終末に関する問題 -83

https://ichthys.com/mail-eschatology-issues83.htm#2026

からの抜粋翻訳

質問 #11:

先生へ

この世で、信頼でき、真実であるものはただ一つしかないと、私は思うようになりました。それはもちろん、神の聖なる御言葉です。そうなると、私にとって唯一の問題は、そこに書かれていることを実際に理解することです。もしかすると、聖書に直接述べられていることと、推測に基づく解釈との違いに、私が十分注意を払ってこなかっただけなのかもしれません。先生のせいではありません。先生は、艱難期が2026年に始まるという年代について、それは解釈であるとはっきりおっしゃっていました。ただ、私には、すべてが解釈であるように感じられるのです。言葉の意味そのものも解釈次第であるように思えます。なぜなら、その言語を知っている人たちの間でさえ、意見が分かれるからです。

もう一つの問題は、教えられていることすべてを理解するのが、私には非常に難しいということです。私には先生のような学歴も語彙力もありません。例えば、「聞け、イスラエルよ。主はわれわれの神、主は唯一である」という言葉があります。先生は、この「唯一である」ということは、神が無限であられることを意味し、ほかのすべてのものは数えることができるけれども、「一つ」であられる神だけは数えることができない、と教えておられます……。でも、私は「一」という数を数えることができますから、この説明は私にはまったく理解できません。それでも私は自分にこう言い聞かせます。「ボブ先生はご自分の言っていることをちゃんと分かっておられる。あなたにはまだそれを理解するだけの頭がないのだから、先に進みなさい」と。学びを進めているうちに、あるいはメールを読んでいるうちに、後になって理解が深まることもあります。何年もの間、私は質疑応答メールを読む際、実際には質問の部分を読まず、先生の回答だけを読んでいました。質問者の考えを先生の教えと取り違えて覚えてしまうことがないようにするためです。今では先生から多くのことを学んできたので、以前よりも自信がつきました。最初の頃は、__さんと__さんについてさえ、私よりもはるかに学びが進んでいて、先生が教えておられることをすべて暗記しているのだと思っていました。しかし、ようやく、あの方たちもまだ努力し、学び続けているのだと分かりました。つまり、あの方たちは「教師」なのだから、彼らと話すことは先生と話すことと同じようなものだと思っていたのです。しかし、私にとって先生となれるのは、先生だけなのだと分かりました。なぜなら、私が尊敬し、信頼しているのは先生だからです。先生こそ、原語と御言葉を扱うための教育を受け、長年の経験を積んでこられた方なのです。そして、このことが、私の次の問題となり得ることにつながります。

もしかすると、私は先生をあまりにも高い台座の上に置いてしまっているのかもしれません。実際、時にはそうしてきたことを自分でも分かっていますし、先生がその台座から引きずり下ろされるようなことは、本当に望んでいません! 先生は前回のメールで、「私たちは神の御言葉に信頼を置く」とおっしゃいました。しかし、私は先生にも信頼を置いてきました。この二つの信頼を、どのように正しく釣り合わせればよいのか、よく分かりません。主の再臨の年代について、先生がそのように解釈される理由を学んできましたが、その説明は私には納得のいくものです。そして、私自身は、それが一年かそこら早く起こる可能性さえあるのではないかと考えたことがあるだけです。実際、昨年の秋からは、これから起こる出来事についての主の告知を見逃さないように、秋の祭りの時期には特に注意を払おうと心に決めていました。

私は今、涙を流しながらこれを書いています。先生が何か言い間違えられたのだとして、そのことで先生に強い罪悪感を抱かせたいわけではありません。しかし、私はそれが単なる言い間違いだったとは確信していません。「私たちには分からない」ということと、「私たちには絶対的な確信をもって知ることはできない」ということの間には、大きな隔たりがあります。先生はご自分の解釈に自信を持っておられるとおっしゃっていますが、その確信がどの程度のものなのか、もう少し具体的に知りたいのです。先生なら、償還まで15年の債券を購入されますか。もし屋根を新しくする必要があるとしたら、耐用年数15年の屋根材と30年の屋根材のどちらを購入されるでしょうか。

私たちは、神がいつ私たちを天の御国へ召されるか分からないのですから、毎日を人生最後の日であるかのように生きるべきです。しかし、それでも私たちは皆、将来に関する決断をしなければならないように思えます。この地上での私の将来は、あと12年ほど(多少の前後はあるとして)に限られているのでしょうか。それとも、ほかの教師たちが言うように、私たちには分からないのでしょうか。息子と一緒に聖書の学びを始めた頃、息子は私に、もし先生の年代についての考えが間違っていたらどうするのか、と尋ねました。私はそのとき、たとえそうであっても、聖書をさらに深く学んだことを後悔することは決してないだろう、と答えました。息子も同意しました。もちろん、今でもその考えは変わっていません。先生、ありがとうございます。

キリストにあるあなたの者より

返信 #11:

まず、あなたがおっしゃったことはすべて、実によく考え抜かれていると思います。そして、あなたの観察や結論のすべてに、私も全面的に同意します。あなたの根底にある疑問に答えてみたいと思います……。

聖書が語っていることは真実です。聖書に直接述べられていないことを、そこから推論によって導き出す場合、それは解釈です。

聖書の事実: イエスは神です(例:マタイ1章23節; ヨハネ1章18節; ローマ9章5節; テトス2章13節; ヘブル1章8節; 第一ヨハネ5章20節)。

聖書の事実: イエスご自身が語っておられるように、艱難期が訪れます(マタイ24章21節; マルコ13章19節)。

聖書の事実: 艱難期は7年間続き、大艱難期はその半分の期間続きます(ダニエル7章25節; 9章25-27節)。

聖書の事実: 千年王国は1,000年間続きます(黙示録20章2-7節)。

聖書の事実: 異邦人の時代とユダヤ人の時代は、合わせて約4,000年間続きました(聖書に基づく年代計算については、こちらのリンクを参照)。

聖書の解釈: 教会時代も2,000年間続き、それによって、創世記に記されている再創造の七日間に対応する、人類史の完全な7,000年間が構成されます(この解釈に対する確信の度合いは非常に高いものです。それは、前述の事柄に加えて、ヘブル人の祭儀暦に含まれる情報があるからです。しかし、聖書は実際にはこの数字を直接示しておらず、推論によって導き出さなければならないため、これは解釈なのです)。

では、2026年についてはどうでしょうか。艱難期が千年王国に先立って起こり、復活が艱難期の後に起こることは、確かな事実です。教会時代は奥義の時代であり、一方ではキリストの十字架と復活、他方では艱難期の開始という二つの出来事の間に置かれています。そして、艱難期の開始時期については、教会時代の2,000年間が終わった直後に始まると解釈するのが妥当です。

しかし、キリストの十字架刑と墓からの復活の年代は、聖書の証拠と一般の歴史資料を組み合わせることによって特定されます。前者をどのように理解すべきかについては、私たちは高い確信を持っていますが、後者については、当然ながら、そこまで断定的になることはできません。なぜなら、それは聖書から得られる情報ではないからです。例えば、ルカがヨハネのバプテスマの宣教の年代を示す際、つまり、キリストの3年半にわたる宣教の開始時期を特定するために必要な年代を示す際、ルカ3章1節で「皇帝テベリオの治世の第十五年」と述べています。私たちは、この言葉が何を意味するのかについて十分な理解を持っており、一般の歴史に照らしても、それがいつであったかについてかなり確かな見当がついています(すなわち、紀元28年8月19日から紀元29年8月18日までの間です)。しかし、この年代の特定は聖書そのものではなく、一般の歴史記録に基づいています。その記録は、この場合かなり確かなものではありますが、完全な聖書とは違って、完全なものではありません。

私は、年代に関する聖書のさまざまな記述と、私たちが持っている一般の歴史的証拠とを照合するために、多くの時間と労力を費やしてきました。その結果は、先ほど紹介したリンク先に示してあります。私はこの結論に確信を持っているでしょうか。はい、持っています。しかし同時に、これは変動する可能性のある多くの要素に基づいて組み立てられた解釈であり、その証拠の一部は聖書に由来するものではないことも理解しています。ですから、十分な謙虚さをもって、私が提示した2026年という年代が、実際には数年早かったり、逆に数年遅かったりする可能性があることを認めるべきだと考えています。誤解しないでいただきたいのですが、私はそうなるとは思っていませんし、そうなると予想しているわけでもありません。しかし、これまで申し上げてきたように説明することは、主の御前における私の責任なのです。

この情報を踏まえて「何をすべきか」という点についてですが、私は債券を購入しません(それにはお金が必要ですから)。私は何とかやりくりしながら暮らせていることに満足していますし、主が私をこの地上に置き、この働きに携わらせてくださる限り、神の助けによって、これからも何とかやりくりしながら生きていくつもりです。私たちの地上的な見方から状況が「良い」ものであろうと「悪い」ものであろうと、それは変わりません。艱難期が来なくても、状況が非常に悪くなることはあり得るのです。

私は第二次世界大戦について学んできた者ですが、当時、多くの人々が経験した時代や状況を振り返ると(生き延びた人々も、そうでなかった人々も含めて)、艱難期がそれよりもはるかに悪いものになるとは、なかなか想像できません。しかし、もちろん、艱難期はそれ以上に悪いものになるのです。先ほど引用したように、私たちの主ご自身がそう語っておられます(マタイ24章21節; マルコ13章19節)。しかし、第二次世界大戦を経験した世代の人々も、多くの場合、災難が迫っていることを予見できませんでした。そして、多くの大陸で、数え切れないほどの人々がすべてを失ったのです。

要するに、私たちには明日があるかどうかさえ分からないのです。まして、15年物の債券が満期を迎えるまでに何が起こるかなど、分かるはずがありません。私たちはヤコブが勧めている姿勢を取り、「主の御心であれば、私たちは生きていて、あれやこれやをしよう」(ヤコブ4章15節 NIV)と言うべきなのです。そうするなら、私たちが日々の生活をどのように送るかという実際的な面において、艱難期が明日始まろうと、百年後に始まろうと、あるいはその間のいつ始まろうと、本来それは問題にならないはずです。艱難期が近づいている可能性を考慮して、賢明な備えをすることは間違いではありません(例えば、目的意識を新たにして霊的成長に力を注ぐことなどです)。しかし、今日行うことが正しいのであれば、艱難期がいつ始まるかにかかわらず、今日それを行うべきなのです。少なくとも、これが私の考えです。参考になるかどうかは分かりませんが。

私は預言者ではありません。預言の賜物を持っていない私は、御霊の助けと、自分に与えられた賜物、そして聖書の勤勉な研究を通して、聖書について理解することを許された事柄を教えています。聖書がその点について何も語っていないため、あるいは教えの一部が聖書以外の情報に基づいているために、「解釈の余地」がある場合には、そのことを明確に指摘するのが私の務めです。特に今回のように、読者が「先走って」(第二ヨハネ1章9節)、与えられた情報を誤って適用してしまうおそれがある場合には、なおさらです。

結局のところ、私たちがこの地上にいるのは、ほんのわずかな期間にすぎません。私たちが下す決断、特に重要な決断が、永遠を見据えてなされるものであり、私たちの主人を喜ばせ、その裁きの座で良い評価を受け、豊かな報いを得ることを目指しているのであれば、それらは艱難期がいつ始まるかにかかわらず、良い、正しい決断となるでしょう。しかし、私たちの関心が自分自身に向けられており、本当に気にかけているのが自分の快適さや幸福だけであるなら、同じことが当てはまります。たとえ艱難期の正確な年代について私たちの考えが正しかったとしても、私たちの行動が自己中心的なものである以上、それに備えて何をしようと、実際には意味がありません。なぜなら、あの偉大な日に、主の御前ですべて焼き尽くされてしまうからです。

友よ、これらのメールで示してくださった温かいお言葉と、あなたの真摯な姿勢に、心から感謝しています! そして、あなたが真理に献身しておられることを喜ぶ一方で、これらの教えのいずれかがあなたに苦悩をもたらしてしまったのだと考えると、胸が痛みます。上記のどの点についてでも、どうぞ遠慮なくまたお便りください。

「私はそのとき、たとえそうであっても、聖書をさらに深く学んだことを後悔することは決してないだろう、と答えました。息子も同意しました。もちろん、今でもその考えは変わっていません。」アーメン、アーメン!

私たちがその再臨を待ち望んでいる、祝福された希望であるイエス・キリストにあって。

ボブ・L

追伸:長い質問を飛ばして回答だけを読むのは、あなただけではありません。しかし、今回のあなたの貴重なご意見については、ぜひ皆さんに読んでいただきたいと思っています。