神の子となる力

しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

(ヨハネ 1章12節)

彼(イエス)を受け入れない者は、闇の中にとどまることになるのに対し、「彼を受け入れた者、その名を信じた人々には、彼(イエス)は神の子となる力を与えた」とあります。ちなみに「その名」とは「イエス」のことですが、へブル語で「イェシュア(Yeshua)」その意味は、「神(主)は救い」です。

 ヨセフが天使から、マリヤが身ごもっているのは、聖霊によるのである、そしてその名を「イエス」と名づけるように言われました。

(天使がヨセフに語っている:)「…(マリヤ)は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。

(マタイ 1章21節)

イエスの名の意味である「神は救い」は、何から救うかというと、この聖句によると、「罪から救う」とあります。

 ですから、「彼(イエス)を受け入れる」「その名(イエス)を信じる」というのは、神のひとり子イエスが、私たち人間を罪から救うために、人間の姿となってこの地上に来てくださったと信じることです。

 ところで、「~を信じる」という言葉は、ギリシャ語の「ピスチュウオーエイス」が用いられています。この原語の意味には、「従う」「服従する」という意味が込められています。つまり、それは行動、従順を伴う信仰のことを言っています。

 本当にイエスこそが、自分を救って下さる方だと信じているなら、行動が伴います。

救いの神が、自分にその手を差し伸べておられると信じているなら、その手をつかむことでしょう。

 ヤコブは、真の「信仰」というのは、行動に現れるものであると、ヤコブの手紙に記しています。

信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。

あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。…霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。

(ヤコブの手紙2章17~19,26節)

ということで、イエスを受け入れ、信じて、イエスについていく者は「神の子となる力が与えられる」ということです。今まで、自分の創造主である神から遠く離れ、つながりを持てなかったけれど、イエス様のおかげで、その関係を取り戻すことができるようになったのです。それは、神が父となって下さり、私たちが神の子になることができるということです。何という恵み、祝福でしょうか。

神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ(父ちゃん、パパ)」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。

(ガラテヤ4章6節)

そしてイエス様を信じ、神の子となった者は、神の御霊を受けるのです。

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。

(ヨハネ7章38~39節a)

<祈り>主イエスよ、私を救うために、神であられるあなたが、天の御座を離れ、人間となってこの地上に来て下さったことを感謝します。どうか、私があなたを信じ、あなたに目を留め、あなたについていくのを助けて下さい。あなたのお約束どおり、私の腹から生ける水が川となって流れ出るように、あなたの御霊が溢れ出ますように。