へブル書第10章の「地域教会に見られる甚だしく誤った傾向」(”Egregious Trends in Local Churches“) ロバート・D・ルギンビル博士著
からの抜粋翻訳:
今日、ますます広まっているあらゆる異端や誤った道を一つ一つ挙げて説明しようとすれば、いくら時間があっても足りません。そこで、特に危険で甚だしく誤った傾向のうち、教会やグループの中に見られるなら、それだけでその教会やグループが健全ではないことを示すものをいくつか挙げるにとどめます。
・観想的祈り(Contemplative prayer): 神秘主義や極東の宗教に由来する手法、いわゆる「霊的形成(spiritual formation)」を用いて、意図的に思考をなくした、恍惚状態のような状態に入ろうとすること(これとは対照的に、「わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。」第一コリント14章15節 /ESV訳)。
・霊的助言者と行き過ぎた「弟子訓練」: 自分自身の霊的成長に責任を持つのではなく、自分の決断をいちいち霊性の疑わしい他人に相談し、その人に罪を告白することによって、自分の自由意志をその人の指導に委ねてしまうこと(これとは対照的に、「あなたがたはよく走っていた。だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにしたのか。」ガラテヤ5章7節 /NIV訳)。
・非聖書的、反聖書的な慣行: ヨガ、「量子スピリチュアリティ」、神秘主義、その他さまざまな神秘的慣行など、それらが異教や悪霊と結びついていることを顧みずに行うこと(これとは対照的に、「主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。」第一コリント10章21節 /NIV訳)。
・エキュメニズム(教会一致運動): その教義や行いによって、キリスト教ではないこと、またイエス・キリストの真の福音に本質的に敵対していることが明らかな団体や個人と手を結ぶこと(これとは対照的に、「そのような人を受け入れる者は、その悪い行いにあずかることになる。」第二ヨハネ1章11節 /NIV訳)。
・社会的福音(Social gospel): イエス・キリストだけによる救いの福音を見失い、慈善活動によって「神の国を実現しよう」とすること(これとは対照的に、「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」エペソ2章8-9節 /NKJV訳)。
・ドミニオニズム(Dominionism/支配神学): 主が再臨されるように、政治活動によって地上に神の国を築き、「神の国を実現しよう」とすること(これとは対照的に、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。」ルカ17章20節 /ESV訳)。
・預言: この賜物はすでに終わっているにもかかわらず、神から新たな啓示を受けたと偽って主張すること(これとは対照的に、「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉を取り除く者があれば、神はその人の受くべき分を、いのちの書と聖なる都と、この書に書かれているものとから、取り除かれる。」黙示録22章18-19節 /NKJV訳)。
・異言: 実際には言語ですらないことが明らかな、何らかの「天上の」言語を話す能力があると偽って主張すること(これとは対照的に、「それと同じく、あなたがたも、舌ではっきりした言葉を語らなければ、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる。」第一コリント14章9節 /NIV訳)。
・癒し: 人々を自分のもとに集め、献金を得るために、触れることによって人を癒す能力があると偽って主張すること(これとは対照的に、「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」第二テモテ3章13節 /NKJV訳)。
・現代型礼拝(Contemporary worship): 聖書的に疑わしい歌詞を含む、大音量でリズムを強調した音楽を、照明による演出、ドラムの多用、同じ言葉やフレーズの繰り返しなどとともに用いて、感情をかき立て、それによって偽りの一時的な霊性を生み出そうとすること(これとは対照的に、「あなたがたの歌の騒がしい音を、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音にも、わたしは耳を傾けない。」アモス5章23節 /NIV訳)。
霊的戦い: この主題を扱っている聖書箇所を誤用して、悪霊の勢力を相手にグノーシス主義のような「戦い」を行ったり、いわゆる「霊的な導き手」と接触したり、偽りの悪霊追い出しを行ったり、按手によって他の人に賜物や力を授けることができると主張したりすること(対照:「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」マタイ7章22-23節/NKJV訳)。
「言葉の力」: 聖書を誤用して、「こうなる」と口に出して宣言し、それを「自分のものとして受け取る」と主張することなどによって、物質的な現実を思いどおりに変えたり、病気を癒したり、繁栄をもたらしたりする力があると偽って主張すること。これは「繁栄の福音」とも呼ばれます(対照:「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」第一テモテ6章8節/NIV訳)。
自己啓発的な説教: 聖書を教える代わりに、聴衆を励ましたり楽しませたりすることを目的とした説教を行い、一般向けの心理学、自己啓発、自尊心、いわゆる「積極思考」の手法を用いたり、聖書の中ではそれほど重要ではないにもかかわらず、会衆の「聞きたいことを聞きたがる耳」にとっては大いに関心のある話題――人間関係、仕事や職業、政治的な運動など――に重点を置いたりすること(対照:「兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教えにそむいて、分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。」ローマ16章17-18節)。
律法からの流用: 神殿礼拝における慣行を誤って取り入れ、それを自分たちの目的に合わせて変えて用いること。たとえば、祭司制度、特別な祭服、祭壇、神殿を模した教会堂や大聖堂、洗礼や聖水、秘跡、ろうそく、その他の儀式や典礼などです。それがローマ・カトリック式に行われる場合であれ、あるいは「復興」と称して取り入れられる場合であれ、同じことです(対照:「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。」ローマ10章4節)。
正典完成以前の時代からの流用: 律法から恵みへの移行がまだ完了しておらず、「しるしの賜物」がなお聖霊によって正当に与えられていた初代教会の時代の慣行を、誤って現代に取り入れること。たとえば、使徒であると称したり、按手によって聖霊を授けることができると主張したり、「完全なもの」である聖書正典が完成した時点で継続することを意図されていなかった、さまざまな霊的賜物や慣行を復活させようとしたりすることです(対照:「愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。」第一コリント13章8-10節)。
偽りの教理: 聖書を重んじていると口では言いながら、実際には伝統を聖書より優先し、聖書を少し読んだだけでも明らかに誤りだと分かる教えを信奉すること。たとえば、艱難期前の「携挙」、「一度救われたら、永遠に救われている」という教え、教会員になることや水によるバプテスマが必要であるという教えなどです(対照:「人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる。」マタイ15章9節)。
誤った優先順位: 霊的成長を重視していると口では言いながら、実際には、教会の建物、単なる人数という意味での会衆の拡大、そしてそれらの活動を維持するために、さらに多くの献金を集めることに、あらゆる努力を集中させること(対照:「わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。」第一テモテ4章13節)。
今日の目に見える教会に、このような明らかな弊害が広く見られることを考えれば、この種の「ガラス張りの家」に住んでいる者が、自分たちの気に入らない型破りな方法で行われているというだけで、神の御言葉を教え、聞き、信じることを通して霊的成長を真剣に追い求めている人々に、あえて石を投げるべきではありません。なぜなら、このような批判をする人々には、実のところ批判する正当な根拠がないからです。
(21) なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。(22) 姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。(23) 律法を誇りとしながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。(24) 聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。(ローマ2章21-24節)
今日の目に見える教会では、偽善の具体的なあり方は上の箇所に述べられているものとは異なるかもしれません(また、グループによって多少の違いもあるでしょう)。しかし、その原則は同じです。実際に霊的成長を追い求めている人々のあら探しをするよりも、そのような批判をする人たちは、まず自分たち自身の問題に目を向けるべきでしょう(マタイ7章3-5節)。
(13) 「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。(14) 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」(マタイ7章13-14節/NKJV訳)
パウロがエルサレムの信者たちに、自分たちの集まりをやめないようにと言っているのは、まさにこの文脈においてです。単に、集まることそれ自体を勧めているのではありません。というのも、ここで、またヘブル書においてパウロが問題としている信者たちは、実際に「集まって」はいたからです。ただし、間違った人々と、間違った理由で集まっていたのです。単に「集会に顔を出す」だけでは、彼らの霊的成長のために不十分だったばかりか、実際には逆効果でした。なぜなら、それによって彼らは非常に危険な霊的妥協に巻き込まれていたからです。今日、自分が教会に通っていることの価値について思い違いをしているすべての信者についても、同じことが言えます。自分が属しているところで霊的に前進していないのであれば、それだけでも十分に問題です。しかし、そのようなところが霊的妥協に陥っていたり、さらに悪いことに、上の一覧で挙げた危険な活動――今日の目に見える教会で大いにもてはやされている弊害――のいずれかに関わっていたりするなら、その信者たちは、私たちの主が自分たちの人生に望んでおられる御心を、決して果たしてはいません。そして何より悪いことに、実際には自分自身の信仰を弱め、深刻な霊的危機に陥りやすい状態を自ら作り出している可能性があります。まもなく来る艱難期には、今日存在するキリスト教の、またキリスト教を名乗るグループや教会の大多数が、反キリストの世界宗教に加わることになると予想されます。[1] 今日でさえ、関わりを持つようになった疑わしく有害な教会やグループから離れることが難しいのであれば(感情的な愛着や伝統への愛着があるために)、艱難期には、それがまったく不可能になってしまうかもしれません。
これまで見てきたように、すでに役割を終えた神殿礼拝に再び関わっていたユダヤ人信者たちは、その行動によって、主の犠牲が無駄であったと宣言することになり、主を怒らせていました――そうでなければ、将来の贖いを表すこれらの象徴が、なぜなお必要なのでしょうか? しかし、それだけではありません。彼らは同時に、妥協することを拒んでいたエルサレムの信者たちにも背を向けていました。つまり彼らは、正しい場所で正しい人々と「集まって」いたのではなく、間違った場所で間違った人々と集まっていたのです。その結果、彼らは霊的に成長するどころか、むしろ後戻りし、霊的な前進を失いつつありました。
<パウロのへブル人への手紙・シリーズ10章からの抜粋翻訳終わり>
[1] 「来たる艱難期 第四部」VI.「獣の預言者と世界的な反キリストの宗教」<リンク先ファイルの44頁-/A5版印刷本「来たる艱難期 第4部:大艱難期」では91頁->を参照。