終末に関する諸問題173,174の抜粋翻訳

Your E-mails

https://ichthys.com/e-mails.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

からの抜粋翻訳

終末に関する諸問題 CLXXⅢ(173)

[2026年9月12日掲載]

質問 #6:

こんにちは、ボブ。

中絶は、子供をいけにえとしてささげることと同じではないでしょうか。ただ今では、子供たちの叫び声を聞かなくてもよくなり、その音をかき消すために太鼓をたたく人を雇う必要もないところまで進歩した、というだけではないでしょうか。

今日の性的な倒錯は、イスラエル人が行ったこと、そしてそのために彼らやカナン人がその土地から追い出されることになったことと同じではないでしょうか。

そのような倒錯こそ、神がバビロニア人とアッシリア人をイスラエルに差し向けられた理由と同じではないでしょうか。

そのような倒錯こそ、干ばつや嵐や地震をもたらしたものではないでしょうか。今、私たちもそのような災害に苦しんでいるように思えます。

神が敵を征服するためにバビロンとアッシリアを用いられたのであれば、神は私たちに対しても同じことをなさるのではないでしょうか。私たちもバビロンやアッシリアのように滅ぼされるのでしょうか。これが、アメリカが新しいバビロンであるという先生の考えの根拠なのでしょうか。

私たちが実践しているこれらの「自由」を信奉することは、イスラエル人が異国の神々を信奉したことと同じではないでしょうか。

このような質問でご負担をおかけして申し訳ありません。しかし、聖書を理解すればするほど、こうした考えが頭から離れなくなります。今日目にする悪は、アダムとエバが園を出て以来ずっと存在してきました。それなら、なぜ私たちは昔の人々が受けたのとは違う扱いを受けると期待できるのでしょうか。艱難期がこれから一、二か月のうちに始まるにせよ、七年後に始まるにせよ、私たちも同じ報いを受けることになるのではないでしょうか。

ニュースをざっと見ることさえ、もうやめたほうがよいのかもしれません。先生とご家族がお元気であるよう祈っています。

主にあって、

返信 #6:

どれも悪いことですが、異教の「神々」に対する公然たる礼拝の一部として意図的に行われるものは、それよりさらに一段悪いものです――なぜなら、それは自ら進んで悪霊との関わりに加わることだからです。

それでは、わたしは何を言おうとしているのか。偶像に何か実体 があるということか。それとも、偶像に供えた物に何か実体があるということか。そうではない。異邦人がささげる物は、神にではなく悪霊どもにささげているのである。わたしは、あなたがたに悪霊どもと交わってほしくない。あなたがたは、主の杯と悪霊どもの杯との両方を飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓との両方にあずかることはできない。(第一コリント10章19-21節 /NKJV訳)

もし主が、この国全体としての悪行を理由に裁こうと思われるなら、告発の材料には事欠かないでしょう。私がアメリカの歴史を読んできた限りでは、それはいつの時代にも当てはまってきました。それでもこの国が今なお存続しているという事実は、何にもまして、真の信者たちがこの国にもたらす役割を果たしてきた「交わりによる祝福」と関係しているのでしょう。

正しい者の祝福によって町は高められ、悪しき者の口によって町は滅ぼされる。(箴言11章11節 /NIV訳)

ですから、好ましくない行動という点だけでなく、その結果という点でも事態が悪化しているのであれば、私の見立てでは、「恵みの選びによる残りの者」(ローマ11章5節 /KJV訳)が減り続けているだけでなく、その塩気をも失いつつあるということでしょう(マタイ5章13節; マルコ9章50節, ルカ14章34-35節参照)。そうであれば、この国のことを気にかけているなら、「自分の務めを果たしている」私たちには、忍耐し続け、ますますその務めに励むべき、さらに大きな責任がかかっていることになります。

ところで、昨日は今年度の授業初日で、大変な一日でした。

金曜日、とても長く大変な一日の仕事を終えて帰宅する途中、事故で車が全損になりました。骨折はしませんでしたが、あちこちに痛みや打撲があり、頭も少しぼんやりしていて、かなり疲れています。

[省略]

保険のことがうまくいくように、そして今週の仕事を乗り切れるように祈っていただければ感謝します[注: 神は実際にすべてを素晴らしく解決してくださいました。今では以前より良い「車」も手に入り、体調も良く、ほぼ完全に回復しています――皆さん、お祈りをありがとうございました!]

イエスにあって、

ボブ・L

質問 #7:

ボブ、最近は本当に大変なことが続いていますね。U of Lは先生を支えてくれていますか。また、今年度については、先生の授業も所属学科も大丈夫だと考えてよいのでしょうか。いずれにしても、私がお祈りしていることは確かです。

先生の車はひどい状態に見えました。写真には運転席側は写っていませんでしたが、そちら側に衝突され、その勢いで木に突っ込んだのですから、さぞ衝撃だったことでしょう。そこから無事に歩いて出られたことを感謝しています。神は良いお方であり、私の祈りに答えてくださいました。

ご回答には感謝していますが、「女性が選択する権利」を信奉することや、今日のいわゆるフリーラブの愚かな風潮、そして薬物が、どうして異教礼拝の一部ではないのか、私にはまだよく分かりません。とはいえ、それはさておき、私たちはどんどん悪い方向へ落ちていっています。

順調に回復されるよう祈っています。

主にあって、

返信 #7:

今日はもうかなり良くなっています。100パーセントではありませんが、90パーセント台というところです。一番の問題は少し疲れが残っていることですが、今日も授業はとてもうまくいきました。月曜日よりもさらに良かったと思います(それが本当かどうかは、学生たちに聞いてみないと分かりませんが!)。明日は特にしなければならないことが何もないので、朝はゆっくり寝て、一日中のんびり過ごすつもりです。

私の授業は一つも中止になりませんでした。非常勤講師が直前になって担当できなくなったので、私の一年生のラテン語クラスは定員を超えるほどいっぱいになっています。それに、ギリシャ語のクラスには17人もいます(これほど多かったのは何年ぶりでしょう)! ですから、お祈りをありがとうございます!

「異教礼拝の一部」ということについてですが、確かにコロサイ3章5節やエペソ5章5節のような箇所はあります。しかし、旧約聖書でも新約聖書でも、異教礼拝とは、偽りの神々に明確に服従し、その物理的な神殿において、それらの宗教的儀式を行うことを伴うものでした。反キリストが登場すると、多くの「教会」(そしてその他の「礼拝所」も)は、獣の宗教に身をささげるようになれば、実質的に「異教の神殿」となる可能性があります。しかし、その場合にも、公然たる礼拝行為が伴います(「単なる」罪深い、あるいは悪い行いとは異なります)。

第二の獣には、第一の獣の像に息を与える力が与えられ、その像がものを言い、その像を拝もうとしない者をみな殺させるようになった(proskyneo〔プロスキュネオー〕。文字どおりには、ひれ伏して口づけすること)。(黙示録13章15節 /NIV訳)

イエスにあって、

ボブ・L

質問 #12:

こんにちは、ボブ。

もしこの人物が当選したら、私はそれを終わりの時代の最終段階を示すしるしの一つと考えるでしょう。これは、聖書がやがて現れると告げているようなエキュメニズムです。この辺りでも、この人物を支持する看板が庭先にちらほら立ち始めていますから、すでにかなりの人々が背教に陥っているということでしょう。

https://www.breitbart.com/faith/2026/09/07/james-talarico-denies-jesus-is-way-says-allah-leads-same-truth

 <↑このユーチューブの最初のタイトルには「「注目:ジェームズ・タラリコ、イエスだけが唯一の道であることを否定し、アッラーも同じ真理へと導くと発言」とあります>

彼が当選したとしても、それが合法的な選挙によるものであろうとなかろうと、来週の金曜日に艱難期が始まるということにはなりませんし、先生の推定が間違っているということにもなりません(上院議員の任期は六年です)。しかし、それは、私たちがその時期に入りつつあることを意味しているのではないかと思います。

私たちの唯一の主イエスにあって、

返信 #12:

正直に言うと、その名前には聞き覚えがあるような気はしますが、誰なのかと聞かれても答えられなかったでしょう(政治家なのですね)。

私たちは「その時期」に入っているのかもしれませんし、そうではないのかもしれません。しかし一方では、私たちはいつの時代も「その時期」にいたとも言えます。

この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちは、さいわいである。時が近づいているからである。(黙示録1章3節 /NIV訳)

ですから、このことについて語られた私たちの主のすばらしい御言葉に耳を傾けることは、これまで以上に重要です。

「あなたがた自身に気をつけなさい。そうでないと、放縦や泥酔やこの世の思い煩いによって心が鈍くなり、その日が思いがけない時にあなたがたに臨むであろう。その日は、全地の面に住むすべての人に、わなのように臨むからである。だから、いつも目を覚まして祈り、この起ころうとしているすべてのことから逃れ、人の子の前に立つことができるようにしなさい。」(ルカ21章34-36節 /NKJV訳)

イエスにあって、

ボブ・L

終末に関する諸問題 CLXXIV(174)

[2026年9月19日掲載]

質問 #2:

こんにちは、Bob。

すべて順調でしょうか? 事故のことは知りませんでしたが、命を失うようなことにならなくて本当によかったです。物事はほんの一瞬のうちに起こり得ますが、神の御手があなたを守っておられたのだと思います。改めて神に感謝します!(ローマ8章28節)。

私は今、目も頭もぼんやりした状態でコンピューターの前に座り、何とか理解しようとしています。あなたが私よりはるかに忙しいことは分かっていますが、もし(2か月くらい?)時間がありましたら、「時」について、あなたの専門的な見解を聞かせていただければありがたいです。

私が考えているのは、艱難期の開始とキリストの間近に迫った再臨について、2026年なのか、それとも西暦2033年なのか、ということです。もう一度Ichthysにあるあなたの分析を詳しく読み直すべきなのかもしれませんが、もし時間がありましたら教えてください。ホセア5章15節ホセア6章1-2節を見ながら、「教会時代」は2033年の艱難期開始へと向かっているのではないか、と考えていました。ホセア書がその青写真なのでしょうか? あなたがもともと分析しておられたような「重なり(overlap)」が必要なのでしょうか?

「わたしは自分の所に帰って行こう」(ホセア5章15節)。これは、第一降臨の後、イエスが第三の天へ戻られることを指しているのでしょうか? 彼らの「苦難(affliction)」の時に……というのは、艱難期のことを語っているのでしょうか? 「二日の後、主はわれわれを生かされる」(ホセア6章2節)。これは2,000年ということですよね? そうであれば、キリストが西暦33年にこの地を去られたのなら、その二日(2,000年)は西暦2033年までということになります。「二日の後、主はわれわれを生かされる」とあります。イスラエルを主に求めさせるリバイバルと「苦難」は、その二日の間には起こらないということでしょうか。つまり、2,000年が完全に終わった後に起こるのでしょうか?

そうだとすれば、「教会時代」は西暦2033年までその全期間を終え(と思うのですが?)、その直後に七年間の艱難期が続くことになります。「三日目に、主はわれわれを立ち上がらせ」(ホセア6章2節)。この三日目は、キリストの時(西暦33年)から数えて第三の千年期が始まることを表しているのでしょうか? 「み前で生きる」ために「立ち上がらせ」られるというのは、第一の復活(黙示録20章4-5節)を描写しているように思えます。これは正しいでしょうか? この時点が千年王国の始まりになるのでしょうか?

私は、この「重なり」という説、あるいは分析について、あまり確信が持てません。もし艱難期が2026年に始まるなら、イスラエルを生き返らせる激しい「苦難」は、二日(2,000年)が終わる前に始まることになります。ホセアは明確に、二日が完全に終わった「後」と言っています。ホセアはこの2,000年を、途切れることのない完全な一続きの期間として位置づけているように思えるので、これから来る「最後の苦難」は、神の時間表の上では2,000年が西暦2033年に満了するまで、正式には始まることができないように思えます。あなたのほうが私よりもこのことを詳しく研究しておられるので、整理して説明していただければありがたいです。

私は混乱していて、このぼんやりした頭では完全に手に負えません……もっとも、それほど大きな問題ではありません。自分がどこへ向かっているかは分かっているからです……「最後のラッパ」の時に主とともにいるところへ!……それがいつ起ころうとも、です(第一コリント15章52節)。大切なのは、どのように始めたかではなく……どのように最後までやり遂げるかです(マタイ24章13節; コロサイ1章23節)。

あなたの「問題」からの回復が順調であることを願っています。私たちも「困難な時」を通して神に信頼し続けることができます(ヤコブ1章2-4節)。私たちのさまざまな問題のために、いつも祈ってくださってありがとうございます。私もあなたのために祈っています。それでは、Bob、よい一日を!

イエスにあるあなたの友より

返信 #2:

友よ、便りをもらえてうれしいです。まずまず元気にしていますが、かなり疲れています。問題の一つは、事故が、これまで経験した中でも特に忙しい学期の一つが始まる72時間も前に起こったことです。今日は四つの授業を教えていて、その影響をかなり感じました。それでも、何とか無事にやり終えることができました。明日は休んで体を休めようと思っています(いずれにしても火曜日は授業がありませんので)。

ご質問についてですが、この「重なり(overlap)」を見いだしたのが、(私の知る限り)私だけであることは確かです。そして、これを教え始めた当初から、私はいつも、これは年代を推定する上で最も議論を呼ぶ部分だと言ってきました。また、この考え方はどちらの方向にも捉えることができるのも事実です。つまり、イスラエルの最後の七年間と教会時代の最後の七年間とを重ね合わせることと、教会時代がイスラエルの時代の最後の七年間に入り込み、それに付け加えられると考えることとは、どちらとも言えるような問題なのかもしれません。しかし、これは重要な問題です。というのも、後者の理解では開始時期が七年違い、七年遅くなるからです。そして最近の投稿でも論じているように、ほかにもいくつか変動要因があります。例えば……

「皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主であり、アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。」(ルカ3章1-2節/NIV訳)

テベリオの在位第十五年が西暦28年8月19日に始まったことは、かなり確かだと思われます。しかし、アウグストとの共同統治があったと仮定して、これを一年ほど早く置こうとする人たちもいます。私はその説を特にありそうだとは思いませんが、テベリオの治世の年代を定めるために私たちが持っている世俗の史料は、聖書以外の史料としてはかなり良いものではあるものの、豊富とは言えないのも事実です。

もう一つ例を挙げると、私は、主の公生涯は三年半続いたと考えています。その根拠は、1)ヨハネによる福音書に記されている過越祭への言及、そして2)三年半という期間が、主とヨハネの宣教期間の意義に照らして適切であり、また彼らの型であるモーセとエリヤも艱難期に三年半奉仕することです。しかし、かの偉大なアイザック・ニュートンでさえ、この証拠を調べた際には四年半と考えました(ちなみに、リンゴについては彼は正しかったのですが[リンゴは下に落ちます]、南海会社の株については間違っていました[株価は上がり続けませんでした])。

「[主は]二日の後に、われわれ[イスラエル]を生き返らせ(すなわち、教会時代の後)、三日目にわれわれを立ち上がらせてくださる(すなわち、千年王国)。それによって、われわれは主の御前で生きることになる(すなわち、メシヤとともに。この預言は、三日目のメシヤの復活によって、メシヤご自身において具体的に表されている)。」ホセア6章2節ルカ24章46節; 第一コリント15章4節参照)

もし、ここでいう三日目が千年王国であり(私はそう信じています)、二日が教会時代であるならば(私はそのように考えています)、千年王国は、その二日間が始まってから2,000年後(教会時代は、主の復活と昇天の時である西暦33年に始まった)に、つまりおよそ2033年に始まるはずです。そうであるならば、艱難期はその七年前(およそ2026年)に始まらなければならない、と私は考えます。

ホセア5章15節の「苦難」と主を「求める」ことは、確かに艱難期と、その前半にモーセとエリヤによって行われるリバイバルを指しています。一方、ホセア6章1節は、その働きと十四万四千人の働きに応答する人々の悔い改めの態度を描写しています。そして、その後に、上で引用し訳したホセア6章2節が続きます。「われわれを立ち上がらせる」とは、確かに復活のことです……艱難期のユダヤ人信者(そして殉教者たち)の復活……そしてもちろん、それ以前のすべての信者、すなわち私たちを含む教会全体の復活です。

そうだとすれば、『教会時代』は西暦2033年までその全期間を終え(と思うのですが?)、その直後に七年間の艱難期が続くことになります。」についてですが、この部分については、もう少し説明していただく必要があります。私にはむしろ逆のように思えます。つまり、あなたが尋ねておられるこの箇所によれば、主がこの地を去られて(すなわち、復活し昇天されて)から2,000年後には、すべてが終わっているように思えるのです。

ホセアはこの2,000年を、途切れることのない完全な一続きの期間として位置づけているように思えるので、これから来る『最後の苦難』は、神の時間表の上では2,000年が西暦2033年に満了するまで、正式には始まることができないように思えます。」についてですが、その通りです――もし「重なり」がないのであれば。そして、まさにその点を私たちは考えているわけです。

 

あなたのことを祈っています。

イエスにあって

Bob L.

質問 #3:

こんにちは、Bob。

私にはよくあることですが(こうした終末論の出来事の多くについては)、木を見て森を見失っていました。だからこそ、森の中をぐるぐる回って迷ってしまった私を、あなたならそこから連れ出してくれると思っていました。導き出してくださってありがとうございます! 時間を取って、これらすべてをとても分かりやすく説明してくださったことに感謝します。少なくとも今は、物事が「もう少しよく見える」ようになってきました。

ところで、私はこれまでも、あなたの詳しい分析を、「重なり(overlap)」も含めてずっと支持してきました。おかしなことに(本当ですよ!)、AIという名のやつから、あなたがこうした終末論の「すべて」に関して、Irvin Baxter、Jack Van Impe、Hal Lindsey、David Jeremiah、Dave Hunt、Robert Jeffress、SDA、モルモン教、JWなどをしのいで、実に幅広い「細部にわたる」解釈だけでなく、思わず眉を上げたくなるような「予測」においても、独自の地位を築いていることを知りました! 彼らはみんなナット(nuts=おかしい)だと分かったので……私はそこからボルト(bolted=逃げ出した)しました。世の中には「何でも知っている」という専門家が大勢います。ですから、ボブ、あなたには脱帽です! あなたは実際、こうした「すべて」について信頼できる研究をしておられます。これを聞いてもあなたの頭が吹き飛ぶことはないでしょうが……それにしても、すごいことです……これほど多くの欺きがあると、多くの人がまたあの大きな暗い森の中へ迷い込んでしまいかねません。(ほかの話題についてはどうでしょう? 笑)。いずれにしても、私たちは「終わりの日」にいるに違いありませんね。

このパズルにはあまりにも多くのピースがあり、私にはそれらを組み合わせるのが難しかったです。そしてあなたは、テベリオや年代などの歴史的背景も取り入れて説明してくださるので、こうしたことのいくつかを整理するのに本当に役立ちます……さらに、ヨハネの宣教、私たちの主の宣教、モーセとエリヤの宣教など(私がこれまで考えたこともなかった事柄)も考慮されています。ですから今では、こうした点を考えることによって、本当にもっとはっきりと全体像が見えるようになってきました。あなたの「重なり」の分析に基づく2,000年(私たちの主が去られた後)についても、あなたの説明に同意します(間違っていた私を正してくださってありがとうございます)。あのときはまだコーヒーを飲んでいなかったので、言い間違えてしまいました! 「その日が近づいているのを見て」、少しそわそわしていたのだと思います。いったん事が始まれば、七年間が残されていることは分かっています。そしてついにイエスが、まさに定められた時に来られるとき、その方にお会いできるのはすばらしいことでしょう(黙示録22章20節)。

ボブ、どうか十分に必要な休息を取ることができますように。そして私は、「まだ昼であるうちに」、あなたから学べることをできる限り学びたいと思っています。これから先も、きっとまた助けが必要になるでしょう。思いがけない飛来物には気をつけてくださいね。私たち羊のためにしてくださっているすべてのことに、本当に感謝しています! お元気で。

イエスにあるあなたの友より

返信 #3:

ありがとうございます! とても感謝しています。

あなたの質問は、まったくもっともなものでしたし、今でもそうです。私も、ロシュ・ハシャナが「その日」である/あったのかどうかについては確信がありません。私は以前から、始まりの日としてはヨム・キプルのほうが可能性が高いと感じてきました(9月20~21日? 10月20~21日?)。しかし、聖書には、特定の日について私が断定的なことを言えるような根拠は何もありません。

「飛来物(Missiles)」についてですが、今日は道路で何度か「危うくぶつかりそうになる」ことがありましたが、幸い衝突はしませんでした。ただ、人々の振る舞いや運転の仕方を見ていると、抑制する働きが取り去られたのに、その知らせを私だけが見落としたのではないかと思ってしまうほどです。

これらの情報を一か所にまとめて見るのに最もよいのは、サタンの反乱第五部です。

皆さんのこと、そして皆さんの健康のことを、毎日の祈りの中で覚えています。

イエスにあって

Bob L.

質問 #4:

こんにちは、Bob。

リンクをありがとうございます。これを学んでから、もうしばらく(数年?)たっています……もう一度取り組む時ですね。覚えておかなければならないことがたくさんありますし、私の映像記憶も昔ほど良くはありません(何年前の話でしょう???)。高校時代のラテン語の先生は、「頭も筋肉のようなものだ」と言っていました。どうやら私の場合、すべての筋肉にもっと運動が必要なようです。年を取るというのは、ますます「大変」になることがありますね!

Bob、これからも、あなたがしておられるすばらしい働きを続けてください! 私には、得られる助けは何でも必要です。あの「悪魔的な」道路のテロリストたちを寄せつけないために、装甲兵員輸送車に投資したほうがいいのでは? そうすれば、あなたもまだここにいて、私ももっと質問できますから!

いつも祈ってくださってありがとうございます。私たちもあなたのことを祈っています。よい一日を。

イエスにあるあなたの友より

返信 #4:

私自身もちょうど「Satanic Rebellion(サタンの反乱)」シリーズをもう一度読み終えたところです。リンク

「APC(装甲兵員輸送車)」について。そうですね、米海兵隊はつい最近、戦車(私の以前の軍事職種でした)を廃止したところです。もしかすると、余剰品として一台手に入れられるかもしれませんね。

友よ、あなたのお祈りにも感謝します!

イエスにあって

Bob L.

質問 #5:

こんにちは、Bob!

また近いうちにもっと書こうと思っていますが、ひとまず短くご連絡したいと思いました。主にあってお元気であることを願っています!

自動車事故の後も、体調は大丈夫ですか? 車が全損になってしまったのは残念ですが、あなたが無事だったこと、そして新しい車を手に入れることができたのは、本当に感謝なことですね! 保険の手続きについても、これ以上あまり手間がかからないことを願っています。

毎週のメール投稿をありがとうございます。昨夜、扇風機の振動で部屋が少し揺れていて、しばらくの間、いよいよ地震が始まるのだろうかと思っていました。

私としては、さらに成長するために、あと七年くらいあれば本当にありがたいのですが、何が最善かは主がご存じです。

私は最近、本当にひどく打ちのめされるようなことが続いています。それでも、これを祝福として受け止めたいと思っています――もしかすると、成長を早めるための訓練を受けているのか、それとも必要な訓練・懲らしめを受けているのか、あるいはその両方なのでしょうか?

どうぞ、すばらしい夜をお過ごしください! すべてのこと、そしてあなたの働きに感謝します!

返信 #5:

かなり良くなっています。新しい車も手に入れましたし、前の車より良い車です(ただ、いろいろ付いている電子機能については、まだ使い方を覚えているところですが)。

あなたが「集中砲火を浴びている(clobbered)」とのことで、残念に思います。私は、あなたが「対空砲火(flak)」から救い出されるよう祈っています……しかし時には、主は私たちがそれを避けるのではなく、そのただ中を飛び抜けることを意図しておられることもあります。こちらも、まさにそんな週末でした。

「あと七年くらいあれば本当にありがたい」について。アーメン! 私もです! 実を言うと、私はまだ少し疲れが残っていて、これから非常に忙しい一週間が控えていることを考えると、もう一度三連休があればよかったのですが。しかし、主はいつも私たちを最後まで切り抜けさせてくださいます(艱難期についても同じでしょう)。

友よ、あなたとご家族のことを祈り続けています――そして、あなたのお祈りにも本当に感謝しています!

イエスにあって

Bob L.

質問 #6:

こんにちは、Bob。

良くなっていると聞いてうれしいです! そうですね、新しい電子機能というのは、私の考えでは少々多すぎることがあります。

あなたの疲れのこと、そして仕事に戻るにあたって、主がご存じの、答えや助けを必要としているそのほかすべてのことについて祈っています。また、Ichthysの読者たちが備えと成長のために前進し続けているように、彼らのためにも祈ります。

私が受けている「対空砲火」についてですが、正直なところ、私はそれを通り抜けるほうが自分にとって良いのだと思っています。この人生が非常に短く、永遠は決して終わることがなく、私たちが受け得る報いが大きなものであることを知っています。ですから、主の御霊の力によって、また主の恵みと御業によって、自分がなり得る最も良い状態で主の御前に立ちたいと心から願っています。そして、これらの厳しい試練もすべて、私にとって最善のためなのだと信頼しています。

返信 #6:

ありがとう、友よ。

「仕事に戻る」についてですが……もう学期の三分の一が終わっています。感謝祭まで何とかたどり着ければ、あとは大丈夫です。

「対空砲火」についてですが、友よ、それはすばらしい姿勢です! その姿勢を保つことはいつも容易ではありませんが、保つことができれば祝福です。それこそまさに「信仰の安息」に入るということです。すなわち、一日一日、一瞬一瞬、主に信頼することであり、それによって第四戒の教会時代における発展形が成就するのです(リンク)。私たちが息をしている限り、私たちはここにいて、主が私たちを支えてくださっています。そして、その息が止まれば、私たちは主とともにいることになり、向こう側では、物事は想像もできないほどすばらしいものになります。それ以外のことはすべて、私たちの目をそらすものにすぎません。ですから、聖書が私たちに勧めているように、私たちも皆、あなたのそのすばらしい姿勢を持つべきです。

「そればかりではない。わたしたちは患難をも喜ぶ。患難は忍耐を生み、忍耐は練られた品性を生み、練られた品性は希望を生むことを知っているからである。そして、この希望は失望に終ることがない。なぜなら、わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ5章3-5節)

「わたしは、現在の苦難は、わたしたちに現されようとしている栄光と比べるに足りないと思う。」(ローマ8章18節)

「なぜなら、このしばらくの軽い患難は、比べることもできないほど重い永遠の栄光を、わたしたちにもたらしているからである。そこで、わたしたちは見えるものに目を注がず、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠だからである。」(第二コリント4章17-18節)

「兄弟たちよ。さまざまな試練に遭うとき、それをこの上もない喜びと思いなさい。あなたがたの信仰が試されることによって忍耐が生み出されることを、覚えておきなさい。そして、その忍耐を十分に働かせなさい。それによって、あなたがたが十分に成熟し、何一つ欠けるところのない者として、十分な報いを受けるにふさわしい者となるためである。」(ヤコブ1章2-4節)

「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために今あなたがたの上に降りかかっている火のような試練を、何か異常なことが起こったかのように驚き怪しんではならない。むしろ、あなたがたがキリストの苦しみにあずかっているその程度に応じて喜びなさい。それは、キリストの栄光が現されるときにも、大いなる喜びをもって喜ぶためである。」(第一ペテロ4章12-13節)

イエスにあって

Bob L.

質問 #7:

こんにちは、Bob。

もしひと息つける時があるなら、感謝祭はすばらしい目標ですね。私自身は、どちらかというと料理のほうも楽しみですが。最近、車の上を七面鳥が飛んでいき、その後、家の窓から四、五羽ほど見かけました。ただ、感謝祭に丸々と太った養殖の七面鳥を期待していたなら、あの野生の七面鳥では少しがっかりするかもしれませんね。

メールを本当にありがとうございました。まさに絶妙なタイミングでした! その直前に、人生の中でかなりつらい出来事があり、その後さらに、ある信者と「集会を怠ること」について再び話すことになり、それも落胆させられるものでした。

この話題については以前にも書いたことがありますし、ほかの方々からのメールでも、同じような試練を経験している人たちのことを読んできました。

自分が御言葉に従っていないのだと、人からあれほど自信たっぷりにほのめかされたり、言い張られたりすると、本当に心が打ちのめされます。

どれほど熱心に学び、霊的に成長し、さまざまな立場の信者や未信者に仕えていても、週に少なくとも90分間、教会の長椅子に座っていなければ……そんなことは全部どうでもいい、とでもいうような扱いです。

メールを読んでいるとき、強い連帯感や慰めを感じることがあります。

このミニストリーでは誰も私のことを「知って」いるわけではありません。しかし、主が最初に、非常に暗く危険な道から私を引き上げてくださるために用いてくださったのは、「ここ」[実際の教会堂を持たないミニストリー]でした。

私は今でも、艱難期全体を、途中でつまずくことなく最後まで耐え抜けるほど強くいられるだろうかと心配になることがあります。しかし、もっと適切な言葉が見つからないのですが、私はあきらめたくも、屈したくもありません。

これまでのところ、強い不快感や心の乱れを覚える教会に無理に腰を落ち着けることは、良い選択とは思えません。このことについては、あなたもこれまで、さまざまな人に対して、いろいろな形で何度も触れてこられました。

いずれにしても、あなたのために、そして今後これを読むかもしれないIchthysの皆さんのためにも祈っています。

返信 #7:

そうですね、もしひと息つける時があるなら、その時にはいつも以上に特別な感謝をささげる良い機会になるでしょう。私はダイエットをすることになっているので、野生の七面鳥くらいがちょうどいいかもしれません。

「自分が御言葉に従っていないのだと、人からあれほど自信たっぷりにほのめかされたり、言い張られたりする」ことについてですが、そういう扱いを受けるなら、私たちは良い仲間の中にいることになります。「宗教的な人々」はエレミヤを足かせにつなぎました。彼らはステパノを石で打ち殺しました。彼らはパウロを何度もむち打ちました。まさに私たちの主が言われたとおりです。

「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、偽ってさまざまな悪口をあなたがたに浴びせる時、あなたがたは幸いである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5章11-12節、NIV)

そもそも、私たちは彼らをつかまえて、「教会に行っている」ことを責め立てているわけではありません(もっとも私の考えでは、彼らの「集まりが益よりも害をもたらしている」場合がほとんどなので、そうしても正当化されるでしょうが――第一コリント11章17節)。しかし彼らは、自分たちがしていることを私たちがしていないという理由で、私たちを批判する必要を感じています。第一に、そんなことをすることが、どうして正当化できるのでしょうか。

「他人の僕をさばくあなたは、いったい何者なのか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし彼は立つことができる。神は彼を立たせることがおできになるからである。」(ローマ14章4節、NKJV)

そして、なぜ彼らはそうするのでしょうか。私には、その理由は明らかなように思えます。心のどこかでは、自分たちはただ「神に軽く会釈している」だけで、ほとんど何も成し遂げていないことをよく分かっているのです――あるいは、偽りの教えがあり、それを広めるために人を勧誘している場合には、実際にはそれより悪いことをしていることさえあります。これは、あらゆる悪い行動について言えることです。「ほかのみんなもやっている」のなら、問題はありません。ですから、もし誰かがそれを「やっていない」と、その人の存在によって、自分たちが悪く見えたり、悪いことをしているように感じたりすることになります(まだ良心が残っているならばですが)。もちろん、彼らは自分自身を変えたいとは思いません。しかし、もし私たちを変えることができれば、そもそも自分たちのほうが正しかったことになるかもしれません。正気とは思えないことですが、人間の性質(すなわち罪の性質)とは、まさにそのように働くものなのです。

「悪を行う多数の者に従ってはならない。」(出エジプト23章2節前半/NIV訳)

「わが子よ、罪人があなたを誘っても、それに従ってはならない。」(箴言1章10節/NIV訳)

「悪しき者の道に足を踏み入れてはならない。悪を行う者の道を歩んではならない。それを避けよ。そこを通ってはならない。そこから離れて、自分の道を進め。彼らは悪を行わなければ眠ることができず、だれかをつまずかせなければ眠りを奪われるからである。」(箴言4章14-16節、NIV)

「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座にすわらない人は幸いである。」

(詩篇1篇1節)

主が私たちに望んでおられることを行おうとしている私たちを、宗教的な人々が悩ませることは正当化されるでしょうか。私はそうは思いません。

「罪のない者を罰するのは良くない。誠実な高官をむち打つことも良くない。」

(箴言17章26節、NIV 1984)

私たちにとって重要なのは、ただ一つの評価――私たちの主の評価だけです!

「人々が人の子のために、あなたがたを憎み、仲間外れにし、ののしり、あなたがたの名を悪しきものとして退けるとき、あなたがたは幸いである。その日には喜び、踊り上がって喜びなさい。見よ、天におけるあなたがたの報いは大きい。彼らの先祖も預言者たちに同じことをしたのである。」

(ルカ6章22-23節、NIV)

ですから、その道をそのまま進み続けてください。「あなたを知っている」かどうかについて言えば、友よ、私はあなたのために毎日祈っています。もし興味があれば、オンラインで集まっているグループもあります(「Fellowship Link」をご覧ください)。皆さん、喜んであなたを迎えてくれるでしょう。

友よ、キリストの裁きの座で、あなたと、あなたの受ける報いをともに喜べることを楽しみにしています!

私たちの愛する救い主イエスにあって

Bob L.