無神論と自然啓示
質問 #9:
息子がたった今、自分は無神論を信奉すると言い出しました。このことについて、何か助言をいただけますか。
返信 #9:
私自身の経験と観察から言えば、人生において、愛する人たちが悪い決断をし、それを自分の力ではどうすることもできないのを見ることほど、つらいことはほとんどありません。私自身の人生がこの点について何らかの指針になるとすれば、この種のことは、自分自身に起こる最悪の出来事よりも耐えがたい、と申し上げたいです。
もちろん、無神論は恐ろしい偽りです。しかし私は、聖書が述べている人間の状態についての事実が、無神論に向き合ううえで役に立つことを知りました。まず第一に、無神論者が出発点としている、「神の存在は証明できない」という立場は、信じがたいほど不誠実です。なぜなら、正常な精神能力を持つすべての人間は、その生涯のどこかの時点で、たいていはかなり早い時期に、神が存在するという事実を認識するようになるからです。私たち人間は、神のご計画によって、神の存在を認識する生来の能力を持って造られているだけでなく(伝道者の書3章10-11節; 使徒行伝17章27節参照)、「自然啓示」という圧倒的な証拠、すなわち、神の存在とその威光についての、被造世界そのものによる反論の余地のない証しにも直面しています(ローマ1章18-23節; 詩篇19篇1-6節参照)。したがって、無神論は本質的に不正直です。なぜなら、すべての無神論者が、少なくとも心のどこかでは真実でないと知っている偽りを、議論の基本的立場として採用しているからです。ほとんど例外なく、無神論者は神が存在することを認識しています(もっとも、その中でも最も心の鈍くなった人々は、その真理の火花を、かたくなになった心の奥深くに埋めてしまっています)。彼らが神の存在を否定することによって本当にしようとしていることは、神が自分たちの人生に対して持っておられるかもしれない、あらゆる権威や要求を抹殺することです。もし「神を殺す」ことができるなら、その高慢さは、星々にまで自分の権利を主張できるというわけです。しかしもちろん、人間の自我は、実際には悲しいほど小さな存在であるにもかかわらず、自分があたかも非常に重要であるかのような偽りの自己像を、世界中に、さらにはその向こうにまで広げることができます。それでも、神が定められた物事の自然な秩序を、これほど完全に逆さまにすることが、心の中に平安をもたらすことは決してありません。それが、無神論者たちが自分たちの「信仰」について、これほど攻撃的で戦闘的になる傾向がある理由の一つではないかと私は思います。彼らは「愚かなクリスチャン」を相手に簡単な勝利を収めることによって、自分の内側にある不安に対して偽りの慰めを得ようとしているのです。しかし、その心の病は決して完全には取り除かれません。そして私の考えでは、奇妙なことに、無神論を公言することは、時として希望のしるしとなる場合さえあります。少なくとも彼らは、真理を信じている私たちに、それを証明してみろと挑むほどには、この問題を気にかけているからです。だからこそ、私は自分の愛する人について、決して希望を捨てません。特に、その人が自分の立場を強く主張していること自体が、心の奥深くで知っている真理を完全に消し去ることができないために抱えている不安を示しているような場合には、なおさらです。
このような問題において、祈りの価値を決して過小評価してはなりません。時には、この種の勝利は非常に厳しい戦いを経て得られるものであり、達成までに何十年もかかることがあります。しかし、それは戦う価値のある戦いです。
あなたの息子さんのことを、私の祈りの中で覚えます。
私たちの愛する主、また救い主イエス・キリストにあって。
Bob Luginbill