし、もしかするとそれは、罪と偽りの教えと霊的な欺瞞全般が入り混じった、筋の通らない混合物にすぎないのかもしれません。私たちもかつては皆その中にどっぷりとはまり込んでいましたが、今では幸いにも、そこから永遠に救い出されているのです! アーメン!
イエスにあるあなたの友より
返信 #11:
保険の件でちょっとした問題が起きています。全損になった車両の査定方法を変更するケンタッキー州の新しい法律ができたためです。それが施行されたのはつい先月のことで、普段なら非常にしっかりしている私の保険会社も、どうやら対応を誤ってしまったようです。こちらが不当に低い金額で済まされないことを願っています。それに加えて、副委員長としての仕事にすっかり埋もれてしまっています(今日は休むはずだったのに、それに何時間も費やしました)。事故の疲れがまだ残っていて、少し身体も痛んでいるというのに、仕事が次から次へとやって来ます。少なくとも明日は金曜日です!
サーバーの状況については、前にもお話ししたように、向こうは修復したと言っています……そして、あなたのメッセージも今回は一度目でちゃんと届きましたよね?
ローマ・カトリックの見方について、とてもよく分析されています。プロテスタントの中にも、それと大して変わらない人たちが大勢いると思います。いずれにしても、キリスト教の中にキリストを見いだせないというこの問題こそ、獣が世界中のいわゆるキリスト教諸団体の中に自ら入り込み、それらを取り込むために利用する突破口となるでしょう。大部分は、すでに簡単に取り込まれてしまう状態にあるように見えます。「反キリストの宗教」についてのリンクは、こちらのリンク先を参照してください。
<リンク内容:>
「反キリストの新しい宗教の特徴」<リンク先ファイルの55頁-を参照下さい/ あるいはA5版印刷本「来たる艱難期第4部:大艱難期」の「新宗教の特徴」116頁-を参照下さい>
「艱難期における反キリストの宗教」の「偽りの敬虔さ」<リンク先ファイルの62頁-を参照下さい/ あるいはA5版印刷本「来たる艱難期第4部:大艱難期」の132頁-を参照下さい>
「反キリストの反キリスト教的宗教とその世界的拡大」<リンク先ファイルの44頁-/あるいはA5版印刷本「来たる艱難期第四部」の91頁-を参照下さい>
「艱難期の偽宗教の説得力」<リンク先ファイルの134頁-/A5版印刷本「来たる艱難期第3部A:艱難期の始まり」の134頁-を参照下さい>
「偽預言者による反キリストの偽宗教の運営」<リンク先ファイルの60頁-/あるいはA5版印刷本「来たる艱難期第4部:大艱難期」の129頁-を参照下さい>
友よ、あなたとその状況のことを、毎日の祈りの中で覚えています。
イエスにあって、
ボブ・L
質問 #12:
ルギンビル先生、
Ichthysでの先生の多大な働きに感謝します。私は2015年から読み続けており、特に先生の「終末論に関する諸問題」のメールを楽しみにしています。今週、先生が次のように書いておられるのに気づきました。
「とても興味深いですね。個人的には、現在の情勢だけをもとにあえて判断するなら、この秋に始まるということには、かなり疑問を持つでしょう。おっしゃるとおり、中東では情勢が混乱していますし、こちらでも相当に『おかしな』ことが起きているのは分かっています。また、テクノロジーの分野でも非常に恐ろしいことが起きています。しかし、AIはまだ世界を支配できるほどにはなっていません。私はAIにテミストクレスについての参考文献をいくつか尋ねたのですが、書名、著者(実在するギリシア史の研究者)、出版社、出版年まで挙げて一冊の本を紹介してきました――ところが、その本は実在しなかったのです! そのことを『指摘』すると、AIは謝罪して、自分は『幻覚を起こしていた』と言いました(笑)! そして、中東情勢がどれほど悪化しているとしても、現時点では汎イスラム運動が起こりつつあるようには見えません(実際にはむしろその逆です)。また、反キリストを世界支配へと押し上げるために必要な力とカリスマ性を備えた宗教的/政治的運動も、今のところ見当たりません。」
メールへの回答がなされてからウェブサイトに掲載されるまでには時間差があることは承知しています。しかし、先生も興味を持たれるのではないかと思ったのですが、トルコ、サウジアラビア、パキスタンがちょうど「メッカ共同防衛協定」に署名したところです。先生がおっしゃっている「汎イスラム運動」は、まさに時を合わせるかのように形成され始めているように見えます。さらに、アメリカ合衆国の債務が40兆ドルを超えたことも、40という数字が聖書において持つ意味を考えると、非常に示唆的です。統一された台帳に基づく新しいデジタル金融システムに必要な条件が整いつつあるように確かに思えます。しかし、現時点で最も目を引く確証と思われるのは、干上がりつつあるユーフラテス川がギリシヤ文字のオメガの形を作っていることです。アルファでありオメガである方が、すべてが始まった場所から終わりを知らせておられるのです。私は以前から先生の時系列は正確だと思ってきましたし、もし実際に秋の祭りの時期に始まることになるのであれば、今年のプリムの祭りに起こる「血の月」は特にふさわしいものとなるでしょう。改めて、先生のすべての働きに感謝します。
キリストにある兄弟より、
返信 #12:
友よ、お便りをいただけて嬉しいです。
「メッカ共同防衛協定」についての情報をありがとうございます。このことについては何か耳にしていましたが、詳しいことは知りませんでした。これは始まりとなるのかもしれません。何事にも始まりはあります。私がいつも言っているように、たとえ艱難期が始まる前にはその兆候が何もなかったとしても、その七年間には出来事が非常な速さで進展すること、また聖霊による抑制の働きが取り除かれること(リンク)によって、預言されていることはすべて実現します。たとえそれが、一見すると何もないところから突然現れなければならないとしてもです。
これまでほかの方々にもお話しし、何度も掲載してきたように、通貨やその他の取引のデジタル化が、現在私たちが目にしているほかの技術的な「進歩」(ほかに適当な言葉がないのでこう呼びますが)以上に、私たちの考えていることにとって特別な意味を持つということについて、私はそれほど楽観的には考えていません。これらすべてを合わせて考えれば、「こんな状態がいったいあとどれだけ続けられるのか!?」という議論の材料にはなります。しかし、それでも決定的なものではありません。たとえて言えば、患者の容体があまりにも悪く、朝まで生き延びられるとは誰も思わなかったのに……その後も衰弱した状態のまま何年も生き続けた、ということは数多くあります。今日の世界についても、同じことがあり得ます。
ユーフラテス川についての報告や、今度の「血の月」については、私はそれほど確信を持っていません。それは、前者<ユーフラテス川>についての聖書の記述はハルマゲドンに関係するものなので、その出来事は七年間の非常に遅い時期に起こることになるからです。一方、後者<「血の月」>についての記述(すなわち、ヨエル2章31節、使徒行伝2章20節、黙示録6章12節)も同様に、艱難期に先立つ前兆ではなく、艱難期の終わりにおける主の再臨に先立つしるしです。また、私たち(天文学者)が「血の月」と呼んでいるものは、おそらく聖書に描写されているものとはまったく異なるという点もあります。
いずれ、ほどなく分かるでしょう! ですから、私たちは皆、いつでも備えておき……そして備え続ける必要があります。
イエスにあって、
ボブ・L
質問 #13:
こんにちは、ボブ。
祈りのリクエストを更新してくださること、あらかじめ感謝します!
添付した、届かなかったメールの受信通知に記されていた正確な文面はこちらです。
あなたも大変な時期を過ごしているとのこと、残念に思います。どうかしっかり休んで、睡眠を削らないでください。私はここ数日、学びの勢いをつけようと一生懸命取り組んできましたが、健康上の症状に個人的な苦闘まで重なって、今日はとうとう限界に達し、一日中ベッドで休まざるを得ませんでした。
時々いつも以上に休まなければならなくなっても、心配しないでください。私は以前、「頑張りすぎては倒れる」ということを何度も繰り返してきました(ある日は無理をして自分をひどく酷使し、その結果、別の日には疲れ果てて何もできなくなるのです)。ですから、もうそろそろ「ゆっくり着実に進む者が最後には勝つ」ということを分かっていてもよいはずです。
艱難期が今にも始まるかもしれないと思うと、私たち二人とも、何段階かギアを上げてもっと頑張りたくなるのかもしれません。しかし、私たちは二人とも、自分自身の人生において重大な危機/個人的な艱難を経験してきました。それは普通の人なら、そのために倒れて長い療養生活に入ったり、あるいはその衝撃から何年も何年もそのことを語り続けたりするような種類のものです。
確かに、私たち二人には聖霊がおられ、「若者も疲れ」るような時でさえ歩み続けることができます。しかし、全速力で前進する前に、この歩みにはまずバランスを取らなければならない部分が非常にたくさんあります。私自身、まだそのバランスを見つけられていないので、ここではむしろ自分自身に言い聞かせているのですが。
私たちの歩みは、成長すること、試されること、練られること、待つこと、実を結ぶこと、学ぶこと、黙想すること、戦うこと、そして主にあって休むことが入り混じったものなのです!
パウロが悟ったことを思い出してください。神の恵みは十分なのです! 私たちがうまく進めず、疲れ果てていると感じる時にはいつでも、自分の疲れ、弱さ、弱ったところを誇ることができると分かっています。なぜなら、
「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(第二コリント12章9-10節)
私は以前にも、このようなところを通ったことがあります。ある一日に、自分が目標としていた霊的なことや生活上のことを成し遂げられなかったと苛立ちを感じる時には、代わりに静かなひとときを取って主に思いを向け、主に祈り、これまで主について学び、理解してきたすべてのことを黙想することができます。そして、今なお頂上のゴールを目指して登り続けているシオンの岩山から景色を眺め、これまでの旅路の中で、主が私を導き、助け、時には空から引き上げるかのようにして、困難を越え、さらに上へと運んでくださった、そのすべての道のりを振り返ることができます。
以前、私はあなたに、頂上を目指して登ってきた道をあえて振り返ろうとはしない、と言ったことがあります。ただ信仰だけによってここまで来たのだと思うと、恐ろしくなって足元がふらつきそうだったからです! しかし今では、もしかすると以前より成長したからでしょうか、この旅路のどこまで来たのかを振り返ったからといって、転げ落ちることはないと分かっています……確かに今でも、その目もくらむような高さには息をのみます! しかし今では、最初のおぼつかない赤ん坊のような一歩を踏み出して以来、主が私をシオンの山のここまで引き上げてくださったことを心から喜び、畏敬の念をもって驚嘆することができます。
結局、すべては主のものであり、主に属するものであり、すべては主の栄光のためなのです。主は、私たちがいつ、どの一歩を踏み出すのか、そのすべてを知っておられ、その一歩一歩に共にいてくださいます。天候が変わった時も、尾根を滑り落ちた時も、夜が来て怖くなった時も、もうこれ以上登れないのではないかと自信を失った時も、主は私と共にいてくださいました。そのすべてにおいて主はそこにいてくださったのです。そして、世界中の人々もそれを望みさえするなら、主は彼らすべてのためにも共にいてくださることを望み、またそうすることがおできになるのです!
確かに、私たちは怠けていてはならず、主は私たちすべてに実を求めておられます。しかし私が分かったのは、自分が望んでいたようには前進できず、少し待たなければならない時を有効に用いるなら、かえってより良い実を結ぶことができるということです。そのような時間に、主が私をどこまで導いてくださったのかを驚嘆し、そのことについて主をほめたたえ、主に栄光を帰すなら、その時間は決して無駄にはなりません。そうすれば、再び上を見上げ、新たな希望と喜びと力をもって登り続けることができます。何があろうとも、主がさらに高く、さらに高く登れるよう助けてくださると知って、心に励ましを受けながら。
ここで私たちは救いを獲得しようとしているのではないということを覚えておくのは大切です。そして、私たちの救いは、いつ失うかとびくびくし続けなければならないような救いではなく、私たちの信仰が確かであるかぎり、確かな救いなのです。主は「すべてが終った」と言われました。そして、まさにそのとおりなのです! しかし、私たちが今していることは、自分たちの信仰を試して確かなものとし、さらに成長させること、そして主に栄光を帰す報いを積み重ねながら、同時に兄弟姉妹たちも成長し、ゴールまで登っていけるよう助けることなのです。
これを書く前、私は自分の歩みについてどう感じるかを自分の感情に左右させていました。しかし本当は、すべては信仰の問題であり、主は真実な方で、110パーセント信頼し、頼ることのできる方だと知ることなのです。そして、それだけが重要なのです。私たちは主の僕なのですから、本当にすべては主についてのことなのです。これを書いたことで、私自身が霊的に励まされました。こうして書く機会をくださって、ありがとうございます! 鉄は鉄を研ぐのです!
友よ、これがあなたにとっても霊的な励ましとなりますように!
へブル10章35-37節
だから、あなたがたは自分の確信を投げ捨ててはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神のみこころを行った後、約束のものを受けるために、あなたがたには忍耐が必要なのである。「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」。
ねえ、ボブ、艱難期があと一、二か月で始まるにしても、あるいはさらに七年待つことになるにしても、私はそのすべてを喜びと思うように努めます。あなたが初めて、さらに七年後になるかもしれないと言った時、「艱難期前携挙」を信じる人たちとは違って……私は別の理由から(待つ期間が長くなることのために)落胆しました。しかし今では気持ちを立て直し、それを受け入れました! それがごく間近であろうと、さらに数年先であろうと、力のある時には畑で働き、弱っている時には賛美の歌を歌いながら、喜びをもって戦い続けるために最善を尽くします。
エノクが神に喜ばれたので、取り去られたことを私は知っています(創世記5章24節/へブル11章5節)。疑いなくエノクは、何があっても神を愛し、信頼し、仕えていたのでしょう(そして、約束された贖い主を信頼していました)。そして彼の信仰は強く、揺るぎないものでした。結局、本当に大切なのはそのことであり、また、何が降りかかろうとも、ほかの人々も同じような信仰を持つよう励ますことなのです。
アーメン!
今週がもっと良い一週間になりますように!
毎日あなたのために祈っています!
イエスにあるあなたの友より、
返信 #13:
祈りのリクエストの更新を掲載しました。
メールの配信失敗通知の情報を送ってくださり、ありがとうございます。とても役に立ちました。エラーの情報を私のホスティング会社に転送したところ、問題を特定することができ、修正したとのことです。ですから、もしまたこのようなことが起きたら、ぜひ知らせてください。どうやらGmailとYahooメールがIchthysを信頼できるものかどうか判断できなかったため、そもそもメッセージが私のところまで届くことを許可していなかったようです。この種のことは何年も前にほかのサービスでも起きたことがあり、その時には対処法がありましたが、今回はGmailとYahooのためにそれを更新する必要があったようです。問題の一因は、私のホスティング会社が最大手のドメイン名登録会社に買収され、この一年ほど、移行と統合作業がすんなりとはいかない状態で進められてきたことだと思います。昨日も、ウェブサイトにいくつかのものをアップロードしようとして問題が起きました。FTPの設定を変更していたからです……しかも、事前に私には何の知らせもありませんでした。
そうですね、こちらも大変な時期ですが、昨日の授業は以前よりうまくいきました。事故の後の具合も、少しずつ良くなってきています。私たちの建物の改修工事ではいろいろと問題が続いていますが、ようやく正しいコンピューターを手に入れました(結局、それまでの二台はどちらも正しいものではなかったことが分かりました)。そして今では、ほぼセットアップを終えることができました――ただし、今日は全部片づけるために、そこに予定より数時間余計にいることになりました。しかし今のところ、たまっていた仕事には追いついたので、それは何よりです。木曜日には予定が何も入っていないので、明日の「勤務終了」を楽しみにしています。本格的な嵐が始まる前の、このわずかな休息の時を最大限に利用するつもりです。
励ましのメールをありがとうございます! これは確かに私にとって霊的な励ましになりましたし、友よ、ほかの人たちにとってもそうなると分かっています。
あなたのことを毎日の祈りの中で覚えています。
イエスにあって、
ボブ・L
質問 #14:
先生へ、
先生に見ていただき、できれば掲載していただけそうなものを書きました。
イエスにある先生の生徒より、
艱難期の日付を心配することについて
(45)「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物を与えさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。(46) 主人が帰ってきたとき、そのようにしているのを見られる僕は、さいわいである。(マタイ24章45-46節 /NKJV訳)
艱難期が始まる時期についての知識は、私たちの生活を混乱させたり、何らかの形で自分の務めを怠らせたりするために与えられているのではありません。それはただ、目を覚ましている者たちが、主人の帰還に備えて自分の務めを果たすため、さらにいっそう努力するよう励ますためのものです。なぜなら、艱難期の始まりとは、私たちの神の再臨までの七年間のカウントダウンが始まることにほかならないからです。
私たちは、自分の生活を混乱させたり、普段とは違う異常な選択をしたり、あるいは、艱難期がどのように展開していくのか、その詳細が分からないために、またこの期間に起こると思われる激変を恐れるために、身動きが取れなくなり、いわばパニック状態やただ待つだけの状態に入ったりするよう召されているのではありません。むしろ私たちは、これまで以上に自制し、集中して自分の務めを果たすように、あるいは少なくとも、主人が帰って来られる時に、自分の務めに取り組んでいるところを見ていただけるように召されているのです。
艱難期は、夜の最も暗い部分ではあっても、依然として人類の歴史の一部です。霊的にどのような変化が起ころうとも、生活の大部分はこれまでと同じように続いていくでしょう。一つには、私たちはこれまでと同じように、生計を立てていかなければなりません。たとえば、経済の仕組みが信者を締め出すように作られるようになったとしても、史上最も恐ろしく広範囲に及ぶ信者への迫害が始まってから三年後、私たちの主が再臨されるその時にも、信者たちがなお経済活動を行っていることを聖書は明らかにしています。また、この世界に教会時代の信者が存在するかぎり、霊的な奉仕も続いていきます。家庭生活も続きます。人々は旅も続けるでしょう。
これには理由があります。人類が完全に滅ぼされでもしないかぎり、人間の生活を、そのあらゆる営みも含めて消し去ることはできません。これは神が定められたことであり、サタンにも変えることはできません。経済活動は、その性質上、共同で行われるものです。人間の生活を維持するために必要なすべてのことを一人の人間が行うことはできません。ですから、人類が生き残るためには、人々は互いの技能や生産物を交換しなければなりません。そして人間の生存本能は非常に強く、大きな激変の時には、むしろ特に強くなることさえあります(この事実によって、イエスが、このような恐ろしい時代にも、人々はなお、めとったり、とついだり、食べたり、飲んだり、買ったり、売ったり、植えたり、建てたりすると言われた理由が説明できます〔マタイ24章37-42節、ルカ17章26-37節〕。つまり、人々はこれまでと同じように生活を続けるということです)。不信者たちは、自分たちが生きているこの時代に特別なことなど何もないかのように、これらのことを行うでしょう。そして実際、いくつかの重要な点では物事が変化します(たとえば、世界統一政府や、政府によって強制される住民の混合などです)。しかし私たちも、私たちの神がまもなく戻って来られることを認識しながら、同じように生活を続けるでしょう。そして、人間がこれまで当然のものとしてきたある種のものを、もはや自分たちのためには期待できなくなったとしても、それでよいのです(たとえば、何の犯罪も犯していない市民としての自由などです)。
主が黙示録や艱難期についての知識を私たちに与えられたのは、私たちの手を弱らせ、足元をおぼつかなくさせるためではありません。まったくその逆です。それは私たちを強め、励まし、私たちの王の永遠の御前に入る前の最後の戦いに備えさせるためなのです。私たちには、そのためにそれを用いる権利があります。聖書に与えられているあらゆる情報を、この世における戦いのために自分自身を強めるために用いる権利があります。艱難期がほんの数週間後にも始まり得ると知ることは、混乱して身動きが取れなくなる理由ではなく、むしろその正反対です。サタンが私たちに仕掛けてくる可能性のあることは、すべて私たちに知らされています。彼が行うことも、すべて私たちに知らされています。彼の限界も、私たちにはよく分かっています。私たちは、敵の計画、戦力、そして越えることのできない限界について、すべてを知っている精鋭部隊の兵士なのです。これは信じられないほど恵まれた立場です。このことは、私たち自身が計画を立て、それを実行するうえで、大きな励みとなるはずです。敵は強大かもしれません。しかし私たちは全能の神の陣営にいるのです。それなら、敵の力など、私たちの神の比類なき力を示す機会以上の何だというのでしょうか。
サタンでさえ――そのすべての力をもってしても――人間の生活の仕組みそのものを変えることはできないのですから、自分自身と扶養すべき人々のために十分な備えをする計画を続け、教会に対する霊的な奉仕を整えて維持し、イエス・キリストについての知識をさらに深めることを追い求め、主のために地域社会の中で意味ある役割を担い、そのほかあらゆる点で、主に喜ばれ、また祝福を受けることを選ぶすべての人にとって祝福となる生活を送ることこそ、進むべき正しい道なのです。
恐れるものは何もありません。ハナニヤ、アザリヤ、ミシャエルと同じように、私たちは、神ご自身が定められたことだけが実現すると知っています。私たちの主が十字架につけられた時、ユダヤ人やローマ人のなすがままではなかったのと同じように、私たちもこの世や反キリストやサタンのなすがままではありません。彼らが主に対して持っていた権力が上から与えられたものであったように、この世とその支配者たちが私たちに対して振るうことのできるどのような権力も、上から来るものです。彼らは、私たちの神ご自身が命じられた以上のことを私たちにすることはできません……そして、それさえも、私たちのこの世における益と永遠の益のためなのです。彼らは、たとえそうしたいと思っても、それ以下のことさえできません。なぜなら、彼らは神のみこころを実現するための道具だからです。彼らが行うことはすべて、神が何ものをも創造される以前に定められていました。人の子が裏切られないということは決してあり得ず、問題はただ、だれが進んでその役を担うのかということだけであったのと同じように、私たち教会もまた、夫である主を迎えるために、艱難期の火を通して試され、備えられなければなりません。そして問題となるのは、だれが進んでそのための道具となるのかということだけです(もっとも、それは主なる神にとっては何の疑問でもありません)。私たちは試されますが、滅ぼされることはありません。私たちを試すために用いられる者たちのほうが滅ぼされるのです。彼らのほうこそ、私たちよりはるかに艱難期を恐れる理由があるのです。
ですから、私たちには、混乱したり、恐れたり、身動きが取れなくなったりすることなく、自分たちの生活を続けていくために励まされる十分な理由があります。なぜなら、艱難期は私たちに敵対するものではなく、私たちのためのものだからです。すべての信者は、何か重大なことが変わったわけではないかのように生活を続けるのが賢明でしょう。なぜなら、そもそも私たちは常に、主がいつ戻って来られてもよいように生活しているべきだったからです。
[こちらに、私たちの友人によるすべての投稿へのリンクがあります]
返信 #14:
これはすばらしいですね!
まさに、そのとおりです。
イエスは答えられた、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。それだから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」。(ヨハネ19章11節 /NKJV訳)
近いうちに掲載します。
イエスにあって、
ボブ・L
質問 #15:
こんにちは、ボブ先生。
普段使っているYahooメールのアカウントで、どうしても原因が分からない問題が起きています。この一、二か月の間に何度か先生にメールを送れるか試してみたのですが、いつも配信失敗の通知が返ってきます。
それで今ふと、ほとんど使ったことはないもののアカウントだけは持っているGmailから送ってみようと思いつきました。
とにかく、これが届くことを願っています!
以前からお尋ねしようとしていた質問の一つは、七つの教会についてです。「来たる艱難期」で先生がそれぞれの教会について書かれたことを読んでいくと、やがて宗教改革に至るまで、教会への侵入がますます進んでいきます。先生ははっきりそうおっしゃってはいませんが、これは特にローマ・カトリック教会こそが問題だった、ということのように私には思えるのですが、どうでしょうか。おそらく正教会系の宗教もそうなのでしょうか。七つの教会への手紙に描かれている教会の衰退について、そのどれほどの部分がローマ・カトリック教会に起因するものと考えられるのか、ということが知りたいのです。
先生がお元気であることを願っています。
私たちのすばらしい主にあって、
(ミシガン州北部より)
返信 #15:
これは驚きました! メールが届かず苦労されていたとのこと、申し訳ありません。今月、このことを知らせてくださったのはあなたで三人目です。単なる偶然なのか、それとも何か別のことが起きているのか、私には分かりません。時々、私のサーバーにアクセスできなくなることがありますが、通常はかなり早く修復してくれます。ただし、サーバーが停止している時にあなたのメールがそこへ届こうとすれば、おそらく送り返されてしまうでしょう。ほかの二人はGmailのアカウントでしたが、これまでGmailで問題が起きたことはありませんでした。もし私から一、二日以内に返事がなければ、何らかの理由で私にメッセージが届いていない可能性が高いので、「届きましたか?」というメールを送ってみる価値があります。[注:現在は修復されたようです。前の質疑応答を参照してください]
教会への侵入についてですが、歴史的に見れば、そうです、ヨーロッパでは、それが問題の主な原因でした。しかし、本当の問題は悪しき者です。彼は、自分の目的を推し進めるために役立つなら、どのような人間や組織を利用することにも何のためらいもありません。艱難期には、反キリストの宗教、すなわち、ほかのすべての宗教を取り込みながら(本物のキリスト教だけは除外して)、キリスト教を装う偽りの宗教が、世界中のほぼすべての組織宗教を利用することになると思われます。[これについての主要なリンクはこちらです]。
<リンク内容:>
「反キリストの新しい宗教の特徴」<リンク先ファイルの55頁-を参照下さい/ あるいはA5版印刷本「来たる艱難期第4部:大艱難期」の「新宗教の特徴」116頁-を参照下さい>
「艱難期における反キリストの宗教」の「偽りの敬虔さ」<リンク先ファイルの62頁-を参照下さい/ あるいはA5版印刷本「来たる艱難期第4部:大艱難期」の132頁-を参照下さい>
「反キリストの反キリスト教的宗教とその世界的拡大」<リンク先ファイルの44頁-/あるいはA5版印刷本「来たる艱難期第四部」の91頁-を参照下さい>
「艱難期の偽宗教の説得力」<リンク先ファイルの134頁-/A5版印刷本「来たる艱難期第3部A:艱難期の始まり」の134頁-を参照下さい>
「偽預言者による反キリストの偽宗教の運営」<リンク先ファイルの60頁-/あるいはA5版印刷本「来たる艱難期第4部:大艱難期」の129頁-を参照下さい>
事故の後はずいぶん良くなりました。ありがとうございます! いろいろなことがあったにもかかわらず、主が先週を乗り越えさせてくださり、この週末には十分に休むこともできました。ですから、今週は「準備万端」でいけるはずです……無理をしすぎないかぎりは。
イエスにあって、
ボブ・L
質問 #16:
こんにちは。
先生がお元気で、授業のない夏休みを楽しんでおられることを願っています。
励みになるお返事をありがとうございました。そして、はい、どうぞ掲載してください。先生とこうしてやり取りする機会をいただけることを感謝しています。
__は無事にカンボジアに着きました。プノンペンに到着し、カルバリー・チャペルの礼拝に出席して(メッセージはコロサイ1章の前半についてだったそうです)、その後、6時間のバスに乗ってシェムリアップへ向かいました。主のみこころなら、最初の一週間はそこで過ごす予定です。彼が進んで私たちと連絡を取り、旅先での出来事を話したり、写真を送ったりしてくれることを、とてもありがたく思っています。私たちは彼のために、また無事に帰って来られるよう祈っています。
次にお話しするテーマは、「教会」、個人的な奉仕、そして日々の生活ということになると思います。自分の人生全体を、文章や15分の電話でほかの人に伝えるというのは難しいものです。一人一人に、それまでの人生の歴史、経験、教えられてきたこと、理解、背景があります。ですから、どのように話が進むか見てみましょう。
これまでの背景を少し(箇条書き/要点で)――
私の両親、私と兄弟、夫の両親、夫とその兄弟姉妹は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会に通っていました。主を思う心を持ち、自分たちの子供や孫たちをキリストへと導いてくれる両親と義理の両親に恵まれたことを感謝しています。
父は30代になってから真剣に聖書を読むようになりました。ある日曜学校の授業で、父はクラスの人たちに、「自分の教会に満足しているなら、聖書を読まないほうがいい」と言いました。父が言いたかったのは、実際に聖書を読めば読むほど、「教会」の教理や信条などのすべてが、神のみことばが実際に教えていることと一致しているわけではないと分かってくる、ということでした。それで長年にわたり、私たちは自分たちの信仰/見方/理解を、聖書が実際に教えていることに一致させるよう努めてきました。
私たちは何年間か家庭で教会を持ち、その間、一度に聖書の一章ずつを通して読んでいました。話し合いをし、パウロと私は特定の問題について先生のサイトが何と言っているかを調べました。また、ある箇所が何を言っているのか、自分たちには本当のところよく分かっていないことにも気づくようになりました。私たちは皆、勝手なことを作り上げるのではなく、本当に真理を知りたいと心から願ってきました。しかし、自分たちだけで理解できることには限界があります。
[省略]……そして私は[この教会]に通い始めました。とにかく、彼らは自分たちを無教派だと言っています……。
――神のみことば全体を通して教える、内容のしっかりした良い教えが不足していることに気づいています。自分の教会やその教理/教えにあまりにも強く結びついてしまうと、神のみことばが実際に何と言っているのかが見えなくなる危険があります。
――メッセージを聞いていると、その時々で次のようなことを考えている自分に気づきます。
a. この点は考えさせられる。自分自身を吟味し、このことについて祈り、神のみことばに戻って調べる必要がある、など。
b. 何を言おうとしているのかは分かると思うけれど、別の言い方をしたほうがよい。
c. この点は単純に間違っている、あるいは単なる推測にすぎない。
d. 私はなぜここにいるのだろう。
1. 霊的成長という点では、先生のシリーズやメールを読んでいるほうが、より多くの益を受けています。教会のメッセージからも、時には良いことを思い起こさせてもらいますし、そこで得ている交わりの一部も楽しんでいます。しかし時には、一時間そこに座って、それから家に帰るだけというのは、少し意味がないように思えることがあります。私が信者の集まりに本当に求めているものが欠けているように思います。私たちは皆、成長し、互いに励まし合い、神が自分たちの人生で何をしておられるのか、何を教えてくださっているのかを分かち合い、みことばをもっと深く学んでいくべきです。私自身も、もっと一貫してそうしていく必要があります。
2. 確かに、私たちには健全でしっかりした良い教えが必要だと思います(そのような教えを持つ教会はほとんどありませんが)。しかし、本当の信者たちが地域教会に通わないとしたら(良いクリスチャンであるためには地域教会を見つけてそこに加わらなければならない、と言っているのでは決してありません)、私たちはどのようにして自分の霊的賜物を用い、個人的な奉仕を行い、主にある兄弟姉妹にとって祝福となり、助けとなることができるのでしょうか。
3. 私の日々/一週間は次のように過ぎています――融通の利く二つのパートタイムの仕事、家のことをこなすこと、時々友人や家族を訪ねること、子供たちがそれぞれの仕事/責任/目標に取り組む合間に彼らと関わること。もう夫と一緒に何かをすることはできません(夫が神と共にいることは嬉しいのですが、時々、自分のことを思うと少し寂しくなります)。そして聖書と先生の学びを読むこと、それから(正直に言えば)多少、時間を無駄にするようなこともしています。
4. 自分の個人的な奉仕が何なのか、分かっているのかどうかさえ自信がありません。そして、たとえ分かったとしても、「教会」に行くのをやめて「人と会わなく」なったら(これは少し大げさな言い方ですが)、どうやってその奉仕を行えばよいのでしょうか。とはいえ、実際のところ、先ほど挙げた少数の人たち以外とは、今でもそれほどつながりを持っているわけではありません。その教会のさまざまなプログラムや活動に参加すれば、当然、同じ活動に参加している人たちと過ごす時間は増えるでしょう。ただ、私はそのようなことには関心がなく、また、そうするよう召されているとも感じません。それに、この教会が行っていることのすべてに同意しているわけではないので、支持できないこともあります。
5. 子供たちが成長した今、時々、自分が少し道を見失ったように感じ、神はこれから私に何をさせようとしておられるのだろう、と考えることがあります。日々の責任以外に、神は私に何のために時間を使うことを望んでおられるのでしょうか。私はほかの人たちとどのように関わっていけばよいのでしょうか。
6. 来たる艱難期に備えるために、私たちはさらに何ができるでしょうか。
もう十分長くなってきたと思いますので、ここでやめておきます。話があちこちに飛んでいるようでしたら、すみません。
ありがとうございます。
返信 #16:
どういたしまして。
__については良い知らせですね! 私も彼が無事に帰って来られるよう祈ります。
「自分の教会に満足しているなら、聖書を読まないほうがいい」についてですが、これはいいですね! 実際、これはローマ・カトリック教会の立場でもあります。ただし、彼らの場合は皮肉ではなく、本気でそういう意味なのですが。
また、「教会に行くこと」についてのあなたのa/b/c/dの分析も、とても気に入りました。それは私自身の分析とも、また長年にわたって私がやり取りしてきた多くの信者たち――真理を通して主とのより親密な関係を持つことに真剣になった人たち――の分析ともよく似ています。一つだけ抜けているのは、現実がようやくはっきり見えてきた後も「それでも通い続ける」時に、よく経験する「吐き気」です。
1)「思い起こさせてもらうこと」について。どこかの地域教会の日曜日の説教で、良いことが何一つ語られたり指摘されたりすることはない、と言っている人はいません。問題は、どんなに良いことが語られても、a)たいてい権威をもって語られてはいない(それでは、それは真実なのか、そうでないのか?)、b)たいてい泥の中に金の粒が一つあるようなもの(外典についてのヒエロニムスの言葉を言い換えれば)、そして c)それ以外に、心を乱すことや明らかに間違っていることがあまりにも多いため、わずかな良いものを得るために貴重な時間と労力を費やすことが問題になってくる、ということです。もちろん、教会にいつも通うことに伴う、そのほかのあらゆる否定的な影響も加わります(これについては後でもっと述べます)。
交わりの問題についてのあなたの批評も鋭いものです。教会への出席/所属を正当化する理由として交わりを挙げる人たちは、自分たちの教会で得られるその交わりが、VFW(海外戦争退役軍人会)や「レッド・ハット」、キワニス、地元の園芸クラブなどで得られる交わりよりも優れていることを示す必要があります。そこに霊的な要素があまりないのであれば、答えはおのずから明らかです。そしてあなたの分析が示唆しているように、出席している信者たちが成長できるほど十分な深さでみことばが教えられていない場所で、どうして豊かな霊的要素があり得るでしょうか。そして、信者が成長していなければ、私たち皆が本当に成熟した信者から得たいと願っているような、意味のある交わりや励ましを与えることもできないのではないでしょうか。
この点を「思い起こさせてもらうこと」に戻って締めくくると、私が観察してきたところでは、本当に成熟した信者が何らかの理由でたまたま教会の礼拝に出席すると、通常の出席者たちよりもはるかに多くのものをそこから得ることがあります。それは、語られた「良い」ことに、自分がすでに知り、信じ、それに従って生きている真理を「付け加え、さらに広げて」考えるからであり、平凡な内容からさえ「良いもの」を生み出すことがしばしばあるからです。しかし、それを長く続けることはできません。私たちは人間ですから、最も低い共通水準へと下がっていく傾向があるからです。平凡な教会は、時間がたつにつれて、成熟した信者をその教会の平凡な水準まで引き下げていく傾向があります――もちろん、その人が、成熟がすり減ってなくなるまで「吐き気」に耐え続けることができれば、の話ですが。
2)「本当の信者たちが地域教会に通わないとしたら、私たちはどのようにして自分の霊的賜物を用いるのでしょうか」について。これを問題だと仮定するとしても(実際には、これは単に一つの課題にすぎません)、その解決策は自分の霊的水準を下げることではありませんし、真に成熟した信者なら、そのようなことを進んでするはずもありません。ですから、通常どうなるかというと、その信者は真理を通して教会の人々を「助け」ようとし、真理を分かち合い、何らかの教える働きを持っているさまざまなグループに真理を教えてもらおうとし、熱心に真理を証ししようとします。その結果、ほとんど必ず次の二つのうちどちらかが起こります。a)内戦(古くからいる人たちと、正しいやり方を確信するようになった少数の信者たちとの間の争い)、あるいは b)その信者が追い出される(こちらのほうがはるかによくある結果です)。
霊的賜物には、実にさまざまな組み合わせがあります。私は長年、このことについて多く書いてきました(「奉仕と奉仕への準備」の一連の投稿[リンクは最新のもの]を参照してください。また特に「BB 5:聖霊論」へのリンクも参照してください)。ここでは、二人の信者がまったく同じ賜物の「組み合わせ」を持つことはなく、私たちは皆、それぞれ異なる個人的な奉仕を行うよう主から召されている、とだけ言っておけば十分でしょう。それらは、地域教会の中にある型にはまった名称付きの役職ではありません。「執事、長老、牧師」だけが選択肢であるかのようなものでは決してありません。ですから、私は前もって、ある信者に、その人の奉仕は何である、あるいは何になる、と言うことはできません。私たちは皆、成長していく中で、御霊と共にそれを自分で「見いだしていく」ためのかなりの自由を主から与えられています。ただ一つ言えるのは、主は備えのできた人を用い、応答する意志のある人には機会を与えてくださるということです。ですから、私たちが主にもっと近づくことに専念するなら、成長するにつれて機会が生じ、主が私たちに何をしてほしいと望んでおられるのかが、時とともに明らかになっていきます。これは私自身の経験でもあります(そして、イエス・キリストの教会のために何らかの働きをしているほとんどの人からも、同じような話を聞いています)。
しかし、それをすべて地域教会に委ねようとするなら、たとえそれが良い教会であったとしても(そのような教会が存在するならですが)、おそらく私たちは自分の可能性を制限することになります。すべての人に真理が必要です。それは、教えること、励ますこと、真理を分かち合う働きを支援すること、信者にも不信者にも手を差し伸べることなどを通して与えられます。このような大きな枠組みの中には、無限の可能性があります。私たちが何をするのが最善なのかを知っておられるのは主だけであり、私たちが主を信頼し、主にお任せするなら、主には私たちを正しい道へ導く力が十分にあります。ですから、あなたの「もし~なら」という問いは実際的な問題としてもっともですが、主に不可能なことは何もありません。しかし、妥協すべきでないところで妥協するなら、自分の可能性や実りが結局制限されることになっても、驚くべきではありません。
3)私たちは皆、同時にいくつもの戦線で戦っています。私たちのほとんどには、仕事、家のこと、家族、経済的なこと、健康上の問題など、対処しなければならないことがあります。そしてそのすべてが、私たちには支配できないものの、私たちに影響を及ぼすことのできる「現実世界」という海の中にあります。しかし、霊的な戦線が最も重要です。そこに多くを注ぎ込めば注ぎ込むほど、長い目で見れば、あらゆる面で良い結果になります。もちろん「難しいところ」は、だからといって、ほかのどの戦線でもいい加減にしたり、悪い証しとなったりすることは許されないということです。私たちは、良い親、良い子供、良い兄弟姉妹、良い従業員、良い市民であり続け、健康、家、所有物など、神が与えてくださったものについて良い管理者であり続けなければなりません。私たちが本当に最も大切なもの――イエス・キリスト、その真理、そしてその教会――を第一にし続けるかぎり、主は、私たちが自分自身を疲れ果てさせたり、人生の大切な分野をおろそかにしたりすることなく、正しいバランスを取れるよう助けてくださいます。
これは、私たちが時間をかけて成長し、主が助けてくださると信頼しながら、だんだん上手になっていくことです。「時間を無駄にすること」について言えば、私たちは皆、ある程度の休息と気分転換を必要とします。そして、それがどれほど必要かは、人によっても状況によっても異なります。「完全にだらだら過ごすこと」と「一息つく間もなく自分をすり減らすこと」の間のどこかに、恥ずかしく感じる必要もなく、また何かを奪われていると感じる必要もない、ちょうどよいところがあります。
4)これについては、上の1と2ですでに扱いました。問題をよく捉えています。
5)すでに述べたように、第一にすべきものを第一にすれば、ほかのことはすべてあるべきところに収まっていきます。具体的なことについては、主がそれらを明らかにしてくださると信頼します。それは感情を伴う過程になることもありますが、私たちは自分の感情にあまり重きを置かないことを学んでいきます。日々、自分が正しいと分かっていることを行うよう努めていけば、そのうえで、御霊に導かれて進む具体的な道について、良い選択をすることができます。
6)艱難期に対する唯一確実な備えは、霊的成長です。物質的/身体的な面で何をしても、その先がどうなるかは確かではありません。注意深く守ってきた健康も崩れることがあります。お金や所有物も奪われることがあります。人間関係も、自分には何の落ち度もないのに壊れることがあります。しかし、心の中にある真理は永遠に私たちのものです。そして、主との親密な交わり以上にすばらしく、励みになるものはありません。もし私たちがその困難な時代を経験するよう召されているのであれば、一歩一歩、主と近く歩むことこそ、唯一不可欠なこととなるでしょう。それは、私たちが心の中に持っているもの、すなわち十分な真理と、その真理を一歩一歩あらゆる場面で用いる習慣から生じるものです。多くの人がその試練に耐えられないことになるでしょう。しかし、主が私たちの右にいてくださるなら、私たちは最後まで切り抜けることができます。
その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。われわれは彼を待ち望んだ。彼はわれわれを救われる。これは主である。われわれは彼を待ち望んだ。その救を喜び楽しもう」。(イザヤ25章9節)
(3) 弱った手を強くし、よろめくひざをしっかりさせよ。(4) 心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって来られる。神は報いをもって来られる。神は来て、あなたがたを救われる」。(イザヤ35章3-4節)
地のすべてのへりくだる者よ、主を求めよ、主の命令を行う者よ。義を求め、へりくだりを求めよ。そうすれば、主の怒りの日に、あるいは隠されるであろう。(ゼパニヤ2章3節 /NIV訳)
さあ、わが民よ、あなたの部屋にはいり、あなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらくの間、身を隠せ。(イザヤ26章20節 /NIV訳)
いつも目を覚ましていて、これから起ころうとするすべてのことから逃れ、人の子の前に立つことができるように祈っていなさい。(ルカ21章36節 /NIV訳)
友よ、あなたとご家族のことを祈りの中で覚えています。
イエスにあって、
ボブ・L