先におられた方

ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。

(ヨハネ 1章15節)

 このヨハネは、福音書を書いたヨハネではなくバプテスマのヨハネです。

ここで彼はイエス様のことを「わたしよりも先におられた」と話していますが、ヨハネはイエス様よりも六ヶ月先に生まれている(ルカ1章36節参照:イエスの母マリヤが天使のお告げを受けた時、バプテスマのヨハネの母エリサベツは、すでにヨハネを身ごもって六カ月経っていました)ので、地上に生まれたことを言っているのではなく、イエス様は自分が生まれる前からすでに存在しておられる方であるということです。

 ヨハネ8章には、イエス様ご自身がアブラハムよりも先におられたこと、つまり神であられることを語られています。アブラハムはイエス様が地上に来られる2000年以上も前に存在していた人物です。

あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです」。

そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生れる前から、『わたしはある』なのです。」 

(新改訳Ⅳ ヨハネ 8章56~58節)

イエスは、「…アブラハムの生まれる前から、『わたしはある』なのです」と語られました。

「わたしは、あった(いた)」ではなく、「わたしは、ある(いる)」と言われたのです。時の初めから永遠に至るまで、現在形で「わたしは、ある(いる)」と言える方は、神のみです。

この『わたしはある』という言葉(名)は、神がモーセをエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を解放させようとしていた時に、神自らが語られた名です。

モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」

神はさらにモーセに仰せられた「…これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたし、わたしの呼び名である…」

(新改訳Ⅳ 出エジプト3章13~15節)

つまりイエス様は、ご自分は神の名である「わたはある」という者、つまり神であると言われたということです。

バプテスマのヨハネが言ったように、確かに、イエス様はバプテスマのヨハネよりも、はるか先におられた方なのです。

万物の創造者であられる神は、時間を超えて存在しています。アブラハムやモーセ、歴史を通じて語り掛け、導かれた神が、私たちのところに来られ、罪をあがない、私たちと親しく交わり導いて下さることは何という特権、そして祝福であることでしょうか。