最後にもう一つ話したいと思います。

ヨハネ2章、カナの婚礼のことが書かれている前の1章にはバプテスマのヨハネのことが記されています。このバプテスマのヨハネはメシアであるイエス様が公生涯に入られる前に、主の道を整えるために神につかわされた人で、旧約聖書で預言されていた人です。

預言者イザヤの書に、 「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。(マルコ1章2~4節)(イザヤ40章3節参照)

ところでこのバプテスマのヨハネがどんな生活をしていたかというと、マルコの福音書1章には、次のように記されています。

バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。

このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。 

マルコ1章4~6節

この聖書の記述から、バプテスマのヨハネは、荒野で禁欲的な生活をしていたことがわかります。一説によると彼はエッセネ派というユダヤ教の中でも厳格に律法を守る一派に属していたのではないかとも言われています。エッセネ派というのは世俗から離れ、荒野で共同生活をし、衣食住すべてが質素で、罪の清めのために毎日沐浴して心身ともに清めの生活を送りながら、聖書で預言されている終末に備えていたようです。

いずれにしてもバプテスマのヨハネは聖書に書かれている印象から、衣服も食べ物もとても質素で、彼がとても厳格で禁欲的な生活をしていたことがうかがえます。

そしてヨハネの2章にカナでの婚礼の話があるわけですが、イエス様がなされた最初の奇跡が、婚礼という場で、水をぶどう酒に変えるということであったことを考えると、バプテスマのヨハネと非常に対照的に見えます。マタイ11章にもそう思わせる次のようなイエス様の言葉があります。

「・・・ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、 また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。

マタイ11章18、19節

イエス様は婚礼に招かれ、おそらく弟子たちやそこに招かれた客と共に、お酒を飲み、ご馳走を食べ、笑ったり踊ったりしていたと思います。祝宴において普通、皆がそうするように、陽気に楽しまれたと思います。そして、そうした中でぶどう酒が途中でなくなってしまったのです。

聖書にはそうした婚礼でのイエス様の様子は書かれていませんが、おそらくそうであったと思います。

ところで私たちのイエス様のイメージはどんなものでしょうか?あまり笑っているイエス様という印象はないのではないでしょうか。いつも深刻な顔をされたイエス様の印象を持っている人もいるかもしれません。聖書にも、イエスさまが笑ったとか微笑んだという記述はありません。そしてそのせいか、クリスチャンになると禁酒禁煙で禁欲的にならなければいけないと思っている人もいます。実際、お酒やタバコを禁じているばかりかいろいろな戒律がある教派もあるようです。しかし、もし、お酒を飲むことを神が喜ばれないのであれば、カナの婚礼で神は水をぶどう酒に変えられることはなかったのではないかと思います。

大切なことは、飲む飲まない、といったようなことではなく、「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(第一コリント10章31節)ということだと思います。そのように生きる時、神は婚礼の途中でお酒がなくなったという状況にも介入して下さり、その栄光をあらわしてくださるのだと思います。

私たちのこんな悩みを神は知っておられるのだろうか?神は気にかけてくださるだろうか?という状況に対して、神は真の理解と憐れみ、思いやり優しさを持って答えてくださるのです。

最後にお祈りしましょう。

「主よ、感謝します。あなたは、『私は決して、あなたを離れずあなたを捨てない』『地の果てまで、世の終わりまで、あなたと共にいる』『私はあなたを捨てない』『あなたは私たちはスズメよりも優ったものだ』『一羽の雀も父の許しなしには、地に落ちることはない』と言われました。

私たちの髪の毛まで数えてくださっているあなたは私たちの苦境をご存知です。そして主よ、あなたは素晴らしい永遠のご計画のもとに、私たちの一つ一つの状況に介入してくださろうとしておられます。私たちが肉の思いと判断によって、永遠の素晴らしいご計画を阻害したり、立ち入ったり、あなたに先んじたり、あなたに後から遠く離れてついて行ったりしませんように助けてください。

主よ、どうか私たちが、生きて今働いてくださっているあなたに信頼してお任せして進んで行けますように。主よ、感謝します。あなたが共にいてくださることを知ると、本当に力強く感じます。あなたのみわざこそ、最高であり、あなたは私たちを守ってくれる牧者です。あなたに栄光がありますように。感謝してイエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン。