マッテヤと十二使徒の人数

https://ichthys.com/mail-Matthias.htm

から抜粋翻訳

ロバート・D・ルギンビル博士 著

質問:

『ペテロ』シリーズ第2課で、先生は「十二」使徒(弟子たち)について述べておられます。しかし実際には、ユダ・イスカリオテを除いたとしても十三人いたのではないでしょうか。パウロを加えると十二人になりますが、使徒の働き第1章で選ばれたマッテヤもいるので、合計十三人になります。

返信:

「十三人の弟子」という問題についてですが、確かに、ペテロたちはユダに代わる者としてマッテヤを「選出」しました。しかし、聖書に記録されている人々の行動が、すべて神によって定められたものであるとは限りません(それは当然のことです。例えばサウル王のことなどを考えてみてください)。ペテロもまた、数多くの失敗を犯しました(「私の足を洗わないでください」、「それなら足だけでなく全身を洗ってください」など、ほかにもいろいろあります)。神ご自身が使徒たちについてのお考えを明らかにしておられる箇所では、いつもその数は十二です(例えば、黙示録21章14節にある十二の門のように)。その門には、だれの名前が記されているのでしょうか。もし、そのうちの一つに「マッテヤ」の名が記されていると考えるなら、では、だれの名前が除かれるのでしょうか。少なくとも、パウロではありません。彼は最後に召された使徒ではありますが、同時に最も偉大な使徒でもあるからです。

また、マッテヤの選出が行われたのはペンテコステ以前であったことも忘れてはなりません。その後、聖霊が来臨してからは、ペテロ(そして他の使徒たち)も、神のためにはるかに効果的に用いられるようになります。それは、聖霊が来られたことを考えれば、まさに当然のことです。さらに注目すべきことは、マッテヤを「選ぶ」際に、彼らはくじを引くという旧約時代の方法を用いたことです。しかし、イエスはそのような方法を決して用いられませんでしたし、新約聖書において、その方法が認められている箇所もありません(また、その後に実際に用いられたこともありません)。また、神はペテロに、「新しい十二人目を選びなさい」とは何も告げておられませんでした(もっとも、異邦人に福音を携えて行く時が来た際には、ペテロは神から直接の啓示を受けています)。そして最後に、神ご自身が十二人目を選ばれる時には、主イエス・キリストご自身がパウロに奇跡的な方法で現れ、それが神の召しであり、神ご自身がパウロを十二人目として選ばれたことに、何の疑いも残さない形で示されたことに注目してください。

私たちは、この方〔イエス・キリスト〕によって、御名のために、あらゆる国の人々を信仰の従順へと導くため、恵みと使徒職を受けました。 (ローマ1章5節

マッテヤは疑いなく立派な信者でした。しかし、使徒ではありませんでした――人々の目にはそう見えたとしても(しかも、それは誤った見方でした)。使徒については、「神は決して十二人を超える使徒をお持ちになったことはない」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。最後に、使徒行伝1章26節のギリシヤ語本文において、ルカは、この選出は当時の状況では彼らにとって理解できる行動ではあったものの、神が認められたものではなかったことを、それとなく示唆しています。マッテヤの選出について、ルカは「彼は十一人とともに投票で加えられた」ではなく、「彼は十一人とともに投票によって数えられた(あるいは判定された)」という表現(動詞 synkatapsephizo〔シュンカタプセーフィゾー〕:συγκαταψηφίζω)を用いています。この語の語源からすると、その基本動詞は「票によって退ける」、すなわち「否決する」、あるいは、より正確には「有罪と宣告する」という意味であるはずです。この語そのものは、ギリシヤ文学全体でももう一か所(プルタルコス)にしか現れませんが、そこでは「ともに有罪とする」という意味で用いられています。そして、ここでは受動態が用いられているので、その用例に従えば、「ともに有罪とされる」という意味になるはずです。この文脈におけるこの動詞の正確な意味については、一部の学者の間で異論があるかもしれません。しかし、言語学上のあらゆる慣例からすれば、この語は少なくとも否定的な含みを持っていると理解されるべきです。

<訳文省略>

この問題は重要です。というのは、使徒時代以降、人々が「母なる教会」の名のもとに神へ押しつけようとしてきた多くの事柄は、実際には肉によるものであり、神のご計画にはまったく含まれていなかったからです。十二番目の使徒を人間の判断で選出したという誤った行為(本来そのようなことは、神の御心によってのみ、しかも他の使徒たちの場合と同じように、イエスご自身の選びによってのみ起こり得たことでした。ルカ6章12-16節使徒行伝9章15節参照)は、教会運営において、人間の意思を神の御心に置き換えるという、善意から出たとはいえ残念な一連の誤りの最初の例となりました。そして残念なことに、その傾向は今日に至るまで続いています。マッテヤの出来事から学ぶべき重要な教訓は明白です。たとえ教会の中で権威ある立場にいる人々であっても、「これは神の御心である」と自ら宣言したからといって、それだけで実際に神の御心になるわけではありません。使徒を選ばれたのは人間ではなく、イエスご自身でした。そして、その選びは「聖霊によって」行われたのです。

(1) テオピロよ。私が最初の書に記したのは、イエスが初めから行い、また教え始められたすべてのこと、(2) すなわち、ご自分が聖霊によってお選びになった使徒たちに命じられた後、天に上げられた日までのことでした。(使徒行伝1章1-2節

しかし主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人(すなわちパウロ)は、異邦人、王たち、そしてイスラエルの子らの前にわたしの名を運ぶために、わたしが選んだ器です。」(使徒行伝9章15節

次の資料も参考になるでしょう。<英文>

今日の教会に使徒は存在するのか。

キリストの十二弟子(十二使徒)の死。

「その他」の使徒たち。

パウロは第十二の使徒である。

この件について最後にもう一つ付け加えるなら、それはペテロたちが採った手続きについてです。旧約聖書でくじが用いられている箇所では、敬虔な人々はまず、「私たちはAをすべきでしょうか、それともすべきではないでしょうか」という、より根本的な問いを神に尋ねています(例えば、第一サムエル30章8節)。しかし、この人たちが本来尋ねるべきであったのは、「ユダの後任を選ぶべきでしょうか、それとも選ぶべきではないでしょうか」という問いでした。それなのに彼らは、「主よ、ここに二人の候補を用意しました。このどちらかを選んでください」という形で事を進めてしまったのです。

私たちの主イエス・キリストにあって。

ボブ・ルギンビル