慰めに満ちた神

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。 (コリント人への手紙第二 1章3節)

3月11日です。

東北大震災の日から11年目。

記憶というのは、不思議なものですね。

ある事柄は、そんなに何年も経ったように思えません。

つい、最近のことのように思い出すものがあります。

過去と現在、そして未来という時間の中で、私たちは、いろいろな体験をしますが、その体験を通して、学ぶ尊いことがあるのだと思います。

目に見えるものが過ぎ去っていく中で、決して変わらないものが続くのを私たちは、真実として学ぶのです。

愛は、いつまでも続きます。愛ではなかったことは、間違いであったことを学びます。そして神様が、私たちの心の傷をいやされること、また癒されていないなら、癒しのために共にいてくれていること。そして癒しがこの地上で行われないなら、天で行われること。

 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。 (黙示録 21章3-4節)

 主は、今も真理をもって間違いを正そうとしておられ、癒しの香油をもって傷を癒そうとしておられ、邪悪さを愛の聖さをもって清めて下さっています。

 どうか、悲しみの傷を負っている人達が癒され、苦しみを通過している人達の荷が軽くされますように。

 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 (コリント人への手紙第一13章13節)

わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。 (コリント人への手紙第二1章6節)

すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。 (ローマ人への手紙14章7-8節)

 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(コリント人への手紙第二 5章17節)