「ヨハネの福音書三章」 (2020年8月7日クラス)

 イエス様の言葉は、15節で終わっていますが、新改訳(第四版)聖書の欄外注には、「ここまでをキリストの言葉としないで、21節の終わりまでとして訳すことができる」とあります。

 さて、聖書の要約とも言える16節を読みましょう。

 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

(ヨハネ3章16節)

ここにイエス様がこの地上に来てくださった理由が述べられています。そして、ここに最高の神の愛が表されています。

 この世、つまり私たち人間を愛して、神はそのひとり子イエス様を与えて下さった。与えるとは何を意味するかというと、イエス様の十字架の死を意味しています。あらゆる時代の全ての人々の罪を、イエス様の死をもってあがなってくださったのです。イエス様は人類を救うためにこの世に来られて、それを邪魔しようとした人たちに殺されてしまったのではありません。始めからその命を捧げるために来てくださったのです。御子を遣わされた父なる神は、何の痛みもなく御子を世に遣わされたのではありません。私たちの救いには、神と御子の深い苦しみと悲しみが伴っていたことを見落としてはいけません。神はそれほどまでに私たち人間を愛して下さり、皆がイエス様を信じて救われ、神との関係を回復することを望まれていたのです。

 それは神を信じる人のためばかりではなく、神の存在を否定し、神に背を向けて自分中心に好き勝手に生きていた人のためでもありました。そこに無条件の神の愛を見ることができます。パウロも次のように言っています。

 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。

(ローマ5章7,8節)

 神は私たちが良い行いをしているから、真面目に生きているから愛して下さっているのではなく、ただ御自身が造られた尊い存在として私たちを愛して下さっているのです。イエス様がこの地上に来られたことによって、それが明らかとされたのです。

 続きを読みましょう。

 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。(ヨハネ3章17~21節)

 イエス様は、さばくためではなく、救うために来られたとあります。救うというのは罪の赦しでもあります。何か心にやましいことがある人は、裁かれるのを恐れます。しかし、イエス様が罪の赦しを与えようとするのに、罪の奴隷状態から救うために来られたというのに、なぜイエス様に来ようとしないのでしょう?それは、彼らが光よりも闇のほうを愛したからだと言っています。心にやましいことがある人は、それを明るみにされたくないので、光に来ようとせず、そればかりか光を憎むのです。それは神によって新しく変えられることを望まないからです。自分のこのままのスタイルで、自分の思うように生きていたい。自分の地位や名誉を守りたい。たとえ悪いことであっても、その楽しみを手放したくない、そういう思いがあるからです。しかし、真理に生きる者、真理に生きたいと思う者は、光に、イエス様のもとに来ます。御霊によって、神の望み通りの者に変えられたいと願います。たとえどんな犠牲を払っても、そのほうが価値のあることだと知っているからです。何よりもイエス様の真の愛に触れたことで、そう生きられずにはいられなくなるからです。

 神は、人々がひとりも滅びないで、永遠の命を得ることを望んでおられます。もちろん、それはこの肉体のことでありません。肉体はいつか滅びます。しかし、イエス様を救い主として信じ、神の御霊の内に生まれ変わるなら、霊は永遠に生きるのです。それはたった今、イエス様を信じたこの瞬間から、その永遠の命に移り変わっているのです。そして、永遠の命とは、ただ天国で永遠に生きられるというだけのことではありません。今まで関係が断絶されていた魂の親である父なる神とイエス様との関係が回復されるということです。その喜びにあふれた交わりのうちに生きられるということです。神は、私たちがどんな放蕩者であったとしても、わが子として御自身のもとに戻ってくることを望まれているのです。

 神はすでに救いの手はずを整えて下さいました。あとは私たちがそれに応答し受け入れるだけです。

-パート7に続く