イエス様が、バプテスマのヨハネの使いが立ち去った後に弟子たちにヨハネについて語ります。ルカ7章24節から読んでみましょう。

ヨハネの使が行ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、

「…あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。

(ルカ 7章24,28節)

神の国では最も小さい者も、彼(ヨハネ)よりは大きい、とイエス様は言われました。ヨハネは女から生まれた者の中で最も偉大な者なのだけれど、神の国では最も小さい者も、彼よりは大きいのです。

だからイエス様が打ち立てようとしているみ国と、ヨハネが待ち望んでイメージしていた国は違うわけです。小さな私たちは神様の恵みによって救われて、そして愛によって生かされ恵みによって罪ゆるされた人達の国と、その不正不義をやめさせて悔い改めて立ち返らせ、社会悪を指摘し変革すれば、あるいは支配階級を追い払えば、何とかなるだろうと思っているヨハネの抱いていた理想の国のイメージとは、大きな違いがあるわけです。

ところで「女から生まれた者の中で最も偉大な者」だったと言われたこのヨハネは、どのように死んだと思いますか? 

同じマタイの14章1節から14節まで、読んでみましょう。

そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、 家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。

というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。

すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。 そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。

さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、 彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。

すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。

王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、 人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。

その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。

それから、ヨハネの弟子たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。

イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩であとを追ってきた。

イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。

(マタイ 14章1-14節)

女から生まれた者でこれ以上に大きな者はなかったと言われたこのヨハネが、王の不義を指摘したことで、牢に入れられ、このような死を遂げました。支配者のひと時の余興と、腹いせと面子のために。

これがこの世です。時代が変わっても人のあり様は、あまり変わっていません。正しい者の主張は、権力者にとってうるさいなら黙らせられる、そうしたことは、今もよくあることです。神様はこの世について何と言っているでしょうか。

世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。

(1ヨハネ 2章15節)

もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。

もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

(ヨハネ 15章18-19節)

パート15に続く