ヨハネの福音書三章 パート3

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「ヨハネの福音書三章」

<ニコデモとイエス様の問答>

さて、パリサイ人のニコデモが、なぜイエス様のところにやって来たのかというと、それは、その前の章である2章の後半を見ると推測できると思います。そこには過越の祭の間に、エルサレムで多くの人がイエス様が行われたしるし(奇跡)を見て信じた(23節参照)ということが書かれています。ですから、おそらくニコデモもイエス様がされた奇跡を見て、もしやこの人は神の人なのか・・・救い主なのか・・・とイエス様に関心を持ったのでしょう。そして、はなっからイエス様を批判していたほかのパリサイ人とは違って、真理を知りたいという押さえ切れない気持ちが湧き起り、何としてもイエス様から直接話を聞きたいと思ったのでしょう。しかし、ニコデモはパリサイ人、しかもユダヤ人最高議会の議員という高い地位にあり、その立場上、人目のつかない夜に隠れるようにしてイエス様の所にやって来たのだと思います。

権威を持てば持つほど、上に行けば行くほど、色々なしがらみというものを抱えるものです。しかし、イエス様は、そんなニコデモのことをよく知っておられたのだと思います。2章24、25節に、「イエスご自身は彼らに自分をお任せにならなかった。それはすべての人を知っておられ、また人について証する者を必要とされなかったからである。それはご自身人の心にあることを知っておられたからである。」とあります。ですからイエス様は、ニコデモの自分の立場を守りたいという気持ちや、イエス様はもしやメシアなのだろうか・・・という真理が知りたいという心情も全てわかっておられたのだと思います。イエス様はニコデモに対し、パリサイ人のあなたが私に何の用があるのだ、という態度ではありませんでした。多くのパリサイ人はイエス様に敵対していましたが、主はこのグループはこうだと、十把一絡げにして決め付けて見たりはしないのです。イエス様は、一人ひとりの心を御存知で、それぞれが、どれだけ真理を探し求めているのか、神に対してどんな心を持っているのかを見ておられるからです。

 さて、イエス様の所にやって来たニコデモは次のようなことを言いました。

先生、わたしたちはあなたが神から来られた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしはだれにもできはしません。

(ヨハネ3章2節)

ここでニコデモは「わたしたち」と言っています。これはニコデモに近い人たち、つまりパリサイ人の間でもこのように思っている人たちがいたということだと思います。実際、ヨハネ12章42節には「役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。」(ヨハネ12章42節)とあります。この「役人」というのは、新改訳第四版や新共同訳では「議員」となっていって、ニコデモやその他の宗教指導者の中にも、密かにイエス様を信じた人がいたということだと思います。

さて、イエス様は、このニコデモの言葉に対し、次のように言われました。

よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない。

(ヨハネ3章3節)

「よくよくあなたに言っておく」という言葉は、イエス様が大事なことを話される際に言われるものです。イエス様はニコデモを始めとする宗教指導者たちが、わかっていない最も大事な真理について教えようとされたのです。それは救いについて、神の国に入るために必要なことは何かということです。

しかし、ニコデモにはそのイエス様の言葉が理解できませんでした。自分はイエス様が誰なのか知りたい、その真相を探るべく矢も盾もたまらず来たのに、この予想外のこの言葉は一体何なんだ?新しく生まれ変わるだって?それはどういうことなんだ?明らかにニコデモはこのイエス様の言葉に面食らってしまい、戸惑いながらも次のような質問をします。

人は年をとってから生まれることがどうしてできますか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。

(ヨハネ3章4節)

ニコデモは、イエス様が言われようとしていることが理解できていないので、全く的外れな質問を返しています。ちょうど、イエス様が弟子たちにパリサイ人のパン種に警戒しなさい、と言われた時に、弟子たちが自分達がパンを持ってこなかったためだと勘違いしたことに似ています。霊的なことを肉的に解釈すると、このように話がかみ合わなくなります。

ところで、イエス様は「新しく生まれなければ・・・」と言われていますが、この「新しく」と訳されている言葉、「アノーセン」にはもう一つの意味があり、それは「上から」です。フランシスコ訳はこの訳を用いて、「人は上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」となっており、また「新しく」という訳を用いている新改訳第四版には、注訳として「あるいは『上から』」となっています。上からとは天のことであり、つまり神の御霊の内に生まれ変わらねば救われない、天国に入ることはできないんだよ、ということをイエス様は言われているのです。そして、何を言っているのかさっぱりわからないといった様子のニコデモに対し、イエス様は今語られたのと同じ内容のことを、もう少し違う言葉で説明されます。

イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。(ヨハネ3章5節)

(ヨハネ3章5節)

このイエス様の説明に、まだ理解できないで動揺しているニコデモの姿が思い浮かんできます。私たちは今、イエス様の言われた「だれでも、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」という言葉の意味を知っています。救いは行いによるのではなく、イエス様を信じる信仰によるものだと知っています。しかし、ユダヤ人として生まれ、律法を守ることで神の国に入ると固く信じていたパリサイ人のニコデモにとっては、神の御霊のうちに新しく生まれ変わって救われるということが全く理解できなかったのです。