ペテロの手紙#9
信仰とキリストの血
ロバート・D・ルギンビル博士著
第一ペテロ1:1-2の改訂訳:
イエス・キリストの使徒であるペテロから、父なる神の予知により、聖霊の聖別を受け、イエス・キリストの血の注ぎかけのもとに従順な者となるために、選ばれた人々、すなわちポントス、ガラテヤ、カッパドキア、アジア、ビテニヤの各地に散らされ追放された人たちへ。あなたがたに恵みと平和が増し加わるように!
復習: 前回は、私たちが 「選ばれた追放者」であることについて、ペテロが三重に説明していることについて取り上げました。この世の目から見れば、私達は何者でもなく、何も持っていません。しかし、それにもかかわらず、私たちは神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって、神の家族の一員として特別に選ばれたのです。さらに、三位一体の各メンバーは、私たちの選出(つまり、神の家族への選び)に関与されたのです:
- 御父は私たちの選びを計画されました(予知を通して:つまり、私たちが御子を信じる意志をあらかじめ知っておられたのです)。
- 聖霊は私たちの選びを実行されました(聖化を通して:すなわち、私たちをこの世のすべての不敬虔なものから基本的に分離し、神に仕えるために私たちを聖別されます)
- 御子は、私たちの選びの代価を払ってくださいました(贖いを通して:つまり、私たちのために十字架上で死んでくださった尊い代価によって、私たちを罪の奴隷状態から買い取ってくださいました)。
解説: さて、2節の「イエス・キリストの血の注ぎかけのもとに従順な者となるために…選ばれた」と訳されている二つの目的語(「従順obedience」と 「注ぎかけsprinkling 」の両方)にかかる<英語では”for”(日本語では「ために」)>)分詞は、ギリシャ語の前置詞エイスeisが訳されたものです。これは私たちの選びの目的を主イエス・キリストという方に集中させる役割を果たしています。ペテロは神の家族への一員とならせて頂けるのはイエス・キリストの十字架の働きによるのだと言っているのです。なぜなら、イエス・キリストは私たちの信仰の対象である(つまり、その方が私たちが信じる方であり; 私たちがイエス・キリストを信じることができるように「イエス・キリストの血のもとに服従するために、選ばれ」た)と同時に、私たちの救いの代価を支払って下さった方でもある(つまり、「その血のそそぎを受けるよう…選んで」私たちを救われるイエス・キリストを信じるとき、私たちは、罪の束縛から贖われた)からです。従って、「従順」という言葉は、イエス・キリストと、私たちに代わってイエス・キリストが十字架上でなさった御業への私達の信仰を指し、「そそぎを受けるため」という言葉は、私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れるときの私たちの贖い、つまり罪の 「洗いきよめ」を指しているのです。
父なる神は、時が始まる前から、私たちがサタンの闇の王国から光の王国に選び出されることを計画され(コロサイ1章13節)、聖霊は、私たちがイエスを信じたとき、私たちの生涯において変化を実行され、主イエス・キリストは、私たちに代わって十字架にかかった歴史の重大な瞬間に、私たちの救いの代価を実際に支払ってくださったのです(ヘブル9章26節後半)。
救い:
「救い」とは、結局のところ、解放を意味します。つまり、私たちは神によって恐ろしい運命から救い出され、安全な場所に導かれたということです。では、私たちは一体何から救われたのでしょうか?死後の神の裁きと、恐ろしい火の池からです(ヘブル9章27節、黙示録20章11-15節,<14-15>)。私たちは何のために救われたのでしょうか?復活と天国の永遠の幸福のためです(第二コリント5章1-10節)。
この解放は無料ではなかったことを常に覚えておくことが重要です。誰かがその代価を支払わなければなりませんでした。私たちの最初の祖先アダムから、私たちは皆、パウロが「わたしのうちに宿る罪」(ローマ7章20節)と呼ぶ罪深い性質を受け継いだのです(ローマ5章12-14節)。その結果、私たちはみな罪を犯します(ローマ3章23節)。神は完全かつ不変に聖なるお方(つまり、いかなる悪からも完全に切り離されたお方)であり、不変に義なるお方(つまり、いかなる悪をも容赦されないお方:詩篇7篇9-11節)であられるので、私達人間は大変な問題を抱えます。私たちの罪深い状態を考えれば(ヘブル10:章30-31節)、完全に神をなだめすかしたり、神と永遠に共に生きることを期待したりできるわけがありません。私たちが神から離れて行おうと望むどんな「善」も、必然的に私たちの本質的な罪深さに染まることになります(ローマ4章2節、エペソ2章8-9節、第二テモテ1章9節、テトス3章5節、参照:申命記9章5-6節、イザヤ64章6節)。そして、これだけでは十分な問題でないかのように、私たちは誰もが認めるジレンマにも直面しています: 「死ぬことは人に定められている」(ヘブル9章27節)ので、どうにかして神に償うことができたとしても、神の介入がなければ、私たちは死ぬ運命にあるのです。
ですから、イエス・キリストを受け入れること、そしてイエスが私たちに代わって死んで下さったこと、その結果として父なる神に私たちが受け入れられるということを受け入れるという、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ(私たちの心と意志による単純な行為であって、功績などはまったくなく)なのです。ですから、2節の 「イエス・キリストの血…のもとに従順な者となるために…選ばれた」という表現は、キリストが私たちの罪を負われた十字架上の御業を私たちの側が受け入れることを指しているのです(イザヤ53章1-12節)。また、「イエス・キリストの血の注ぎのために…選ばれた 」という表現は、私たちが信じたときに受ける罪の赦しを指しています。神がすべての人に求める従順とは、何よりもまず、御子イエス・キリストを信じ、彼が自分たちのために捧げた犠牲を受け入れることです。注ぎ(贖いによる罪の赦し)は、この聖句では信仰と一つに結びついています。キリストを信じる信仰がなければ、罪の赦しはありませんが、キリストを信じる信仰があれば、罪の赦しは直ちにもたらされるのです。
私たちは将来、贖い(キリストの、罪に対しての十字架上の御業: キリストは私たちを罪の奴隷状態から救い出してくださった)、和解(キリストの、人間に対しての十字架上の御業:キリストは私たちを神の敵から神の友へと変えてくださった)、そして償い(キリストの、父なる神に対しての十字架上の御業:キリストの犠牲は神に受け入れられ、人類のすべての罪を永遠に贖った)の教義を検討する機会があるでしょう。しかし、ここ、2節でペテロが用いた「血をそそぐ」という言葉に含まれる「描写」について、一言述べておく必要があります。
血を振りかける:振りかけられた血の象徴は、旧約聖書、特に神がご自身について教えるためにイスラエルの民の間で制定した儀式から取られています。モーセは「契約の書」(出エジプト記20-23章に要約されているモーセの律法)を読み終えると、「平和の供え物」のいけにえを捧げさせ、その血をすべて集めさせました。そしてモーセは、「見よ、契約の血である」と言って、この血をすべての民に振りかけたのです。この血は、(旧約聖書のすべてのいけにえに見られるように)むごい死を表し、「契約の血」という言葉は、誰かの死によってイスラエルの民が神と特別な契約を結んだことを意味していました。この事実は、モーセが動物のいけにえの血をすべての民に文字通り振りかけたときに、目に見える形で劇的に描き出されました。これは、私たちにとってはグロテスクでショッキングなことのように思えるかもしれませんが、そうなるように意図されていたのです。キリストの十字架上の犠牲は、私たちの想像を絶するほどの犠牲でした。私たちはキリストを助けるために何もせず、ただその血潮を「かけられた」だけです。私たちは、キリストを信じ、私たちに代わってなされたキリストの業を受け入れるとき、キリストの犠牲の死の恩恵を受けるのです。
キリストの血 :一方、「キリストの血」は象徴に過ぎず、文字通りの血ではありません。モーセは来たるべきメシアの苦しみと犠牲を表すために文字通りの血を用いましたが、主イエス・キリストは十字架にかかり、私たちの罪のために死んで下さることによって、あなたと私に救いを与えてくださいました。この業を終えると、息を吐き、息を引き取られました(ルカ23章46節)。実際、失血死したわけではありません(ヨハネ19章33-35節)。私たちの罪のために身代わりに裁かれたキリストの犠牲と苦しみに注意を向けることが重要であり、その苦しみと犠牲を予見している旧約聖書の象徴に注意を向けることはではありません。ですから、聖書が私たちは「キリストの血によって」救われると言うとき、(ヨハネが福音書の19章で説明しているように)それはキリストが私たちのために捧げた素晴らしい犠牲、つまり私たちの身代わりとなって十字架上で死なれたことを指しているのであって、キリストの文字どおりの肉体的な血を指しているのではないのです。
要約:ペテロの最初の文章は、私たちが神の家族に選ばれたこと(選び)についての三つの観点から説明しています:
・御父が私たちの救いを備えられます(予知)
・御霊が私たちの救いの実際の業を引き受けてくださいます(聖化)。
・御子はその代価を払ってくださる方であり(贖い)、私たちが救いのために信じる方です(キリストへの信仰)。
私たちの人生に対する神のご計画の第一段階(救い)についてのこの三部構成の略図は、すべての信仰者に対する神のご計画の第二段階(時間という次元の中の信仰者、神のご計画の段階についての考察はレッスン#3を参照)にも当てはまります:
・御父のご計画は、私たちを時間的に支えてくださり、
・イエス・キリストの御業は、私たちが罪を告白するとき、私たちの罪を清め続けてくださり、
・聖霊は私たちの霊的成長を助けて下さいます。
これらのことについては、次回のレッスンで詳しく説明します。
[ペテロ#10:霊的成長入門] へ。