御霊によるバプテスマ

『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。

わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。 

ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。

わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。

(ヨハネ 1章30~34節)

バプテスマのヨハネは、主の道を整えるため、人々に水による洗礼をほどこしていました。しかし自分より後に来られる方、つまりイエス・キリストは、「御霊によってバプテスマを授ける」方であると、証言しています。

水の洗礼という儀式、行い自体には、罪からの救いや神の子となる力はありません。それはイエス様の十字架によるあがないによるのであり、それを信じる信仰に基づいてなされる御霊(聖霊)の業なのです。そして、それは信じて求める者には誰にでも与えられるものです。

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。

(ルカ 11章13節)

ペテロはこのバプテスマについて、ノアの箱舟の話を用いて次のように説明しています。

…箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。 この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。

(口語訳 第一ペテロ 3章20~21節)

この口語訳を見ると、水のバプテスマによって救われるというような印象を受けてしまいますが、新改訳(2017版)を見ると、この水(ノアと家族が経た洪水)はバプテスマの型であるとあります。

この水は、また今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。

(新改訳2017版 第一ペテロ3章20節前半)

水に罪の清めや救う力はないので、「イエス・キリストの復活を通して救うバプテスマ」というのは聖霊のバプテスマのことです。つまりノアの洪水は、水のバプテスマの象徴であると言っているのではなく、イエス様を信じる信仰によって救われる聖霊のバプテスマの象徴であると言っているのです。

「あなたがたの救われたのは行いによるのではなく、信仰によるのである」(エペソ2章8節)という聖句もあるように、大切なのは信仰であり、水の洗礼というのはあくまでも儀式に過ぎないということをしっかり理解している必要があると思います。

意味もわからないまま、また信じてもいない人が、ただ水の洗礼を受けて救われるわけではないですし、すでに聖霊のバプテスマを受けて救われているのに、水の洗礼を受けていないなら完全ではない、救われていないと考えるのも真理から外れています。

水のバプテスマを受ける受けないはその人の信仰によると思いますが、バプテスマの本質は聖霊のバプテスマにあり、この聖霊のバプテスマを受けることこそが大切なのです。

それではなぜノアの洪水が聖霊のバプテスマの型であるかというと、「バプテスマ」という言葉の意味を見るとわかると思いますが、バプテスマは「沈める・浸す」という意味です。ノアの洪水において、罪に汚れた過去の世界は全て水の中に浸かり滅ぼされました。それと同じように、私たちは神に背を向け自分中心に生きていた過去の自分を葬り去り、霊の内で新しく生まれ変わりました。そしてそれは、水によってではなく聖霊に浸されることによってです。

さて、パウロはバプテスマを次のように言っています。

あなたがたはまた、彼にあって、…肉のからだを脱ぎ捨てたのである。 あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。 あなたがたは、先には罪の中にあり…死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。

(コロサイ書 2章11~13節)

ここに、私たちは、「彼と共に葬られ」、「彼と共によみがえらされた」とあります。この「彼」とは言うまでもなくイエス様のことです。またパウロは次のようにも言っています。

すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

(ローマ6章4、5節)

つまりバプテスマはイエス様の死と復活のようなものであり、私たちはバプテスマを通して、イエス様と一つに結ばれたのです。

そして、もう一度第一ペテロの聖句を見てみたいと思います。

それ(バプテスマ)は、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らな良心を神に願い求めることである。

(口語訳 第一ペテロ 3章20~21節)

これらの聖書の言葉から、バプテスマを私なりに解釈すると、聖霊に自分の全てを浸し、イエス様と共に古い自分は葬られ、そしてキリストと共に新しくよみがえったことを認め、ただ罪から清められたというだけで終わるのではなく、これからはイエス様と一つになって、神の御心を求め、その御心に応えて生きていくということです。

最後にある人の聖霊のバプテスマを求める祈りを紹介します。

<祈り:>私は、過去の自分がキリストと共に葬られ、新しく生まれ変わったと信じます。私を主から遠ざけるいっさいのものを後に残して、よみがえられたキリストと共に歩みたいです。聖霊が私の存在全てを満たし、完全に浸して下さいますように。キリストの思いを持ち、言葉と行動を通してキリストの香りを放ち、すべてが聖霊で導かれますように。イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。