窮地における信頼と神の介入

さて、イエス様は十字架とよみがえりの「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。それは、だから自分はまだ奇跡などの行動を起こす時ではないということでもあったと思います。しかし、実際はどうだったでしょう?水をぶどう酒に変えるという驚くべき奇跡を起されました。それはイエス様の意志でなされたのではなく、イエス様はただ天の父の示されることに従ったのであり、天の父は状況を見られて、ここでイエス様がメシアとしてのしるしを示す機会を与えられたのだと思います。

母マリヤはぶどう酒が無くなってしまいそうな状況の中で、婚礼の主催者側の一人として息子であるイエスに助けを求めていましたが、イエスの「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」という言葉に、意味は理解できていなかったものの、ハッとさせられたのではないかと思います。そしてマリヤは、婚礼で給仕をする僕たちにこう言いました。「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」(ヨハネ2章5節)と。マリヤは、その婚礼の場の必要を満たすために取り仕切ることを止めて、イエスに任せる態度を取ったのです

神は、このマリヤの謙った態度に応えられたのではないかと思います。否、応えざるを得なかったのかもしれません。そして、神はイエス様がメシアとしてのしるしを示す最初の奇跡をここで成すようイエス様を導かれたのでした。

イエス様は御自分の指示を待つ僕たちに6つの石の水がめに水をいっぱいに満たすように言われました。聖書には「ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。」(ヨハネ2章6節)とあります。ここに書かれているように、この石の水がめは手を洗ったりするために使うきよめの水を入れるもので、飲み水を入れるものではないようです。そのかめに水をいっぱいに入れなさいとイエス様は言われたのです。「四、五斗入る水がめ」とありますが、一斗は約18リットルですから、大体72~80リットルくらいです。ちなみに新改訳には「二あるいは三メトレテス」とあり、一メトレテスは40リットルなので、80~120リットルということになります。

僕たちはイエス様の言われた通り、この量の水を6つの水がめいっぱいに入れました。それは時間もかかる大変骨の折れる作業だったと思いますが、彼らは意味もわからないまま従順にイエス様の言葉に従ったのです。そしてイエス様の指示でその水を料理がしらのところに汲んで持って行った時には、ぶどう酒に変わっていたのでした。

イエス様が成されたことは、ただ僕たちに指示を与えただけでした。水に何も手を加えることもなければ、水がぶどう酒になるよう命じられたわけでもありませんでした。そして僕たちがしたことは、マリヤの言いつけ通りにイエス様の指示に従い、石の水がめに水をいっぱい入れ、そのかめから水を汲んで料理がしらのところに持っていただけでした。何のために水を入れるのですか?こんなことをして何になるのです? という質問をしたいのは山々だったかも知れません。そして、それまでにイエス様が何か奇跡を行ったことはありませんでしたから、彼らはイエス様がまさか水をぶどう酒に変える奇跡を行うことなど期待していなかったと思います。彼らはとにかくさっぱり意味がわからないままに、ただイエス様の言葉に謙遜に従っただけだったのです。

私たちは、このマリヤと僕たちの謙遜で従順な態度に見習い、それを身につける必要があると思います。意味はわからないですが、とにかくイエス様のおっしゃることは何でもします、という姿勢です。

私たちは必要を抱えている状況に対して、自分が何とかしなければ、とその場を取り仕切りたくなるものです。肉の腕で動き回るのです。状況が切羽詰った状況であればあるほど、即行動し、静まって神に祈り、神が働いてくださるのを待つことをしないのではないかと思います。しかし、このマリヤや僕たちの態度から、静まってすべて神に委ねる、神が働かれるのを待つ、神の言われたことに即従う、ということがいかに神の力を引き出すかということを学べるのではないかと思います。