ペテロの手紙 #2 

使徒ペテロとキリスト者の苦悩の問題 

ロバート・D・ルギンビル博士著 

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復習:  第一ペテロの手紙は、霊的成長への呼びかけです。この第一の手紙の中で、ペテロは、個人的な苦難が霊的成長を妨げることに特別に注意を向けています。私たちの研究の大半は、苦難という課題に取り組むことです。 

第一ペテロ1:1-2の改訂訳: 

イエス・キリストの使徒であるペテロから、父なる神の予知により、聖霊の聖別を受け、イエス・キリストの血の注ぎかけのもとに服従するために、選ばれた人々、すなわちポントス、ガラテヤ、カッパドキア、アジア、ビテニヤの各地に散らされ追放された人たちへ。あなたがたに恵みと平和が増し加わるように! 

個人的苦難の概要: 「信者はなぜ苦しむのか」とよく聞かれることがあります。これから、この良い課題に関して、私たちは多くの関心を払って、詳細にわたって研究していくことになりますが、まず、私たちは最初からいくつかの重要なポイントを心に留めておく必要があります。イエス・キリストを信じたとき、私たちはすぐに天国に行けるわけではありません。そうではなく、私たちはこの地上にまだ残ることになります。それは… 

– 神の誠実さを学ぶため 

– 信仰が試されるため 

– 他の人々の信仰を養うのを助けるためです。 

これら三つの目的はすべて、霊的成長を促すものです:(1)神と神の忠実さについて学ぶこと、つまり学んだことを信じ、それを自分の人生に適用することは、霊的成長の基本です(2)試練において、神は、私たちに対する忠実さを示され、それによって私たちの信仰が強められる過程です(3)私たち自身と同様に仲間の信者が霊的成長を遂げるのを助けるために踏み出す際に、主への奉仕は霊的成長を促します。これらすべての論点は、ペテロ第一の手紙の挨拶(1-2節)に示されています。 

使徒ペテロ:ペテロの語源であるギリシャ語のペトロス(petros「石」)は、ペテロの本来の名前ではありません。彼は最初シモンと呼ばれ、「聞く」という意味のヘブル語の名前(Shimonシモン)でした。族長シメオンがこの名を持つ最初の人物でした。神がレアの祈りを「聞いて」(創世記29章33節)、彼女に男の子を授けられたとき、彼女は神が恵み深くも応えて下さったことにちなんでその子にその名前をつけたのです。私たちの主は、「シモン」に初めてお会いした時、ペテロという名を与えられました(ヨハネ1章35-42節)。ヨハネの福音書によれば、ペテロの兄弟アンデレは、イエスと一日過ごした後、イエスがメシアであると確信するのに十分な話を聞きました。アンデレはペテロをイエスのもとに連れて行った時、イエスは「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)(アラム語で「石」)と呼ぶことにする」と言われました。 

ここで重要なのは、ペテロの行動には、この新しい名前を与えられるに値するような功績は何もないということです。他の人が彼を主のもとに連れて行き、彼が話す機会さえないうちに名前を変えられたのです。ペテロの名前を変えることで、主はペテロに、そして私たちに、ペテロの人生はどんな善いわざにもよらないでただ信じるということによって、完全に変わることを告げておられたのです。ペテロについてそうであるように、主は私たちのことも(長所も短所も)すべて事前に知っておられます。主は私たちの人生の全行程を一目で見ることができます。私たちは、ひと時しか続かないこの世の日々の生活の細部に気を取られ、私達が間もなく永遠にわたって主と共になることを忘れがちです。私たちは、主がペテロに告げられた言葉とその意味を思い出すべきです: 私たちが見ていなくても、主は常に 「全体像」を見ておられます。現世で得たものはすぐに塵となりますが、主から与えられる報いは永遠です(マタイ6章19-21節)。 

小石と岩 : ペテロに「石」という名を与えることによって、主はペテロの人生について正確に何を予言しておられるのでしょうか。ある一般的な見解は、イエスはペテロを教会の礎石とすることを意味していたという誤った主張です。それらの人達は通常、マタイ16章13-20節を使います。しかし、その箇所でイエスはペテロに「あなたはペテロ(ギリシア語でペトロス、小さな小石や石)だが、わたしはこの岩(ギリシア語でペトラ、巨大な岩山)の上にわたしの教会を建てる」と言っているのです。さて、マタイ16章の文脈では、ペテロはイエスが「生ける神の子キリスト」であることを認めたばかりです。イエスはこのように、ペテロの発言の真理を強調しているのです。「この岩」と言われることによって、イエスは教会の礎石としての御自身を指しておられるのであって(聖典によく記されている教え: 特にイザヤ28章16節第一ペテロ2章6節エペソ2章20節参照」、ペテロを指しておられるのではありません(他の聖句では支持されていない誤った考え方について:第一コリント3章11節参照)。こうしてイエスは、ヨハネ2章19節でご自身の体(ホトスhoutos「この」神殿)の復活を預言されたのと同じように、岩と共に近接指示代名詞(「ホトスhoutosこの」)を用いて、ご自身のことを指しています: 「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(ヨハネ6章50節も参照)。 

生きている石: とはいえ、マタイ16章13-20節は、ペテロの名前の意味を発見する道を指し示しています。イエスは教会(特定の教派ではなく、キリストを信じる普遍的な体)の本幹ですが、ペテロは全体の構造の中の一部(一つの石)です。ペテロは第一ペテロ2章4-6節でこの解釈を確認し、キリストがペテロ自身について宣言されたことは、すべての信者についても真実であると教えています。キリストは礎石であり、人に拒まれながらも神に選ばれた生ける石ですが、私たち信者も同様に「生ける石」であり、神に仕える霊的な神殿として建て上げられているのです。私たちは皆、キリストの教会の「石」なのです。ペテロは、華々しい成功と失敗を繰り返す傾向のある、非常に特別な人物でした。彼と他の使徒たちが、初代教会の設立において極めて重要な、「土台」となる役割を果たしたことも事実です。それこそが彼らが召された目的だからです(エペソ2章20節黙示録21章14節)。 しかし、イエスがペテロに新しい名前を与えられた目的は、この重要性に注意を喚起するためではありません。むしろその逆です。「ペテロ」とは、「神の家のもう一つのレンガ」という意味です。従って、「ペテロ」は、パウロ(「小さい」)と同じように、その名で呼ばれる者の真の敬神的謙遜さに注意を喚起するタイトルであり、ペテロは最終的にそのタイトルにふさわしく生きることになりました。使徒ペテロがその生涯において主のために多くのことを成し遂げたことに疑いの余地はありませんが、ここで重要なのは、私たちがこのような真の謙遜さ、つまり、自分の力ではなく主の力と知恵に頼る必要があるという認識を持っていればこそ、主はペテロのように私たちを十分に用いてくださるということです(箴言3章34節ヤコブ4章6節)。 

ペテロの使徒職 : 使徒という言葉は、ギリシャ語で「遣わされた者」を意味するアポストロスapostolosに由来します。今日、使徒という言葉は、ほとんど専ら「十二人」(ユダを除いたキリストの十一人の弟子とパウロ; エペソ2章20節黙示録21章14節)を指して使われていますが、初代教会では、この言葉は他の宣教師にも使われていました(ルカ11章49節使徒行伝14章4節ローマ16章7節エペソ4章11節)。ペテロは、特別な任務、権威、また責任という特別な霊的賜物で際立つ十二人の「キリストの使徒」の一人でした。ペテロは(パウロと同じように)この肩書きで手紙を始めていますが、それはこの肩書きがこの権威の示すものだからです。キリストの使徒だけが新約聖書の聖句を書くことができます(あるいは、例えばマルコがペテロの権威の下で書いたり、ルカがパウロの権威の下で書いたりといった、親しい仲間に依頼することもあります)。ペテロは真に謙遜な人でしたが、自分の霊的権威を強調することにおいて臆してはいませんでした。彼はこの権威が神から出たものであることを知っていました。イエス・キリストの真の使徒たちは、多くのユニークな特徴を共有していました:  

使徒の人数は決して元の十二の数を超えることはなかった(マタイ10章2節~、ユダはパウロに取って代わられた、使徒行伝9章1-19節22章1-21節26章12-18節参照)。マッテヤについては後述。 

– 彼らは自分たちを使徒と名乗った(第一ペテロ1章1節第二ペテロ1章1節ローマ1章1節第一コリント1章1節)。 

– 彼らは皆、その権威を裏付ける特別な奇跡的霊的賜物を持っていた(使徒5章12-16節ヘブル2章3-4節)。 

– 彼らは皆、特定の責任を担っていた(使徒行伝9章15-16節ローマ11章13節; ガラテヤ2章7節)。 

– 彼らは皆、イエス・キリストの復活の第一目撃者であった(使徒行伝1章8節1章22節第一コリント9章1節)。 

ペテロを使徒とすることによって、主はペテロに大きな責任を負わせられましたが、同時に、ペテロの人生の任務を遂行する権威と能力も与えられました。神は、私たちに与えられる神よりの能力によって成し遂げられる以上のことを、私たちに求めることはありません。 

霊的成長のための備え: ペテロの人生に対する神のご計画には、苦しみ、迫害、そして最終的な殉教が含まれていましたが、ペテロは神の恵みの支えを活かしてそのコースを終えました。ペテロは、今度は神の恵みの備えの一部となったのです。救われるために福音(イエスに関するメッセージ)が必要であったように、今、私たちは霊的に成長するために真理(聖書に含まれる神の御言葉の原則)を必要としています。ペテロは、救い、成長、奉仕という神の呼びかけの三つすべてに応えました。その結果、私たちも、2000年近く前にペテロが書いたこれらの手紙にある教えを学び、取り入れることによって成長する機会を得ています。 

「使徒」マッテヤ: 「13人」の弟子の問題について、ペテロたちがユダの後任としてマティアスを「選んだ」のは事実ですが、(当然なことですが)聖書に記録されている個人の行いのすべてが、神の定めによるものと見なされるわけではありません。ペテロは過ちを犯しました(「足を洗わないでください」、「全身を洗ってください」など。; 参照.ガラテヤ2章11-21節)。 神が聖書の中で使徒たちに対する思いを明らかにされるときは、いつも十二人です(黙示録21章14節の十二の門、マタイ19章28節の十二の王座のように)。門には誰の名前があるのでしょうか? その中に「マッテヤ」という名前があるのでしょうか?では、誰が取り残されるのでしょう? 選出はペンテコステの前に行われ、その後、ペテロ(とその仲間たち)は、(聖霊の降臨とともに予想されるように)突然、神のためにずっと有能になったことを忘れてはいけません。マッテヤを 「選出」するために、彼らは旧約聖書のくじ引きの方法を用いました。(異邦人に福音を伝える時には、ペテロは啓示を受けましたが)神はペテロに新しい十二番目を得る必要性を伝えなかったことに注目してください。そして、神が十二番を選ぶと決めた時、神がパウロを12番目として「選んだ」ことに疑いをはさむ余地がないほど、キリストがパウロに現れた時には、非常に奇跡的な方法だったことに注目してください。マッテヤは立派な信者であったことには間違いありませんが、「キリストの使徒」ではありませんでした。 最後に、ルカはギリシア語を使って、選出が、その状況においてこれらの人々にとって理解できることではあったものの、神の承認によるものではなかったことをほのめかしています。ルカはマッテヤの選出について、「十一人と共に否決された」(動詞synkatapsephizo)と述べています。この動詞は、「否決する」、すなわち「敗北させる」、あるいはより適切に言えば「非難する」という意味です。この動詞は、ギリシア文学の中で他に一箇所(プルタルコス)しか出てきませんが、そこでは「非難に加わる」という意味であり、ここでは受動態になっているので、構文からすると「<マッテヤは>一緒に非難される」という意味になります。この言葉の正確な意味については、学者によっては疑問があるかもしれませんが、あらゆる言語学的慣例によれば、この言葉は否定的な意味合いを持つはずです。 これは使徒行伝2章14節でも明らかで、ルカは「十二人」ではなく「十一人」と述べている。 使徒を選んだのは人ではなくイエスであり、イエスは「聖霊によって」そうされたのです: 

テオピロよ、わたしは先に[あなたのために]第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、 お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。 (使徒行伝 1章1-2節) 

しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人(すなわち、パウロ)は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。 (使徒行伝9章15節) 

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