「ヨハネの福音書三章」

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<光と闇>

彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。

(ヨハネ3章18~21節)

「信じない者は、すでにさばかれている。」 これは罪赦されていないので、それゆえに霊的に死んでいる状態、罪の奴隷であり自由ではないという状態です。光が世に来たのに、それを受け入れない、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光に来ようとしない。これは罪を犯したアダムとエバがとった態度と同じです。彼らはそれまで神様との交わりを楽しみ、自分の内に神様に包み隠すことなど、一つもありませんでした。しかし、神の言いつけを破った途端、思いも態度も一変してしまい、神を避けて木の間に身を隠すようになってしまうのです。

悪を行っている者は光に来ず、光である神から隠れようとします。そして見つかれば今度は自分を弁護するために言い訳をします。自分がそうしてしまったのは、あの人のせいだ、あるいは状況のせいだ、と責任転嫁します。そして平安がないために、いつも恐れや心配を抱くようになり、性格まで変わってしまいます。罪の性格です。これが罪の入ってしまった人間の状態なわけです。そして、この状態がすでに裁かれている状態なのです。イエス様が来られるまでは全ての人がそのような状態でした。光であるイエス様はこの闇の世界に来て下さったのです。

ヨハネの福音書の1章4節には、「光は闇の中に輝いている、闇はこれに勝たなかった」とあります。「勝たなかった」というのはどういうことでしょうか?それは、ここに戦いがあるわけです。光が来たのだけれど、その光の下に行き自由になろうとする人たちを阻止しようと挑んでくる闇の力があり、その闇との戦いがあるのです。今まで、闇の中にいる人たちを支配してきた者は、それらの人々が闇から解放されて自由になることを望んでいません。自分がずっと神のようになって支配者でいたいからです。その支配者とは祭司や律法学者やパリサイ人のように思えますが、実はそうではなく、その背後で操っているサタンや悪霊共なのです。私たちはそこを見誤ってはなりません。だからパウロは、「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6章12節)と言っているのです。イエス様に解放して頂くまでは、人々はこの闇の世の主権者サタンの支配下にあり、罪の奴隷状態なのです。幸い、私たちは行いによらず、ただ神の恵みによって救いに与かることができましたが、今でもその闇の力は、まだ神を知らない人々が、神の赦しに与るのを妨げるために、彼らや私たちに様々な策略を用いて戦いに挑んできています。

その見えない敵とどのようにして戦えばいいのか、ということはすでに皆さんはよく知っていると思いますが、エペソ6章でパウロが説明してくれています。

それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、を足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。

(エペソ6章13~18節)

真理の帯、正義の胸当、平和の福音の備えの履物、信仰の盾、救いのかぶとなどの防具で身を固め、そして、御霊の剣、すなわち神の言葉をもって戦うのです。イエス様は「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。(ルカ21章33節)と言われました。私たちはこの不変の神の言葉の価値観で、それを基準として物事を判断します。人が造り上げた価値観で判断したり、裁いたりしません。私たちが神の御言葉から離れ悪魔にそそのかされているなら、闇にいる人々を自由にすることはできません。自分自身が束縛されているのに、他の人を自由にできるでしょうか?できません。私たち自身が真理によって自由にされて初めて、人々を真理へと光へと導くことができるのです。光の子として、光のうちを歩んで行こうではありませんか。

あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである―― 主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、

「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。

そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。

(エペソ5章8~14節)

―パート13に続く