泥に咲く花

暗きを創造された神

どうだっただろう?

もし、光だけで闇がなければ。

もし、朝と昼だけで夜がなければ。

もし、春夏秋だけで冬がなければ。

もし、晴れの日だけで、曇りと雨の日がなければ。 

私たちはともすると、光や暖かさ、そして安楽だけがあればいいのにと思いがちです。しかし、聖書には、「わたしは光をつくり、また暗きを創造し…」(イザヤ45章7節)また「暗黒を朝に変じ、昼を暗くして夜となし…」(アモス5章8節)とあります。

神は私たちが望むものばかりではなく、暗きを創造し、寒さに震える冬や、雨や曇りの日も創られたのです。

そして、愛であり万物の創造主であられる神様は、良い目的があって、病気や苦難を私たちが通過するのを許されているのです。

  神様からの最高の贈り物は、しばしば暗闇の中に隠されています。ちょうど生命が、暗い胎内の中で始まり育まれるように、人の魂における変化や新しい始まりも、一見、闇と見える中で始まるのだと思います。そして神様は、耐えられないほどに辛く思えるその闇の中でこそ、私たちの魂を大きく成長させてくださっているのです。

だから、光だけでなく闇があって

だから、朝と昼だけでなく夜があって

だから、春夏秋だけでなく冬があって、

だから、晴れの日だけでなく、雨や曇りの日があって、

・・・ それですべて良いのです。

<聖書のことば>

どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに…栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

(エペソ3章20、21節)

人知れずの戦い(2011年3) 

  今、毎日、原発がどうなったかや、被災地の状況が報道され、多くの人々の関心は、そこに釘づけになっているようです。しかし、そんな時にも、人知れずの戦いが、家庭で、また職場や学校でなされていることを考えていました。

  今自分の身近な世界で、他の誰にもあまり関心を寄せてもいない分野において、その危機を知っているのが、ただ自分と一握りのわずかな人たちしかいないという場合はよくあります。

  自分がそれをおろそかにしても、またその場を投げ出しても、周りの人は気づきもしないかもしれませんし、咎める人もいないかもしれません。逆に、それを思いを込めて忠実にしたとしても、やはり誰も気づきもしなければ、称賛されることもないでしょう。

  しかし隠れたことを見ておられる主は、その大変さと苦労、そしてその事の大切さを全て知っておられ、それに必ず報いて下さいます。

  小さな子供に毎日、おまる訓練をしているお母さんや、大きくなった子供の勉強、あるいは進路を決めるのを助けようとしている親も、そして老人介護に追われている人も、また人手不足の仕事場で、自分が助けなければ他の人がとても困った状況に置かれるために割れ目に立っている人も、経営のやり繰りに追われている人も、仕事を探してもなかなか見つからない人も、借金をどうやって返したらいいかわからない人も、人間関係の断絶に悩む人も、そして、孤独や悲しみ、不安と恐れに打ちひしがれている人を前にして、何とかできる限りのことをして助けようとしている人も、すべてイエス様はご存知なのです。

  一生懸命しているのに、誰も助けてくれず、自分にはもうやり続ける力も忍耐もないと孤独の内に思い沈む時、主(イエス)は助けの手を差し伸べて、こう語ってくれます。

「私はあなたの直面している困難を知っているよ。あなたの喜びは私の喜び。あなたの悲しみは私の悲しみだ。だから私にあなたの重荷を共に負わせてほしい。そうしたら、あなたの一日は、明るくなるから」と。

多くの人々の注意が、一つの事に向けられている最中にも、誰にも顧みられない小さな隠れた場所で、大事なことを毎日し続けている方々を私は尊敬します。彼らの忠実さこそが、より良い明るい世界を造りあげているのだと思います。

どうか隠れていることをすべて見ておられる主が、そういった人々、一人一人に豊かに祝福を注いでくださいますように。

<聖書のことば>

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

(マタイ11章28~30節)

「ニグルの木の葉」を読んで

 「パパ、この本読んでみて。きっと気に入るよ」と言って、十六歳になる娘がトルキーン(ロードオブザリングの著者)の書いた「ニグルの木の葉」というお話を図書館から借りてきてくれました。短いお話だったので、私は一晩で読んでしまいました。

 その娘だけではなく、その本をすでに読んでいた他の3人の子供たちも 「パパ、どうだった?良かったでしょう?」と尋ねてきました。子供たちは皆それぞれに、その物語の深さを感じとっているようで、私がその物語を気に入るとわかっていたようでした。

 私は「とても良かったよ!」と言うと、みんな満足そうに微笑んでいました。

 本を勧めてくれた娘が言いました。「このファンタジーは、トルキーンがほぼ一日で仕上げたものらしいよ。何か神様がトルキーンに夢で教えてくれたメッセージのようで、とても意味があるものだと思ったんだ。パパだったらそれを読んで、どんな感想を聞かせてくれるかなと思って」

 なるほど、確かにこの物語は神様からの深いメッセージが込められているように感じました。内容のあらすじは次のようなものです。

 長旅に出る予定の主人公、画家の二グルは、その旅の準備もできずにいました。絵を仕上げたいと思っていても、隣人の足の不自由なパリッシュに、何かと二グルは助けを求められるのでした。屋根の剥がれた瓦の修理やら、奥さんが病気の時は、食材の買い出しなど・・・。それが二グルの絵の仕事を邪魔していたのです。

 二グルには描きかけの絵がいくつかありましたが、その中でも一番苦労していたのが、一枚の葉から描き始めた木の絵でした。二グルはその絵を描くことだけに専念することにし、ある程度描けたのですが、結局完成しないまま、旅立ちの日が来てしまいました。

 その後、彼は旅先で倒れ、救貧院に運ばれます。彼はそこで厳しい労働を強いられ、外出も許されず、自由を失ってしまいます。そして彼は今までの人生を振り返り、反省します。特にパリッシュをもっと助けなかったことを悔いるのです。

  やがて彼は、その救貧院から出され、自由の身になります。そして、外に出た彼は、自分がなかなか描くことのできなかった、 絵の中の木と出会うのです。それを見た二グルは自分の描いた木に何が欠けているのか、またそれを補うにはパリッシュの助けが必要であることを悟るのでした。そしてその後、二グルはパリッシュと一緒に住み、二人で力を合わせて、ついに、二グルが一人では完成できなかった絵を完成させることができたのでした。

誰の人生にも、邪魔や障害とも思える状況や人が、自分のしようとしていることの前に立ちはだかっているように思えることが、よくあるのではないでしょうか?ニグルの場合も、パリッシュはただ自分の絵の仕事の邪魔に思えました。しかしパリッシュは、実は二グルにとって、大作を仕上げるのになくてはならない大切な人だったのです。

 同じように、私たちの人生にとって鍵となるものも、これさえなければ、あるいはこの人さえいなければと思っている、障害に見えるもの(人)なのかも知れません。

 その障害に見えるものを、邪険にではなく、大切に思う時、そのものこそが実は自分が進み続けるための力であり、また自分自身を助けてくれる、欠かせないものであることに気付くのではないでしょうか。

 あなたには、パリッシュのような人がいますか?

彼は、今、何をしているでしょうか?

貧乏草

 道ばたの貧乏草が背を曲げてうつむいていました。花びらは、半分閉じていて、ちょっと顔を上に向けようかどうしようか迷っているように横を向いていました。

 私はその花に「上を向いたらいいよ。きっといいことあるから。」と心の中で話しかけました。

それにしても「貧乏草」なんて、変な名前をつけられたなー。一生懸命咲いても、誰にも目も留められず、厄介者扱いされて・・・。もしかしたら、悲しい思いをしているのかもしれないな・・・。

 私はそんなことを思いながら、そこを立ち去りました。ところが、昼にまたそこを通ると、驚いたことに、その花がこちらをまっすぐに見て、花びらをいっぱいに開いて咲いていたのです。

 あまりにもしゃきっとしている貧乏草の姿は、神々しい光さえ放っているように見えて、びっくりしてしまいました。まるでさっきの私の心の中の言葉を聞いて、それに応えてくれたかのようでした。

 貧乏草とよばれるこの植物は、ハルジオン(春紫苑)とヒメジョオン(姫女苑)といいます。4~5月に咲くのは、ハルジオン。ヒメジョオンは、5月から晩秋まで咲いていて、昔、観賞用に海外から取り入れられたものだそうで、当時はさぞかし貴重な花として愛でられていたのでしょう。しかし、今は繁殖してどこにでも咲いていて、邪魔物扱いさえされます。

そんな貧乏草が、私の言葉に反応してくれたのでしょうか?この花に限らず、植物は皆生きていて、私たちがかける言葉や思いに反応すると聞いたことがあります。特にこの貧乏草は、人から関心をもらわない存在だからこそ、目を留められて示された少しの愛情にさえ、大きく反応したのかもしれません。

 人々から目も留められない存在・・・。私たちの身の周りにも、こういった人がいるかもしれません。そして、それは、現代に限らず、イエス様の時代もそうでした。イエス様のそばにも、この貧乏草のように、社会から無視され、軽蔑されていた人が大勢いたのです。

 イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。

(聖書:マタイ 9章10節)

 また人の子がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。

(聖書:マタイ7章34節)

 主はそのような、貧しい者、社会から蔑視されていたような人たちに憐れみを持たれ、彼らを助け出されました。

今、孤独で、人知れず悲しい思いをしている人がいるなら、主は今、優しく話しかけられ、励ましの言葉を授けようとしておられます。

どうか、上を向いて微笑みを輝かせることができるように、主が、その悲しみを喜びに変えて、賛美の衣を与えてくださいますように。そして主の栄光をあらわす者としてくださいますように。

 <聖書の言葉>

主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。

(イザヤ61章1~3節)

虚像を見透かして

 何年も前、東京駅で最終電車に乗り遅れたことがありました。その時は、寒くなり始めた晩秋の頃だったと思います。近くの安いホテルを探そうか、あるいはタクシーに乗ろうか、と迷いましたが、貴重なお金をそんなことに使う余裕もなかったので、駅の辺りで一晩を過ごす事にしました。

  冷たい風の舞う中、ホームレスの人が駅の階段の所で、新聞紙を敷いて寝ていました。私もしばらく腰を降ろしていましたが、寒くて長くは座っていられません。私は歩き回って、暖をとれるような場所を探しました。コンビ二を見つけたので中に入りました。 何かを買わなければと思い、暖かい飲み物を買いました。そして外に出て飲みましたが、しばらくするとまた寒くなり、再びコンビニに入りました。別に買いたいと思うものもなかったので、どうしたら良いものか、迷っていると、店の人に、「用がないなら、出てください」といったようなことを言われたのです。普段コンビニの店員さんが、私に示してくれる愛想などは全く見られず、自分がとても冷たく扱われて、非常にびっくりさせられ、またが っかりさせられて、その店を出たのを覚えています。

 彼らはきっと、暖まりたくて店に入るホームレスの人がいたら、きっと同じように追い出すのだろうと思いました。その人の事情も知らず、またそれを知ろうともせずに・・・。 

当たり前のことなのかも知れませんが、お店側にとっては人を見る時、利益になる人か、ならない人かのどちらかで、それを外見で判断するのでしょう。しかし私は思いました。それはお店や商売人に限ったことではなく、人は誰でも、自分にとって、あるいは自分がしようとしていることにとって、利益になる人か、邪魔になる人かという、簡単な判断で人を見てしまい、邪魔になる人に関しては、非常に冷酷な態度を取ることがあるのかも知れないと思いました。

 自分もその点では、非ありです。私は何年か前、自分では気づかなかったのですが、自分の娘に対してそれをしていました。

当時娘は摂食障害でした。思春期の頃から、彼女はどんどんそれに深くはまり込み、間違った考えに捕われて、まさに別人のような行動をとるようになりました。そんな娘に対して、私は理解のない思いを持ち、娘と私の関係はとても良いものとは云えませんでした。

  私は初め、娘の態度を見て、自分の忠告を聞き入れようとしない、何て強情で反抗的な娘なんだ、と思っていました。しかし、だんだんと彼女のハマってしまっている状態が、どれだけ大変で、自分でもどうにもできない状態なのだと、色々な資料を読んだりしていく内に気づくようになりました。私が彼女に対して、していた判断は、的を外していたものだったのです。

 それ以来、私は必死に祈り、また他の人たちにも祈ってもらい、娘のどのような態度にも、「裁く」のではなく、彼女の立場で物事を見る努力をしました。これは簡単なことではありませんでした。自分の目に見せつけられる彼女の悪態は、とても理解し難いものだったからです。まず私の方から変わる必要があり、それには奇跡が必要でした。しかし、多くの方々のお祈りのお陰で、私の見方も次第に変わっていきました。

 主の示しておられたことに対して、家内と私がついに心を譲渡した時に得た導きは、彼女がどんな状態であろうと、またこれからどうなろうと、主を賛美する態度を持つということでした。そして、皆さんの祈りに支えられ、そのような態度でいられるよう、必死に努めました。それ以来、娘は少しづつ変わり始めました。一歩前進二歩後退、二歩前進一歩後退の繰り返しでしたが、長い目で見ると、上向きの方向に進んで行ったのです。妻や私にとっても娘にとっても、長く辛い忍耐の試される時でした。

 娘に進歩が見られるようになったある日、この娘が一枚の絵を描いて私に渡してくれました。それは、私が小さな姿の娘の手をとっている絵でした。そしてそこに、こんな言葉が添えられていました。

「パパ、私を見捨てないでくれてありがとう。」

 私は、彼女のとっていた態度、外見を見越して、愛と助けを必要としていた彼女の心の叫びに、思いを留めようと必死に努力していましたが、娘は、それを感じとってくれていたのです。

 そして、私は、自分達の目に映っていた娘の悪い態度や言葉は、すべて虚像に過ぎないのだと、その時、はっきり分かりました。

  私たちは、相手の心の深く知りもせずに、簡単に目で見えているわずかな情報だけで、判断してしまうところがあります。しかし、私たちはもっと、神様は自分にどんなふうにその人を見てほしいのかということに、思いを集中させる必要があるのだと思います。そして、人を見る時の判断の基準は、「この人をこのように見ることは、主の愛だろうか?」であるべきだと思うのです。

ほとんどの場合、私たちの目で見る人の外見は、虚像に過ぎないのかも知れません。もしかしたら、悪魔が、相手のことについて、見込みのない状態で、あきらめたらいいとまでささやいているのかもしれません。

その虚像を見透かし、主が、示しておられるその人の真の姿が見えるように、そして主の愛の目を通して、その人を見ることができるように、イエス様に必死に祈り求めようではありませんか。

< 聖書のことば>

神には、なんでもできないことはありません。 

(ルカ1章37節)

奈落の底で見たもの

  また仕事で東京に出てきて、昨夜は東京に住む娘と話をする機会がありました。最近どうしているかとか、何に取り組んでいるかとか、久しぶりに夜遅くまでゆっくり話をすることができました。

その中で娘はこう言いました。

「私は、今とっても幸せ。以前のことが、信じられないくらい」と。

  この娘は、以前、摂食障害で、本当に辛い時期を何年も過ごしました。彼女は生きることを何度もあきらめそうになりました。本人は体重が35キロになり、ガリガリに痩せてしまっても、まだ太っていると信じ込み、食事を取ることを拒否、勧めると茶碗を投げつける始末でした。そんな絶望状態の中でも、妻や私はあきらめることはできませんでした。何度も友人たちに祈りをお願いし、彼女のそばに24時間付きっきりでいた時期もありました。それは本当に、人間の力では太刀打ちできない悪の霊との戦いであり、つらく長い歳月でした。

しかし、今はとても幸せだ、と微笑む健康そのものの娘が目の前にいる・・・。

私はあの時、娘と辛い戦いを共にできたことを感謝しています。共に苦しみ、試練を通過したからこそ、勝利の喜びを共に味わうことができたのです。

  いえ、彼女の苦しみを本当に共有できたかというとそうではないのでしょう。恐らく、本人しか知らない苦しみがたくさんあり、私はそのほんの一部を共有したに過ぎなかったと思います。しかし、その共有部分が少しでもあるというだけで、とても尊く思えるのです。共に神様にすがり、共に神様の救いを見、それを共に喜べたことが。

 あの頃、奈落の底で、私たちは、こんなところに転げ落ちたのは自分のせいだ、あるいは相手のせいだと責める気持ちに駆られていました。確かにそれぞれに非はあったのでしょう。私たちには学ばなければならないことがたくさんありました。しかし神様はただそれだけの理由で、私たちにつらい試練を通過させていたのではありませんでした。

苦しみを通過する事によって、その闇の中にあっても、イエス様が手を引いてくださっていることを、また、娘は死にたいと願い、私までもが、いつこの子の命の炎が絶えてしまうのかと怯え、捨てられたように思えた時も、主は決して見捨てないのだということを、教えて下さるためだったのです。

 そのお蔭で「主はどんなことがあっても決して捨てられない。負けそうになっても、逆転はすぐに来る。」という信仰が強められました。そして今は、そうして下さった主の真実を証しすることができます。

確かに私たちは見ました。暗闇の奈落の底で、明るく優しく輝く一筋の光を。そして私たちがどこに行こうと、決して逃れられない神の深い愛を。私たちは、その神の愛の証人です。

今、もし、自分の愛する人がどうしょうもない苦しみに喘いでおり、それを目にして、共に辛い時を過ごしているなら、今は、神様の尊い愛を、愛する人と共に体験させてもらっているのだ、ということを覚えていて下さい。そして、最も深い闇は、夜明けの直前に訪れるのだということも。

神様があなたと共にいて、導いてくださいますように。

泥に咲く花

人が踏み込んだら汚れてしまう

近づかないでいたいと思わせる

そんな泥沼に

私は埋もれている

他の花たちのように、

周りをレンガで囲まれた所や

白くペンキで塗られた木の柵の中に

きれいに植えられることはない

邸宅の中を飾る役目をもらって

部屋のど真ん中の

天使のレリーフのついた鉢に植えられて

テーブルの上で皆の注目を浴びるということもない

私だけどうしてこんな泥沼に?

何故、神様はこんなに不公平なのですか?

涙の内に、幾度も叫んだ

神様はついに答えられた

我が子よ

愛する私の花よ

最も低い所の

人が近づけない

涙の泥の中で

あなたの心は清められているのだよ

やがて、あなたは

天の栄光を映すようになる

あなたの純白の花びらの間から

私への賛美が溢れるようになり

その美しさに立ち止まって

感動のため息を

もらさない者はいないようになるだろう

喜びなさい

この泥こそが

あなたに大切な養分を与え

地上で無二の美しいものに

成長させているのだから

私はあなたを片時も離れず

あなたを見つめ

あなたの成長のために

必要な光と水と養分と風と

全てを注いでいる

あなたのための

私の計画と業は成就する

だから、まだその時を見なくても

あなたの置かれた、その泥の中から

賛美と喜びの声を聞かせてほしい

あなたは特別に選ばれて

私の栄光を表すために創られた器

苦難の泥から、まばゆい輝きを放つ

わたしの愛する花として

泥に咲く花 パート2

 花よ、お前は

 清らかなせせらぎの中で

 育つのを願うのかい?

 心配しないがよい。

 お前を取り囲む泥は

 お前の純白の美しさを

 少しも汚してはいないから

 田中正造は「せっちん(トイレ)に閉じこめられて」という題の文章の中で、渡良瀬川の沿岸にあった谷中村が、足尾銅山の鉱毒によって、滅亡に追いやられた時、泥まみれの残留村民の中にこそ、天国があると語りました。

(※彼は鉱毒に汚染された泥まみれの村を、せっちん(トイレ)に例えました)

 谷中村民は政府から無謀な強制立退きを命じられ、家屋も打ち壊され、さらに洪水に襲われて、泥の中で寝起きをしていました。しかし、あらゆる所有物を奪われた彼らに、神様は精神的富を豊かに授けて下さっていたのです。

 聖書に次のような言葉があります。

「心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである」(マタイ5章3節)

 田中正造は、そうした泥の中の谷中村民の生き方に、この聖句の真理を見出していました。

私たちは時々、予期してもいなかった泥沼に、突然投げ込まれてしまったように思える時があります。この泥の中にいたら、もう終わりだ。泥に埋もれて醜い状態になってしまっている、もう自分はだめだ、と思うような時が。

 しかし、泥に浮かぶ花を見る者の目は、泥にではなく、泥とは対照的な、そこに浮かぶ純白の花びらに注がれています。泥に閉じこめられた魂は、その中で栄養が与えられ、成熟され、美しい輝きと芳香を放っているのです。そして泥の中に咲いた花の美しさは、他のどんな場所に咲く花よりも一層美しく引き立つのです。

 だから覚えていて下さい。神様が私たちを泥沼のように思える状況に置かれる時、それは私たちに惨めな思いをさせ、絶望させるためではないということを。

そうではなく、それは泥沼の中で、より美しい花を咲かせるためなのです。

 泥沼に咲いた花はきっと、それを見る人々を感動させ、励まし、生きる勇気と希望を与えることでしょう。

 あなたはそのために召されています。

 そして、そのための愛と力と忍耐は、神様が注がれます。

<聖書のことば>

 わたしたちは、さらに彼により、今立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけでなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終わることはない。なぜなら、私達に賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちに注がれているからである。」

(ローマ5章2~5節)

重荷か、祝福か

(アクティベート ジャパン出版の「困難を乗り越える」から、抜粋)

「重荷か、祝福か」

かつて、主を心から愛し、主を喜ばせることだけを願っていた女性がいました。

「あなたがおっしゃることなら何でもします。」彼女はそう約束しました。心の中では秘かに、人々の尊敬を集めるような奉仕の場を望みつつ・・・。

ところが驚いたことに、主は彼女に、ごわごわとしてどっしり重い麻袋を渡し、これを担ぎながら主とともに歩むように言われたのでした。中身はいったい何だろうかと思いましたが、丈夫なヒモでしっかり結んであったので、まだ開けてはいけないことは明らかでした。

主と共に歩いて行く内に、彼女はその荷の重さにへなへなとくずおれ、思わず「これは重すぎます」と言わずにはおれませんでした。するとイエスは優しくこう言い聞かせたのです。

「わたしの力はあなたの弱い所に完全に表れる。道が険しすぎて倒れそうになったら、わたしに寄りかかりなさい。」

こうして女性は時々立ち止まって、荷が重すぎて負えないと言うと、イエスが一緒にその荷を負ってくださったのです。

やがて二人は目的地に着きました。その女性はイエスの足元に荷をおろし、安堵のため息をつきました。荷を負う日々は終わったのです。

するとイエスが目を輝かせてこう言いました。

「こっちにおいで。中に何が入っていたか見せてあげよう。」

イエスが手をさっと動かすと、結び目がほどけて袋の口が開き、中身がこぼれ落ちました。

「天の宝物だわ。」 その女性は、この世のものとは比べ物にならないほどの美しさを放つ宝物に感激し、声をあげました。イエスはこう説明しました。

「これは、わたしがあなたのために用意した永遠の報酬だよ。あなたがわたしのために経験し、苦しんだすべてのことへの感謝をこめた贈り物だ。」

驚きは喜びの涙に変わり、その女性はイエスの足元にひれ伏してこう言いました。

「ああ、主よ、私をゆるしてください!長い年月の間、ずっと誤解していました。あなたを信頼せず、疑ったりまでしたことが悔やまれます。袋の中身が何か知っていたら、かつぐのも喜びだったでしょうに。決してぶつぶつ文句を言ったりしなかったことでしょう。

私たちにしばしの苦痛を与えることを、

愛に満ちた神が喜ぶだろうか

だが、神は知っておられる

この十字架を負うならば、その向こうに

永遠の祝福という喜びがあることを

― イングラー

明日に架ける橋

(歌詞は以下から転用させてもらいました)

「明日に架ける橋」♪

君が疲れ果て

落ち込んでいるなら

瞳に涙があふれているなら

僕がすべて拭ってあげる

君のそばにいるよ

辛い時だって

友達が近くにいなくても

荒れた海にかかる橋のように

僕が体を横たえるから

荒れた海にかかる橋のように

僕が体を横たえるから

君が打ちのめされ

道で立ちすくんで

暮れゆく夕暮れがつらい時

僕が励ましてあげるよ

暗闇がやってきて

苦しみに包まれても

僕が代わってあげるよ

荒れた海にかかる橋のように

僕が体を横たえるから

荒れた海にかかる橋のように

僕が体を横たえるから

銀の少女の帆を立てて漕ぎ出そう

君が輝く時が来た

夢が全て実現するんだ

その輝きを見てごらん

もし友達が必要になったら

君のすぐ後ろを僕が航海しているから

荒れた海にかかる橋のように

君の心に安らぎを与えよう

荒れた海にかかる橋のように

君の心に安らぎを与えよう

  これはサイモンとガーファンクルの有名な「明日に架ける橋」の歌詞です。この歌詞を読んで、何かを感じませんか? 一見、愛する女性に対する愛の歌詞のように思えますが、イエス様を知っている人にとっては、この「僕(ぼく)」というのは、イエス様そのもののように思えるのではないでしょうか?イエス様の私たちに対する深い愛を歌っているように思えるのです。とても美しいです。

イエス様は、私たちが疲れ果て落ち込み、瞳が涙であふれる時、

その涙を優しく拭って下さいます。

イエス様は、私たちがどうしょうもなく辛くて、近くにいてくれる友もいない時、

ずっとそばにいて下さいます。

イエス様は、私たちが打ちのめされ、道に立ちすくんだ時、

励まして下さいます。

イエス様は、私たちが苦しみに包まれる時、

代わって下さいます。

そして、イエス様は、私たちが輝き、自由に生きられるように、

十字架上で御自分の命を捧げて下さいました。

荒れた海に、その身を横たえて下さったのです。

この問題だらけの混沌とした世の中で、悩みと苦悩を抱えた私たちと、常に主は共に歩んで下さり、決してあきらめない愛で、私たちを慰め、励まし、導いて下さいます。まさしく、イエス様は私たちにとって「明日に架ける橋」なのです。

まだ、このイエス様を心に持っていないのなら、どうか今、この短いお祈りをして、イエス様を心に受け入れてください。

「イエス様、私の今までの過ちをすべて赦してください。今、心を開きます。どうぞ、私の心の中に入ってください。そして、永遠の命を与えてください。この人生を卒業するまで、どうか私と共にいて、全ての道で私を守り、また私が愛に生きられるよう導いてください。イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。」

イエス様と歩み始める新しい人生が、実りある、幸せな人生となりますように、心から祈っています。

 <聖書のことば>

私は決してあなたを離れずあなたを捨てない

(ヘブル13章6節)

主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである

(聖書:第一ヨハネ 3章16節)