「ヨハネの福音書三章」 

<ニコデモとイエス様の問答>

イエス様はニコデモに、肉体の誕生、自然界のたとえなど、地上のことを用いて神の国に入るためには霊的誕生が必要であることを説明しましたが、それでも理解できなかったニコデモに、次のように言われました。

イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。

(ヨハネ3章10~12節)

 イエス様は「これぐらいのことがわからないのか」とニコデモをたしなめています。律法(旧約聖書)を熟知していたニコデモのような人であれば、これまでのイエス様の説明で理解できるはずなのです。

霊的に新しく生まれ変わらねばならないのは、人が霊的な死の中にあるからです。アダムとエバが罪を犯して以来、人類は全て神から隔てられ霊的に死ぬ者となりました。肉体的には生きていても、霊的には死んでいるのです。それを回復するためには、新たに霊のうちで生まれることが必要なのです。そして、私たち人類がその回復に与かれるようにと、イエス様は地上に来て下さったのです。

たとえこの時、ニコデモがイエス様の言葉を理解できなくても、最初にイエス様に敬意を表して言った「あなたが神から来られた教師であることを知っています。」という言葉が本心であるなら、イエス様の語っていることを神の言葉として受け入れるべきですが、ニコデモは、イエス様のしるし、力ある奇跡のわざに惹かれていたけれども、まだ自分の目の前のイエス様の存在を通して神がニコデモになさっているわざを信仰によってとらえることが出来ていませんでした。

同じく、御霊を通して、今もすべての人にイエスの愛は示されています。それに気づきさえしたら、そこがその人の死から命への出発点となります。たった今、ここで。

この神の国への招きを受け入れることができるかどうかは、宗教的知識によるものではなく、神の御霊の愛の呼びかけがある時に、御霊の助けによって、その呼びかけに対して(イエス様はこの御霊の働きかけをどこから吹いてきてどこへ去っていくかわからない風にたとえられました)、各個人が応えるかどうかに多くかかっています。

この御霊よりの求愛を拒む時、真理ではなく暗闇に取り残されてしまうことになります。

(第二テサロニケ2章10,11節)

イエス様はその後、御自分は天から下って来た者であり、メシア(救い主)であることをニコデモがよく知っていたであろうモーセが荒野でへびを上げた話をされ、聖書に記述されていたことが、真の意味で、彼の目の前で成就されようとしていることを話します。

天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。

(13~15節)

この荒野でモーセがへびを上げた話は皆さんもよく知っていると思います。

主の恵みを感謝することもなく不平不満を言っていたイスラエルの民たちが、毒蛇に噛まれ、多くの死者が出たことがありました。その際、主はモーセに命じて、さおに青銅のへびをかけて上に掲げるよう言われました。そして、それを仰ぎ見た人は癒され救われたという話です。

(民数記21章4~9節参照)

それと同じように、人の子、つまり救い主であるイエス様も上げられなければならないと、十字架の死の予告をニコデモにしているのです。後にニコデモはそれを実際目にすることになり、その言葉の意味を知ることになるのですが、この時のニコデモには、イエス様のこの言葉の意味はわからなかったと思います。

生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。

(第一コリント2章14節)

―パート6に続く