全世界の罪のための神の小羊

その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

(ヨハネ 1章29節)

イスラエルの民は、神から自分達の罪のあがないのために、いけにえとして動物を捧げるよう定められており、毎日朝と夕に小羊が捧げられていました。

あなたが祭壇の上にささぐべき物は次のとおりである。すなわち当歳の小羊二頭を毎日絶やすことなくささげなければならない。 その一頭の小羊は朝にこれをささげ、他の一頭の小羊は夕にこれをささげなければならない。

(出エジプト記 29章38,39節)

これは自分の罪のあがないのため、その動物に身代わりとなって(死んで)もらという意味がありました。そして、そのいけにえの子羊は、後に現れる救い主、十字架で犠牲を捧げるイエス様を暗示していました。動物の血には完全な罪のあがないの力はないので、イスラエルの民は、決められた日や時、また罪を犯すたびに、いけにえを捧げる必要がありました。しかし、神の子羊、つまり救い主イエス様が世に来られ、十字架でその命を捧げて下さったことで、私たちの罪のあがないが完成されたのです。そしてそれはイスラエルの民だけではなく全人類のため、それも全時代に生きる全人類の罪のためなのです。

彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

(第一ヨハネ 2章2節)

神が御子イエス・キリストを使わされ、そのイエス様が私たちのために命を捧げてくださったということは畏れ多き驚くべき恵みです。

ただその恵みは受け入れなれば与えられません。それを受け入れるのは、ただ神の御子イエス・キリストを信じることです。そうすれば罪の赦しが与えられ、神の子となる力が与えられるのです。そしてそれは、アダムとイブがエデンの園にいたときに持っていた神との親しい関係に立ち返るということなのです。その関係を取り戻すために神であるイエス様は人となって死んでくださいました。

読者の中に、まだ救い主イエス様を心に受け入れていない人がいるなら、どうか、その愛を受け入れ、その愛に感謝し喜びつつ、それに応える生き方ができますように。

私は、最終的には、すべての人が悔い改めに至る時が来ると信じています。なぜなら、神がそれを望んでおられ、神はその望まれていることを達成なさることの出来る方だからです。

神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。

(第一テモテ 2章4節)

神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。

(1コリント 15:27-28)

イエスさまが神の小羊として、地上の祭壇(十字架)の上で血を流されて死なれたのは、2000年前のことですが、主は今もなお、全世界のすべての人たちが救われ罪から解放されて神に立ち返るようとりなしの祈りを続けておられます。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

(新改訳 ローマ 8:34)

ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

(2ペテロ 3:9)

 これらの聖句から、主が何を望まれているかがわかります。全ての人が悔い改めて主のもとに来ることです。そのために主は、地上に来られて犠牲を払い、今もなお、全世界の魂の救われることを望み、忍耐し、とりなしておられます。

 それを知っている私たちにできることは、私たちもとりなしの祈りと共に、主のあかしをすることですね。

上記の聖句の「世の罪」の「世」も、「全世界」の「世界」もいずれも、「コスモスkosmos」というギリシャ語が原文では用いられています。コスモスは、宇宙、世界、社会の意味があります。あらゆる被造物には、罪が侵入したため、そのすばらしさが害されている状態です。

人の歴史を見ても、また罪の及ぼす自然界を見ても、罪が被造物全体に入っているとわかります。

人間を含む被造物全てが、罪の侵入ゆえに滅びの下にあり、解放されるのを待っていました。

被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。

(ローマ 8章19~23節)

イエス・キリストの出現によって、人は罪から贖われ、神の子となるだけではなく、被造物である自然も、新たにされるのです。神の子たちの誕生と自然環境の回復との間に関係が記されています。

人が悔い改めて神に帰ることが、自然環境破壊の答えとつながっています。私たちが神の御前で、赦しの愛を受け入れ、主の与えて下さっている恵みに感謝し始めるなら、主は、損なわれた自然の美を回復させて下さいます。

そのことについて、世界規模でなされる至福千年の時の描写があります。

おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、 雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。

(イザヤ書 11:6-9)

彼は多くの民の間をさばき、遠い所まで強い国々のために仲裁される。そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかってつるぎをあげず、再び戦いのことを学ばない。 彼らは皆そのぶどうの木の下に座し、そのいちじくの木の下にいる。彼らを恐れさせる者はない。これは万軍の主がその口で語られたことである。

(ミカ書 4:3-4)

<祈り:>主が治められる世界の下で、呪いが解かれ、破れが繕われ、傷が癒され、平和が地の果てまで、みなぎる時が、すぐに来ますように。