神が私たちを選ばれたということは、私たちの自由意志を排除するか?

https://ichthys.com/mail-Gods%20choice%20and%20our%20free%20will.htm

質問: 私はこれまで、「神のもとへ来るかどうかは私たち自身が選ぶのだ」と強く信じている人々の中で過ごしてきました。私も長い間、その立場で多くの仲間と議論していました。しかし、やがて、人間には信仰へ至る力などないと信じざるを得なくなりました。私はローマ9章や、その他パウロのさまざまな書簡を読むたびに、人間には選択の自由はないということ以外、どうしても信じられなくなります。ローマ9章には、何か別の解釈があるのでしょうか。それとも先生は、この二つの考え方は互いに両立し得るものだとお考えでしょうか。この問題が信者の間で非常に大きな論争になっていることは承知しています。そして、多くの人は、「神が選ばれたのであれ、私たちが選んだのであれ、とにかく信仰に至るのであれば、それで十分であり、この問題はそれほど重要ではない」という結論に達しています。しかし私は、この問いに対する答えは、クリスチャンが神、救い、そして地上における自分の務めをどのように理解するかという点に、きわめて重大な意味を持つと思っています。もし先生が、この問題について私と議論したくないと思われるのであれば、それでも構いませんし、そのお気持ちも理解できます。

返信: この問題についてお話しすることを、私は喜んでお引き受けします。クリスチャンの人生は、徹頭徹尾、「選択」に関わるものです。自由意志こそ、私たち人間がこの世に存在している理由です。それは、神のもとへ来ることを自ら進んで望む被造物を、神があわれみによって救われることを通して、悪魔に対する神のさばきが義であることを証明するためなのです(全五部から成る『サタンの反乱』シリーズは、おおむねこの命題を中心テーマとしています)。

私がこれまでにも指摘してきたように、選び(election)、予定(predestination)、予定決定(foreordination)などの教理について多くの誤解が生じているのは、宗教改革者たちがこれらを必要以上に強調したことに大きな原因があります。これらの偉大な神の人々は、事実上、「人は自らの行いによって天国へ行くことができる」こと、そして「ローマ教会が救いに値すると認める行いをしていない者は救われない」という一連のローマ・カトリックの教理に対抗していました。もちろん、この立場は聖書的でないこと甚だしいものですが、それに対抗するため、宗教改革者たち(特にカルヴァン)は、人間の意志よりも神の選び、すなわち神の選択を強調しようとしました。それ自体は悪いことではありませんし、厳密に言えば間違っているわけでもありません(宗教改革者たち自身が実際に述べていることを見れば分かります)。問題が生じるのは、彼らの解釈者たちが(本来なら、聖書を解釈すべきであって、聖書を解釈した人々を解釈すべきではないのですが)、これらの教理を必要以上に絶対化し、その結果、聖書が本当に語っていることをねじ曲げてしまう時です。確かに、私たち人間は神と比べれば無に等しい存在であり、私たちが持ち得る選択も神が与えてくださったものに限られています。また、神が私たちに示されることに対して積極的に応答するのでなければ、いかなる選択や自由意志の行使も、実際には真に積極的な選択とは言えません。別の言い方をすれば、私たちが本当に行うことのできる唯一の選択とは、神に「はい」と答えるか、それともそうすることを拒むかです。もし私たちが頑なになって「はい」と言うことを拒み(あるいは、高慢にも積極的に「いいえ」と言う)なら、私たちは神が私たちの人生のために定めておられる御心を退け、その結果として神のさばきを受けなければなりません。

ローマ9章などについての私の簡潔な説明は、宇宙の歴史の中で起こるすべての出来事を、神はあらかじめ細部に至るまで完全に知っておられた、というものです。しかし、神はご自身の道徳的被造物、すなわち天使と人間の双方について、その積極的な応答であれ消極的な応答であれ、あらかじめプログラムして私たちの真の選択を奪われたわけではありません。神は、私たちが選択を与えられたなら何をするかを前もって知っておられましたが、その選択を強制されたわけではありません。救いへと招かれる者は多くいますが、神を選ぶ者だけが選ばれる(elected/selected)のです(マタイ22章14節)。そして、これこそが「選び」という教理の神学的な要点なのです。確かに、それは神の選択です。しかし、その選択は、神が私たちの自由意志が神に応答することをあらかじめ知っておられることに基づいているのです。

これこそが、極端なカルヴァン主義者たちが見落としている点です。ローマ9章18節に、「神は、ご自身があわれもうと望まれる者をあわれみ、ご自身がかたくなにしようと望まれる者をかたくなにされる」とあるとおりです。しかし、神はすべての人が救われることを望んでおられるのではないでしょうか。まさにそのとおりです(第一テモテ2章4節第二ペテロ3章9節哀歌3章33節マタイ18章12-14節ヨハネ3章16節, ヨハネ12章47節, 使徒行伝17章27節参照)。ですから、もしある人々がかたくなにされるのであれば、それは神の御心によるのではありません(なぜなら、それは明らかに神の御心ではないからです)。したがって、彼らがかたくなにされるのは、彼ら自身の意志によるのでなければなりません(シリーズ「出エジプト記14章:パロの心がかたくなにされたこと」<英文>、および『来たる艱難期第3部A』の「c.背教のプロセス」<リンク先ファイルの29頁-/A5版4印刷本の29頁-を参照してください)。ですから、神がある者をあわれみ、他の者をかたくなにされるという神の選択は、決して恣意的なものではありません。聖書のあらゆるページが、神の正義と公平さを宣言しています。むしろ、それはこの問題を扱う他のすべての聖句が教えているとおり、私たちが神と、神が与えてくださった御子、私たちの主イエス・キリストに対してどのような態度を取るかに基づいているのです。

私には、私たちが自ら選択を行わなければならないことと、神が宇宙が造られる前からその選択を見越して備えておられたこととの間に、何の矛盾も見出せません。時間というものは、私たちにとってだけ問題なのです。神は時間を超越しておられます。一方では、自分の何らかの失敗のゆえに「自分は本当に選ばれているのだろうか」と疑い始める人々に恐れを生じさせ、他方では、「自分は選ばれているのだから、何をしてもその選びは揺るがない」と思い込む人々に危険な偽りの安心感を与えるという明らかな問題があります(そのどちらも聖書的な見方ではありません)。しかし、選びの教理に対する極端なカルヴァン主義的解釈が問題なのは、それが信者から、自らの行動に対する個人的責任という意識を切り離してしまうからです。神が主権者であり全能者であること、そして私たちはへりくだって神とその御心に応答しなければならないという見方を持つことは良いことです。それは真実だからです。しかし、すべては永遠の過去に神によって決定されているのだから、私たちが何をしても重要ではない、と信じることは霊的に危険です。なぜなら、私たちに関するすべてのことは、神の真理に賛成するか反対するかを問わず、私たちがこれまで行ってきた選択、今行っている選択、そしてこれから行う選択を神が完全にご存じであった上で、神によって定められたからです。

この点についてさらに詳しくは、次の資料をご覧ください。<英文>

信仰とは何か

自由意志による信仰と神の御心

救済論:救いについての聖書的研究(聖書の基礎第4部B)

神のご計画と予定

私たちの意志と神の御心

聖書における「選ばれた」という言葉

神のご計画における選び

私たちを贖ってくださり、私たちが信頼を置いている、あらゆる知恵に満ち、主権を持って支配しておられる主、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの御名によって。

ボブ・L