変化を愛する

“Embracing Change “

変わり目

季節の変わり目というのは面白いものです。

長年にわたって同じ四季を繰り返してきたのだから、その変化はスムーズに移行していくものであろうと期待してしまう。しかし、少なくとも私が住んでいる地域では、夏から秋への移行を嫌がっているかのようです。

あまりにも変化が緩やかなので、何も起きていないのではないかと思いたくなります。しかし、私たちは、そのうちに新しい季節のしるしがはっきりと見ることになります。

クリスチャンの人生を歩んできた人にとっては、変化はもう慣れっこになっていることでしょう。それは簡単だからではなく、私たちが自分の人生をイエス様に委ねた瞬間から、変化は、人生の大きな要素となっているからです。

ローマ人への手紙8章29節によると、神は「私たちを御子(イエス)の姿に似たものにしようと」前もって定めておられました。神様は、私たちが新しい被造物に創り変えられることをご存知でした。しかし、季節の変わり目のように、私たちの中には、新しいものに道を譲ることに抵抗があります。しかし、それこそが、神が私たちに呼びかけていることなのです。

イエスは、私たちの霊的生活の状況を変えようとする二つの霊が活発に働いていると教えています。一方は崩壊を、もう一方は豊かさをもたらそうとしています。ヨハネの福音書10章10節(AMP)で、イエスはこの二つの霊を対比させています。

「泥棒が来るのは、盗み、殺し、滅ぼすためです。私が来たのは、彼らがいのちを持ち、楽しみ、豊かに(あふれるほどに)持つためである」。(APM訳直訳)

「泥棒」とは、反キリストの霊を表しています。神が私たちに与えてくださるすべての良いものに反対する霊です。

一方、キリストの霊は、私たちを真に充実した人生で豊かにしてくれます。問題は、私たちがどのようにして神が与えてくださるものを十分に享受して生きるかということです。

悔い改めること

悔い改めとは、最も基本的なレベルで、「心を変える」という意味です。キリストとの歩みにおいて、悔い改めるとは、イエスの導きに服従し、自分を妨げているものから目をそらすことです。

悔い改めとは、自分の心の内に神の霊によって変わように促される時、「自分を防御する思い」をもう一度吟味することです。その防衛心は、自分を守る壁のように思っていたかもしれませんが、実際には(自分を閉じ込めている)牢獄の壁なのです。

あなたから真の自由を奪っているもの

私たちの神は、あなたの人生のあらゆる分野で神の贖いの業を続けたいと願っています。悔い改めは、神の力を解放するための変わり目です。神は、悔い改めがあなたの人生を変えることを知っておられるので、あなたが心を変えることを望んでおられるのです。

自分自身についての見方を変える

使徒パウロは興味深い研究課題です。彼が私たちの信仰における偉大な指導者になる前、彼は、他の人物として知られていました。名前も違っていました(サウロ)。世俗的、「宗教的」な観点から見ると、彼は名声、権力、影響力、非の打ち所のない評判など、すべてを持っていました。

しかし、このような成功を収めていたにもかかわらず、パウロはキリスト教に対する最大の迫害者の一人としても知られていました。彼はキリスト教徒を投獄したり、殺したりするために積極的に迫害しました。このような人物が神に用いられることはないと誰もが思うことでしょう。それなのに…。彼は、神様が召された人物なのです。

第一テモテ1章15-16節(NLT)で、パウロは次のような認識を述べています。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。 (テモテ第一の手紙 1章15-16節)

神様は、私たち一人一人の信仰をより高いところへと召されています。それは、キリストに反するものを喜んで手放さなければならないということです。そのためには、自分自身についての見方を変えることから始まります。

私たちの信仰のリーダーたちは、どのようにしてそれを成し遂げたのでしょうか?

彼らは、自分のアイデンティティ(*)が罪の重さに埋もれてしまうことを許さなかったのです。彼らは、自分のアイデンティティが、どんな仕事をしているかによって定義されるものではないことを認識していました。彼らはただ、自分のアイデンティティを受け入れました。

(*アイデンティティ: 自分が実は何者であるかという認識。この場合、神がこよなく愛して命を懸けて愛して下さっている自分という存在のこと)

彼らが知っている人に基づいています。

あなたがイエスを知っているとき、あなたのアイデンティティは、神ご自身の贖われた子供として確かなものです。あなたには、より良い変化をもたらす神の霊の力があります。神があなたにするように求めることは何でもできるのです。

私たちの神は、あらゆる分野の人々をお呼びになります。神の呼びかけを受け入れる人は少ないですが、神は、選ばれたごく少数の人達だけに呼び掛けておられるのではありません。

神はあなたを呼んでおられます。

痛みの捉え方を変える

人に共通する経験があるとすれば、それは「痛み」です。何らかの形で、私たちは皆、痛みを経験します。しかし、神の言葉は、すべての痛みが同じように作られているわけではないことを教えてくれます。

神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。 (コリント人への手紙 7章10節)

ここでいう「悲しみ」とは、痛みや悲痛とも訳せる言葉で、これは「良い悲しみ」であり、命を与える変化をもたらすための神よりの痛みです。これは、イエスが語る「放蕩息子」のたとえ話に見られるような経験です。

その物語の中で、「放蕩息子」は反抗的で、自分を喜ばせることだけを望んでいます。彼は家族の遺産の一部を要求し、「自分のために生きる」ために早く家を出ます。結局、彼はすべてのお金を使い果たし、気がつくと悲惨なことに、一文無しで、豚小屋の真ん中で飢えています。この時点で

…彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。

もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 (ルカの福音書 15章17-19節)

失われた息子は悔い改め、「心を入れ替えた」のです。彼の傲慢さは、父の赦しを求めて謙虚さに変わりました。信じられないことに、私たちは父がゆるしを与える以上のことをするのを見ます。

父が「愛と哀れみに満ちて息子に駆け寄り」、両手を広げて息子を家に迎え入れるのを見ます。父は息子に「家の中で一番良い衣」をはじめとする多くのものを惜しみなく着せます。そして、息子が帰ってきたことを祝うために、盛大な宴を開いたのです。

息子の痛みには目的があった

あなたの人生の痛みはどんな目的のためにありますか?それは、あなたをますます神から遠ざけているのでしょうか?それとも、あなたの痛みは、意味のある変化を引き起こすためのものでしょうか?

あなたの天の父は、あなたへの愛と憐みに満ちた心を持っています。あなたが霊的に飢えてしまうのを見たくはありません。むしろ、両手を広げてあなたを受け入れる準備ができています。

私たちの神は、神のもとに来る者に忠実に服を着せ、慰めてくださいます。神の言葉は私たちの飢えと渇きを癒す良い食べ物であり、生きた水です。神様は、あなたを愛する父です。彼は愛すべき父であり、あなたを回復させようとしておられます。

神を見る見方を変える

刻々と変化する世界の中で、本当の意味での平安を感じて生きることは、信じられないほど難しいことです。特に、すべてが変化しているように見える場合はなおさらです。だからこそ、変わることのないものにしがみつくことが必要なのです。

今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。 (黙示録 1章8節)

平和は、神ご自身の変わらない、揺るぎない存在の中にあります。私たちが主に目を向けるとき、私たちは「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」ことを知ります。 (詩篇 46篇1節)

主のご性質を信頼するとき、私たちは主が求めておられるどんな変化も受け入れることができます。それがいつも私たちのためになることを確信しているからです。私たちがするように召されていることが変わっても、私たちは平安を得ることができます。なぜなら、私たちを呼んだ方は決して、変わることはない方だからです。

<「変化を愛する」からの引用終わり>

Jake@ThinkOne9Perspective jake@thinkone9.com からの翻訳