ペテロ#17
キリストに倣う
ロバート・D・ルギンビル博士著
キリストに倣(なら)うためには霊的成熟が必要です: キリストに倣うには、イエスが歩まれたように歩むことが必要です。キリストに倣うことは霊的成熟なしには達成できず、霊的成熟は聖書の徳を深く理解し、持続的に適用することなしには達成できません。徳とは、真理を抽出し、個人の生活に適用したものです。聖書の真理について私たちが知っていること、理解していること、信じていることはすべて、習慣化された思考パターンにまとめられなければなりません。 成熟に到達し、高潔な思考と行動の人生を達成するというこの目的において、私たちは一人取り残されているわけではありません。神は私たちを助けるために広範な支援システムを備えておられ、それは私たちが教会のあらゆる面から受ける支援に限定されるものではありません。私たちはまた、私たちの師であるイエス・キリストの高潔な生活という、従うべき詳細な型も与えられています:
そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。 こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。 また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。 (エペソ書 4章11-16節)
私たちの模範であるキリスト: クリスチャン生活、クリスチャンの歩みは、神の御言葉に教えられた徳によって特徴づけられるべきです。 私たちは、愛はこれらの徳のすべてを体現するものであり、完全な愛の生活は必然的に完全に徳の高いものになると述べました。私たちの主イエス・キリストの生涯はそのようなものでした。 主イエス・キリストは、この地上におられた間、神の愛を体現し、模範とされました。そして、私たちが直面するのと同じ人生の困難に直面しながらも(ヘブル4章15節参照)、ご自身の模範によって、私たちの模範となるべき型、すなわち、私たちがそれに従いさえすれば、神に喜ばれる徳の高い人生へとまっすぐに導かれる足跡を示されたのです(第一ペテロ2章21-25節: 参照:マタイ16章24節; ヨハネ13章15節)。
聖書はイエス・キリストについて書かれたものであり(ヨハネ5章39節)、イエス・キリストという神の贈り物によって示された神の愛について書かれたものです(ヨハネ3章16節)。 この意味で、聖書のどのページにも神のご性質とキリストの愛が反映されているのです。 これまで見てきたように、霊的成長とは変容のプロセスであり、そのプロセスの理想的な目標は、私たち一人ひとりの内にイエス・キリストの人格が形成されることです(ガラテヤ4章19節)。そのためには、私たちは「キリストに倣い」(第一コリント11章1節)、キリストが「私たちの心に住まわれる」(エペソ3章16-17節)まで「キリストを着る」(ローマ13章14節)必要があります。 これらの各箇所の文脈は、キリストの人格の再現が、私たちがこれまで論じてきた私たちの思考の変容と一体のものであることを示しています。 第一コリント11章1節では、「キリストに倣いなさい」という命令は、自己犠牲、つまり、他者の霊的な進歩のために自分よりも他者に配慮するという文脈で与えられています(1コリント10章23-33節)。 ローマ13章14節の「キリストを着なさい」という命令は、私たちが霊的な「歩み」をまっとうに行うことができるように、罪の性質の悪徳を拒絶するという文脈で与えられています。最後に、キリストが「私たちの心に住む」ようにというパウロの祈り(エペソ3章16-17節)は、「信仰によって」成し遂げられるものであり、私たちがまず「聖霊によって内なる人の内面が強められる」ことが前提です。私たちの主の品性を模倣することは、私たちが主と同じように考え始め、自分自身よりも他者の霊的な福祉を優先し、罪の性質の主張を拒絶し、御言葉と神の御霊に私たちの力を求めるときにのみ可能となるのです。
謙遜における私たちの模範であるキリスト: もし私たちが真剣に自分の考え方を改めようとするなら、最初から身につけるべき考え方のパターンの一つは謙遜です。「キリストに倣う」(第一コリント11章1節)ためには、キリストが持っておられたのと同じ謙遜な考え方を身につけなければなりません。 高慢とは、他のすべての事柄よりも自分を優先させることで、サタンとアダムの原罪です(イザヤ14章13-14節; 創世記3章6節)。 高慢、すなわち傲慢は、謙遜の美徳と密接に関連する、愛と他者への配慮という自己犠牲の対極にあるものです。謙遜は、私たちが維持するように命じられている美徳の心構えであり、この態度の模範は私たちの主です:
キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 (ピリピ書 2章5-8節)
キリストの謙虚で愛に満ちた犠牲を示すパウロの模範は、私たち自身のちっぽけなエゴが日々耐えている侮辱を、視点を変えて考えさせてくれます。傲慢(その語源によれば)とは、自分に権利のない名誉や配慮を要求することを意味しますが、キリストには神として扱われるあらゆる権利がありました。しかし、愛のゆえに、私たちのために奴隷となり、私たちの身代わりとなって死ぬために、ご自分を自ら差し出されたのです。主に従うことを信じるクリスチャンとして、私たちはキリストのように「高潔な思いをもって」、謙遜の視点を維持しなければなりません。他人のために命を捧げることを求められることはないかもしれませんが、少なくとも、キリストは自分のためだけでなく、すべての人のために死んでくださったという視点を持ち続けるようにしなければなりません。私たちの羊飼いの長が同胞である信者たちのために命を捨ててくださったのであれば、私たちは少なくとも寛容と赦しをもって彼らに接するべきではないでしょうか。利己的な態度ではなく、他者に奉仕する態度は、徳の思考プロセスに必要な要素です。謙虚さは、成熟した信仰者の思考を特徴づけるべき徳や態度の一つです。謙遜さがなかったり、傲慢さがあったりするのは、真理の原則に集中しておらず、キリストに倣っておらず、徳のある考え方をしていない証拠です。
試練におけるキリスト:私たちが自分の考え方を変えることによってライフスタイルを変えようとするとき、悪魔とその手下たちは、私たちが踏み出した積極的な一歩をそのまま許すことはないだろうということを心に留めておくべきです。キリストが荒野でサタンから持ちかけられた誘惑に聖書の原則で応えられたように(マタイ4章4-10節)、私たちも同じことをする用意ができていなければなりません。それは、人生のあらゆる緊急事態に対応するために特定の聖句を見つけなければならないということではなく、むしろ、主の模範を通して私たちが見習うことを学んだ積極的な美徳を中心に思考を集中させるこの習慣が、キリストがそうであられたように、試練の時にも私たちをしっかりと支えてくれるということです。さらに、試練や誘惑には常に二つの要素があります。「プレッシャーをかけてくる」外的な出来事や刺激と、サタンが私たちを陥れるためにいつも協調しようとする昔ながらの一味、私たち自身の内なる罪の性質です。
すべての信者の人生に降りかかる試練に合格し、誘惑に打ち勝つことは(実際、霊的な前進の不可欠な部分です)、少なくとも二つの観点から見るべきです。 第一に、困難な試練をうまく切り抜けることは肯定的なことであり、他のことをするようにというプレッシャーにもかかわらず主に従うことです。第二に、このような行動は、神の御心に反するすべてのことを必然的に支える罪の性質を否定し、打ち負かすことでもあります。もし私たちが「キリストを身に着け」(ローマ13章14節)、荒野でキリストがなさったようにするなら、同時に、神のみこころではなく私たちの欲望に従うように私たちに命じる古い人(罪の性質)を「脱ぎ捨て」なければなりません(コロサイ3章9-10節)。 神の御言葉の真理に集中することを学ばなければなりません。
神が私たちに、学んで使うようにと望まれている真理の原則を通して、自分たちの経験を解釈することを学ばなければなりません。荒野でサタンが主に問題を投げかけて混乱させようとしたように、サタンは私たちを真理から遠ざけるために、混乱させ、誘惑し、方向感覚を失わせる誘惑や困難に満ちた世界全体のシステムを開発しました。キリストは、御言葉と御父のみこころに完全に集中することによって、その試練を乗り越えられました。荒野で悪魔の誘惑に遭われたときも、サタンの投げかける試練に真理をもって答えられました。 私たちが試練の時に主に倣うためには、私たちも同じようにしなければなりません。与えられた状況に真理をもって答えるためには、もちろん、まず真理の原則を考えなければならないのです。困難に直面したとき、すぐに聖書に頼ることができるとは限りません。私たちが悪魔の世界でクリスチャンとして日々効果的に機能するには、神の真理をいつでも使える形で頭の中に入れておかなければなりません。私たちは常に聖句の徳(正しい行動や態度の原則)に集中する習慣を身につけなければなりません。
キリストを心に: 「内なる人が強められ」て初めて、私たちは内なる主に集中し、主が本当に「私たちの心に住んでおられる」(エペソ3章16-17節)と言えるようになるのです。この強化のプロセスは(エペソ3章が教えているように)「信仰によって」、「聖霊」の助けによって達成され、「愛」という土台の上に成り立っています。その順序は明らかです。(神の助けによって)信仰と愛が成長することによって、キリストが私たちのすべてとなるまでの内的成長のプロセスが促進されるのです。したがって、自己の内面を強化することは、徳を高め、集中し、実践することと切り離しては考えられないのです。そうして初めて、使徒パウロのように、キリストが私たちの地上生活の中心にあって、世を去って主と共になることはただ益を意味する(ピリピ1章21節)という境地に到達することができるのです。神が私たちに望んでおられるようなクリスチャンになるためには、私たちの目をますますしっかりとイエスに向け、私たちの師の徳の高い歩みと生活に近づくために、成長し続けることが必要なのです。
美徳思考の秘訣: 聖書には、徳の高い行いが素晴らしく、近寄りがたいと思われるほどの信者の見本がたくさんあります。 ヨブの忍耐、ダビデの喜び、ダニエルの信仰、パウロの平安を持ちたいと願わなかったクリスチャンがいるでしょうか。 これらの徳やその他の徳は、私たち全員が実際に手に入れることができるものなのです。過去の偉大な「証人の雲」(ヘブル12章1節)は皆、地上を覆っている霞を突き破り、信仰の目でその向こう側を見る能力を持っていました。彼らが忍耐強く、忠実で、喜びに満ち、真の心の平安を経験できたのは、時の苦しみや失望を超越したより大きな、より良い現実があることや、絶えず私たちを襲い混乱させる現世の憂慮や混乱は、気を逸らさせる一過性のものであること、そして、より重要な神の実存、来たるべき私たちの永遠のすみか、そしてその市民権に対する私たちの責務がこの地上の目に見える生活の問題をはるかに超越していることを「見ていた」からです。このような視点はすべての信者が習得できるものですが、自動的に身につくものではありません。聖書の学びを通して学んだクリスチャンの美徳を実践する意識的な努力が必要なのです。その適用のための基本原則をいくつか考えてみましょう:
1. 基本的な方向づけ: もし私たちが、見知らぬ森の中を地図を使って進んでいるのだとしたら、地図に記載されている情報は、私たちがそれを方向付けることができなければ、ほとんど役に立ちません。つまり、地図上の情報が意味を持ち、実際に目にするものと関連するように、地図を正しい方向に向けることです。同様に、聖書に挙げられている数々の徳目(美徳のリスト)は、内的な「方位磁石」のような役割を果たします。聖書の真理と、私たちが対応しなければならない実際の状況との間に橋を架けることで、私たちがこの地上で生きる人生の方向を定める助けとなるのです。具体的な徳について考える前に、聖書は私たちの思考を神と神の御心に向けるための明確な徳の指針を示していることに注目すべきです:
– 地上のことではなく、天上のことに考えを集中すべきです(コロサイ3章2節; ピリピ3章19-20節, 4章8節)。
– 高慢なことではなく、謙遜なことを考えるべきです(ローマ12章2-3節)。
– 同胞である信者たちを分裂させるのではなく、一致させるようなことを考えるべきです(ローマ12章16節, 15章5節; 第二コリント13章11節; 第一ペテロ3章8節)。
– 私たちの思考は、人間や悪魔の思考ではなく、御父の思考に似るべきです(マタイ16章23節)。
– 私たちは御子のように考えるべきであり、私利私欲のために考えるべきではありません(ピリピ2章2-4節)。
– 私たちは肉の思いではなく、御霊のように考えるべきです(ローマ8章6節)。
– 子供のように考えるのではなく、成熟した人のように考えるべきです(第一コリント13章11節; ピリピ3章15節)。
これらはすべて、私たちクリスチャンの思考がたどるべき非常に明確な「方向」です。これらをしっかりと心に留めておくことで、私たちは方向性を保ち、神に喜ばれることを黙想し、正しい、徳のある「方向」に進むことができるのです。
2. 美徳の向上: 物事をできるだけ大きなスケールで見ることは、しばしば困難です。 これまで述べてきたように、すべての徳は愛(イエス・キリストにおいて表された私たちに対する神の愛と、神と神の被造物に対する私たちの愛の応答)に帰することができ、聖書全体は、この最も本質的なキリスト教の徳のための訓練の場とみなすことができます。しかし、現実的なレベルでは、私たち不完全で全知全能ではない人間は、物事をより詳しく説明される必要があります。特に成長の初期段階においては、私たちには、もっと明確に取り組めるものが必要なのです。 ペテロの第二の手紙には、クリスチャンの最も基本的な徳のリストがあります。 私たちはより詳細な情報を求めることで、最初の手がかりを見つけることができます。ペテロは、これらの徳目を、必ずしも重要度によってではなく、むしろ、積み木のように、それぞれがその上に置かれる積み木の土台となります。ある意味で積み木を積み上げていくような、自然な成り行きの順序で、私たちのためにランク付けしています:
それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、 知識に節制を、節制<自制-新改訳>に忍耐を、忍耐に信心を、信心<敬虔-新改訳>に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。 これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。 (第二ペテロ 1章5-8節)
ペテロの第二の手紙では、次のような順で記されています: 信仰、徳、知識、自制心、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛。これらの徳は互いに排他的なものではなく、ある程度重なり合っています。 とはいえ、ペテロが提案した段階順は理にかなっており、より徳の高いクリスチャン生活を送るためにどのように積み上げていけばよいかを説明するのに役立つでしょう。 パウロの有名な「短いリスト」(第一コリント13章13節)と同様に、徳は信仰から始まり、愛で終わります。
– 信仰、すなわち神とその御子イエス・キリストに対する暗黙の信頼は、すべての成長の土台となる岩盤です。 霊的な進歩を遂げるためには、まず神と御子と御子の救いの御業を信じ、神の言葉の真実さと、復活と報いに関する神の約束の現実を信じなければなりません(ヘブル11章6節)。
-道徳、ペテロがこの文脈で用いているギリシャ語アレテareteの訳語としては、道徳が適切です。 通常、「美徳」や「卓越性」と訳されますが、トゥキュディデス<古代ギリシアの歴史家で、ペロポネソス戦争の歴史で知られる(紀元前460年−395年)>(および他の場所)では、この単語はある状況において「正しいこと、適切なこと」という意味を持つことがあります。 「正しいことをする」というのは、ペテロがここで念頭に置いている卓越性や美徳の一種であり、私たちが考える(人生のあらゆる領域における)まっすぐで道徳的な行動が、この意味を最もよく伝えています。
– 知識がペテロのリストの次です。神とキリストを信頼することを学び、「行いを清める」ことができたら、次のステップは神の御言葉の教えと原則についての理解と知識を深めることです。しかし、これは最初から知識を求めるべきではなかったと言いたいのではなく、キリストを信じた直後から、一定の正しい生活を確立することの重要性を強調したいのです。常識的に考えてもクリスチャンとしての行いにそぐわないと分かるような基本的な行動を正す前に、「情報を待つ」べきではありません。しかし、霊的な成長を続けるには、神の御言葉の真理を源とする知識が必要です。
– 自制、使徒パウロは、フェリックスに福音を伝える際に、義と来るべき裁きと共に、自制を重要なポイントの一つにしました(使徒行伝24章25節)。新約聖書では、自制とはギリシャ語のengkrateiaで、さまざまな欲望や欲望を持つ罪の性質をコントロールすること全般を指しています。 この言葉は、舌や心の罪から、よりあからさまで粗暴な行動まで、広い領域をカバーしています。 救われたとはいえ、私たちはこの世で肉に宿っている罪の性質から切り離されたわけではありませんから、恥ずかしさや悩みのもととなるこの性質を強く一貫して自制することによってのみ、徳と霊的成長の進歩を望むことができるのです。
– 忍耐は、試練が訪れたときに必要とされる資質です(ヤコブ1章3-4節, ヘブル12章1節)。 そして、私たちが良いクリスチャン生活を確立し、自分の行動をうまくコントロールしながら神と神のみこころについて学ぶことを前進させた途端に、私たちは間違いなく試練を受けることが予想されます。忍耐と希望は使徒パウロによって密接に結びつけられており(ローマ8章25節)、忍耐(試練の重圧に「耐える」こと)には、ペテロのリストにある希望に最も近いものがあります。 忍耐とは、たとえプレッシャーや試練が大きくなっても、自分の信念や(神の御言葉に一貫して生きることなどの)適用に固執することです。希望は忍耐の裏返しです。死後、私たちは永遠に主と共にあり、現在のもろい体から栄光の復活を経験し、現世での主への忠実な奉仕に報いられるという確信に満ちた期待はすべて、今この瞬間を超越し、代わりに現在の困難を凌駕する永遠の現実に私たちの視線を向けることに貢献します。これこそが、私たちに耐え忍ぶ意志を与えてくれる希望なのです。
– 敬虔もまた、この文脈では特別な意味を持つ徳目です。 エウセベイアeusebeiaという言葉は、ギリシア人がオクタヴィアヌスの皇帝としての敬称「アウグストゥス」を訳すのに選んだのと同じ語根(seb-)に基づいており、畏敬、尊敬、崇拝の観念と結びついています。 したがって、一般的に「敬虔」と訳される言葉には、(厳密に言えば)神についての言及はありませんが、信心深い、うやうやしい、あるいは「神をうやまう」行動をするという意味が含まれています。 ここで最も重要なのは敬虔という概念です。ローマ用語では、ピウスpius<ラテン語-「敬虔な者」の意>であるためには、神々や家族、国に対する義務を果たさなければなりませんでした。義務を果たすこと、特に個人の霊的賜物に基づく務めを果たすことは、ペテロがこの段階の徳について伝えようとしていることの主要なことです。信仰、潔癖、聖書の学び、罪の性質を制すること、そして人生の試練に耐える能力を特徴とするクリスチャン生活を築き上げたら、信仰を実行に移すことによって、つまり、神から与えられた務めを果たすことによって、教会の仲間に「お返し」を始めるべき時なのです。これが、私たちがこの成長段階に達した後の、徳の適切かつ敬神的な適用です。
– 兄弟を愛すること(フィラデルフィヤ、すなわち、仲間のクリスチャンを愛すること)と愛(アガペー、すなわち、すべての人に向けられたクリスチャンの愛)は、このリストの頂点にある二つの徳です。ペテロがこの二つを分けているのは非常に興味深いことです。これが意味するところは、私たちはすべての人に愛を捧げる義務があるけれども、信仰者として第一に優先すべきは他の信仰者たちであるということです。 これは決して、未信者に対する愛やクリスチャンとしての奉仕をケチったり、利己的であることを示唆しているのではなく、「クリスチャン家族」を第一に大切にしなければならないということです。第一の徳として、アガペーの愛が私たちの生活を真に特徴付けているとき、それは他の徳も存在し、機能している確かなしるしなのです。
ペテロは、もし私たちがこれらの美徳をすべて持ち、育てていくなら、「わたしたちの主イエス・キリストを知る<英文では「完全に知る」>知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。」(第二ペテロ1章8節)と言って、リストを締めくくっています。 ここで述べられている「完全に知る」とはギリシャ語のエピグノーシスepignosisで、先のリストにある知識(グノーシス)以上の意味を持っています。エピグノーシスは、完全で、効果的で、方向づけられた知識、認識、忠誠、完全な理解、言い換えれば、持っている知識の徳ある適用を意味します。
3. 信仰、希望、愛: 第一コリント13章13節にあるパウロの有名な徳の基本リストは、信仰、希望、愛から成っています。 ペテロのリストと同様、パウロのリストも進歩的です。愛は究極的な徳ですが、実際的には、その徳の採用は私たちの霊的成長(その過程には、信仰と希望が前もって発達していることが必要です)に左右されます。「これら三つのもの」は、教会の初期、創建期の華々しい賜物が機能しなくなった後、私たちに残されたものだとパウロは教えています。キリストの体である私たちは、異言、預言、癒しなどの驚異を徳に置き換えるのです。私たちが主と対面する主の再臨まで、私たちを支え続けなければならないのは、からだのすべての成員によって実践される徳なのです:
– 信仰は、私たちの新しいクリスチャン生活の目であり、神がこの世で私たちに歩ませる道を導くものです(第二コリント4章18節, 5章7節)。 イエス・キリストを信じる者として、私たちはこの世の反対の証言にもかかわらず、神が私たちに語られたことが真実であるという確信、信頼、信仰を持ちます(第一コリント1章21節)。世は懸命に私たちの信仰を弱めようとしますが、私たちは神が私たちに与えてくださった約束を信じます(第二コリント7章1節)。キリストが私たちの代わりに死んでくださったので、私たちの罪は赦されたと信じます。キリストとその御業を信じる信仰によって、私たちは永遠に生きることを信じます。たとえ塵となったとしても、今私たちが住処(すみか)としているこの一時的な体は、決して朽ちることのない、栄光に満ちた永遠の住まいへと変えられることを信じます。私たちは、この世のすべての悲しみ、涙、苦難は、来たるべき永遠のいのちにおいて永遠に過ぎ去ることを信じます(黙示録21章4節)。私たちは、キリストが私たちのために場所を用意し、私たちがキリストと永遠に共にいることができるように、私たちよりも先に行かれたことを信じます(ヨハネ14章2-3節)。神が私たちに約束してくださったので、私たちはこれらすべてを信じます(ヘブル11章6節)。私たちは神の御性質と御言葉の真実を信じます。人生の試練にもかかわらず、私たちは信仰を堅持し、その試練に耐えることによって信仰を強めていくのです(ヤコブ1章2-4節; 第一ペテロ1章6-7節)。私たちが真理を知っているのは、それを数値化できるからでもなく、証明できるからでもなく、経験的な証拠を提示できるからでもなく、まったくその逆なのです(ヘブル11章1節)。私たちに必要な唯一の証拠は信仰であり、それ自体で自足できるものではなく、神ご自身のご性質に根ざしたものなのです(第一ペテロ1章21節)。 私たちには信仰が、神と御子イエス・キリストと、聖典に記されている約束とに対する信仰が与えられています。 信仰は、人生の失望や心痛に耐える力を与えてくれます。私たちが経験するすべてのことを、神が私たちの究極的な益のために命じておられると信じるからです(ローマ8章28節)。
– 私たちの心が、神が私たちに約束してくださった、目に見えない、栄光に満ちた未来の現実を受け入れようと手を伸ばすとき、希望はそのまま信仰に溶け込みます。信仰が神とその御子イエス・キリストの人格と品性に確信と信頼を置くように、希望はその信頼を永遠へと、来たるべきいのちの驚くべき約束へと集中させるのです。希望は地上の悲しみのベールをレーザーのように切り裂き、完全な体を持って、すべての聖徒と共に永遠に主の御前にいるようになるという言い表しがたい喜びに焦点を合わせます。 希望とは、永遠を見通す私たちの「信仰の視力」の一部であり、目に見えない不思議の現実を確証するものです(ローマ8章23-25節)。 私たちの希望は空虚な夢ではなく、目には見えない現実であり、それによって私たちはこの世を去り、主の御前で永遠に私たちのものとなる永遠のいのちの新しいからだを身につけることを切望し(第二コリント5章1-9節)、この世のはかない宝に目を向けるのではなく、モーセのように、神が私たちに与えてくださる報いに目を向けるのです(ヘブル11章26節)。 私たちのこの希望、すなわち、神がこれらのすばらしい約束をすべて実現してくださるという確信は、私たちの思いを、主がすでに万物を準備するために私たちよりも先に行っておられる天に固定するのです(ヘブル6章18-20節)。
– 愛は、成熟への歩みの中で、この希望の上に築かれます(コロサイ1章4-5節)。 神への完全で完璧な信頼があり、私たちの目が真実で永遠の現実にしっかりと据えられていれば、私たちは自分の内にあるすべてをもって主に感謝し、主を愛し、その愛を他の人にも反映させる用意ができているのです(マタイ5章14-16節)。愛は神から始まらなければなりません(第一ヨハネ4章19節)。神は愛であり、神がそれを与えてくださったからこそ、私たちは愛することができるのです(第一ヨハネ4章7-8節)。私たちに対する神の愛の中心は、私たちの身代わりとなって死んでくださった御子イエス・キリストという賜物です(ヨハネ3章16節)。私たちがまだ敵であった時に、私たちを死の力から救い出してくださった方を、どうして愛さないことができましょう(ローマ5章8節)。その結果、私たちは、イエス・キリストの愛に満ちた犠牲によって、神が私たちに与えてくださった救いに感謝と喜びを感じるのです(ヨハネ15章13節)。イエス・キリストを信じる者としての私たちの究極の戒めは、神が私たちに注いでくださった、同じ不思議な愛を仲間の信者に示すことによって反映させることです(ヨハネ15章12節)。愛は徳の中で最も偉大なものであり(第一コリント13章13節)、他のすべての徳をまとめ、キリストが私たちに歩ませようとされたとおりに私たちが歩んでいることを保証する成熟の「接着剤」です(コロサイ3章12-14節)。
信仰は神の信頼性に焦点を当てます。信仰において私たちが神に従うのは、神を信頼するからです。
希望は、神が私たちに約束してくださったことに焦点を当てます。この人生を喜んで耐えるのは、永遠にもっと良い物が約束されているからです。
愛とは、神がイエス・キリストにおいて私たちのためにしてくださったことに感謝し、その感謝を他の人々に反映させることです。主と主の教会に愛をもって仕えるのは主がまず最初に私達を愛してくださったからです。
これらの三つの徳は、私たちの思いから決して離れてはならないものです。この三つの徳があれば、私たちの心はこの世の厳しい表面を剥ぎ取り、神のご性質、神のゆるぎない約束、神のはかりがたい愛という、目に見えない大切な現実をはっきりと見ることができます。信仰、希望、愛は、私たちが常に思いを向ける「経路」であるべきです。これらは、私たちがクリスチャンの歩みを絶えず評価するための試金石なのです。
4. 適用分野: 救いに至るまっすぐで狭い道(マタイ7章14節)を進もうとするとき、神のみことばは、私たちが道を踏み外さないようにするための道しるべを与えてくれます。例えば、「盗んではならない」(出エジプト20章15節)などです。また、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)などです。しかし、私たちに与えられている指標は他にもたくさんあります。聖書が私たちの行いを律するために与えている、否定の「適用分野」と肯定の「適用分野」の例をいくつか挙げてみましょう:
(+)私たちは喜べと言われています(ピリピ4章4節)。(-)私たちは不平を言うなと言われています(ピリピ2章14節)。
(+)私たちは憐れみ深くあれと言われています(ヤコブ2章13節)。(-)私たちは裁くなと言われています(マタイ7章1-2節)。
(+)寛容であれと言われています(ピリピ4章5節)。(-)怒りを抑えなさいと言われています(エペソ4章26節)。
このような肯定、および否定の道しるべは聖書のいたるところにあります。私たちには、クリスチャンとしての歩みを照らし合わせるための多くの目録さえ与えられています。たとえば、ヤコブは、上から来る知恵について述べる中で、「清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない」(ヤコブ3章17節)という、徳のある生活の肯定の特徴をいくつか示しています。一方、パウロは、終末の日の人間の性格について述べる中で、避けるべき悪徳の数々を挙げています: 「自分を愛する者<うぬぼれている者-別訳>、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者」(第二テモテ3章2-5節)。私たちは、良いこと悪いことに関して、これらの特質を試して、良いところは見習い、悪いところは避けるよう努力すべきでしょう。
聖書のほぼすべてのページにこのような道しるべが記されており、謙虚に考えれば、クリスチャンとしての歩みを方向づけ、形成し、神が私たちに望んでおられる高潔なライフスタイルを身につけるようになります。このような明確な詳細は重要です。というのも、上記のリストを注意深く考察すればわかるように、「愛しなさい」「罪を犯してはならない」という包括的ないましめは、<聞いてわかっているようであっても>私たちは自分たちが実際よりも良いことをしているという誤った思い込みに陥りやすいものです。このような聖句を読むときはいつも、その意味するところをよく考え、自分の生活がそのような行動で特徴付けられているかどうかを自問する習慣をつけるべきです。
例えば、テトス2章12節でパウロが、私たちは分別と義と敬虔を特徴とする人生を送るべきだと語っているとき、私たちは、これらの特徴が本当は何であるかを考えるべきです:
– 慎み深さ:罪深い行動や霊的に危険な行動に対する賢明な注意。
– 正しさ:正直で、まっすぐで、公正な行動。
– 敬虔さ(信心):非難されることのない方法で自分の霊的義務を果たすこと。
このように、私たちは自分の行動を吟味し、神の御言葉の基準に従って微調整するために、このような機会を最大限に活用しなければなりません。
5. 反応的適用: あらゆる機会に徳の原則に積極的に生きることが理想です。しかし、日常生活が、しばしば猛烈なペースで私たちの心をかき乱す傾向があることを考えると、徳の原則は、霊的なあやまちをしたときの有効な反応でもあり、適切な霊的行動に方向転換するのに役立つことを覚えておくとよいでしょう。
あらゆる種類の罪は霊的な後退であり、一見「些細な」態度の誤りであっても、(神への個人的な祈りのうちに:第一ヨハネ1章9節)告白が必要です。とはいえ、このような過ちは、私たちの考えを徳(特に、私たちが陥ってしまった罪とは正反対の徳)に向け直す機会にもなります。
そのような事態の起こる前(予防策として)と起こった後(修復策として)の両方で、私たちの霊的な状態を監視することに最も直接的に関係している、私たち人間に埋め込まれている一つのものは、良心です。「良心」とは、どのような状況においても、何が正しくて何が間違っているのかを心に促し、思い起させてくれるものです。未信者も生まれながらにして善悪の感覚を持っていますが(ローマ2章15節)、クリスチャンである私たちは日々、良心を形成し、矯正し、磨いています(第一コリント8章7-12節, 10章25-29節)。
また、私たちは幸いなことに、良心を助けてくれる助け手を聖霊のうちに持っています。実際、私たちは聖霊の働きに抵抗しないように(つまり御霊の働きを阻害してしまわないように)特別に指示されています(エペソ4章30節; 第一テサロニケ5章19節)。
ですから、私たちの生活の中で否定的なことに気づいたら、単にその否定的なことを拒絶するだけでなく、積極的に肯定的な方向に思考を戻す機会を活用することが大切です。結局のところ、「良心」は、私たちが生み出すように命じられている「純粋な心からの愛」と「偽りのない信仰」の一部であり、またそれらを含んでいるものなのですから(第一テモテ1章5節)。
6. 重圧の中での徳: 苦しみは徳を伸ばす最大のものです(ローマ5章3-5節; ヤコブ1章2-4節; 第一ペテロ1章6-7節)。クリスチャンとして成功するためには、私たちは苦難や逆境を、「苦難を誇りとし」、「それをすべて喜びとし」、この「信仰の試練は純金よりも価値がある」と認識するという、世間一般の考え方とはまったく異なる方向からとらえることを学ばなければなりません。実際、私たちは、何不自由ない贅沢で平穏で豊かな生活に召されているわけではありません。むしろ、成長すればするほど、神によって試され、磨かれることが予想されます。主が私たちに言われたように、「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさる」(ヨハネ15章2節)のです。
クリスチャン生活に行動の空白期はありえません:霊的な安全は霊的な勢いと密接に関係しているのです(ピリピ2章12節; 第二ペテロ1章10節; 第一ヨハネ2章24節, 第二ヨハネ1章8節)。 また、単に歳を重ねていることと霊的成長はイコールではありません(ヘブル5章12節)。(使徒パウロの極度のプレッシャーにさらされた人生が示しているように: 第一コリント4章9-13節; 第二コリント6章1-13節, 11章16-33節)成長には試練が伴うものであり、成長すればするほど試練も多くなるのです。このことは、真理を学べば学ぶほど、その情報を自分の人生に適用する責任が重くなる(ヤコブ4章17節)ことを考えれば納得できます。真理の本質的な原則を学ぶことを肉体的な栄養補給に例えるなら、御言葉を適用すること(真理の原則を日常生活、特に試練の時に実行に移すこと)を肉体的な運動に例えることで、話を進めると、重りを持ち上げれば筋肉に負荷がかかり、適切な栄養補給と相まって筋肉が成長するように、神は試練(困難な選択、苦しみ、喪失、祈りの答えの遅れなど)という形で霊的な重りを私たちに与え、私たちを鍛えられます。これらの重りを根気よく持ち上げるなら、私たちの信仰に筋肉がつき、霊的成長の分野で前進することができます(第一テモテ4章7-8節)。
クリスチャン、特に真摯に前進しようとしているクリスチャンにとって、厳しい試練、深刻なプレッシャーが信仰にかかってくるほど困難な試練に直面するのは、普通のことです。アブラハムの例を取り上げてみましょう。アブラハムは、自分が深く望んでいた世継ぎを得るために、最初は神を信頼するのに苦労しましたが、最後には、神がすべてを良い方向へ導いてくださるという信仰を持っていたので、神の命令でその世継ぎを生け贄に捧げることを厭いませんでした。また、長い間多くのことに耐えてきたヨブの例を挙げてみると、彼はついに忍耐を切らしてしまいましたが、神に叱責され、神の力と目的について自分は相対的に無知であることを思い知らされました。 なぜかはわからなくても良い理由をもって、神様は私達に苦しむことを許されており、神の<良しとされる>時と方法で解決してくださることを信頼するべきです。悲しみ、失望、挫折、喪失、挫折のどん底にあるとき、私たちは、もうやっていけないと感じるかもしれませんが、神が私たちを助けてくださり、私たちの益のためにすべてを成し遂げてくださることを信じなければなりません(ローマ8章28節)。
結局のところ、苦しみとは、神に対する私たちの信仰、神の救いに対する私たちの確信に満ちた希望、そして状況にもかかわらず神に対する私たちの愛の究極のテストなのです。この涙と苦難の人生を歩むとき、私たちは主が悲しみを乗り越えて私たちを導いてくださると信じることができるでしょうか。その瞬間の心の痛みを超えて、その先にある輝かしい未来を見ることができるでしょうか。痛くても主を愛することができるでしょうか。主の御手を取り、すべての痛みには目的があり、私たちにこの現在の苦しみとは比べものにならない永遠の「栄光の重み」(第二コリント4章17節)を生み出すと信じることができるでしょうか。多くのクリスチャンは、順境の時には「信仰を持ち」、神に望みを置き、神を愛することができますが、人生の嵐が私たちに激しい打撃を与えたときには、神への揺るぎない信頼、永遠という神の約束への希望、神と神への愛を持つことは難しくなります。しかし、このような時こそ、私たちの霊的な品性が真に試され、私たちのクリスチャンとしての徳がどれほど深いものであるかを知る時なのです。
7. 祈り: 神との絶え間ない対話である祈り(第一テサロニケ5章17節)は、徳を人生に生かすための重要な要素です。ピリピ4章6-8節でパウロは、もし私たちが心配するのをやめて、祈りの中で神様に心配事を打ち明けるなら、神様の平安、つまり人間のあらゆる不安を静めるのに十分な力強い平安が私たちを守り、私たちの感情や思いそのものを守ってくださると教えています。祈りによって得られる神の平安の中で、私たちの神への信頼、神への愛、神の約束の成就への希望は、一つの慰めとなり、私たちがまず神の御国を求めるなら、地上の心配事はすべて解決されると、神にあって確信することができるのです(マタイ6章25-33節)。祈り、特に一貫した持続的な祈りは、クリスチャンの美徳を実践するために必要な習慣です。祈りは、私たちの思考を神に向け、神の力と私たちの問題に対する神の解決策に向け直す第一の方法であるべきです。祈るとき、私たちは神と神の助けが必要であることを思い起こし、それによって私たちの思いを神の思いと一致させるのです。
8. 黙想: 詩篇1篇によると、「幸いな人」は主の教えを喜び、その教えについて「昼も夜も黙想する」(2節)のです。 聖句の一片一片、聖書の教えのかけら一つひとつが(多くの場合、すぐにはわからない形で)、日を追うごとに包括的な理解と成熟した視点を形成する助けとなるのです。私たちは、起きているすべての時間を、主と主の教えを学ぶために費やすことはできませんが、一日の中で考える時間はしばしばあります。その合間に、私たちは何に思いを巡らせているのでしょうか。悩みや問題に集中するのでしょうか。むしろこのような機会を利用して、私たちにとって尊い真理を呼び起こし、精神をリフレッシュすべきではないでしょうか。
私たちの肉体が機能するために絶え間ない血液の流れを必要とするように、私たちの精神も絶え間ない真理の流れによって養われるべきなのです。 例えば、徳の基本原則、神への愛と感謝の視点、神の約束への信仰、永遠の報いへの希望に焦点を当てることは、このプロセスを開始する良い方法であり、私たちの心に蓄えられている真理という素晴らしい「霊的資本」を引き出す良い方法です。私たちの主が住まわれる「上にあるものを求めなさい」(コロサイ3章1-2節)という命令を果たすことができるように、真理を私たちの思いの中で何度でも「巡らせ」続けましょう。
結論: クリスチャンの主要な徳(日々の歩みの重要な側面に関連する教え)に思いを集中する習慣をつけることは、神のご計画と目的の中での自分の位置を意識し続けるための貴重なテクニックであり、霊的成長の不可欠な部分です。私たちの人生に対する神のみこころを知り、実行することが美徳思考の目的であり(コロサイ1章9-10節; ローマ12章2節)、私たちの行動を特徴づけるべき徳を黙想するとき、私たちは自分のクリスチャンとしての歩みを評価し、御こころにもっと沿うよう動機づけられずにはいられません(エペソ5章18節)。
神への信頼、神が私たちに抱いておられる愛(私たちはそれを反映すべきです)、そして神と共にある祝福された永遠という素晴らしい希望にますます一貫して焦点を合わせるようになると、人生の欲望、心配、試練に対する解毒剤であるだけでなく、神の力と神御身に信仰、希望、愛を置いているクリスチャンだけが近づくことのできる満足感に与ります(第二コリント9章8節; ピリピ4章10-14節; 第一テモテ6章8-10節; ヘブル13章5-6節):
– 私たちが自分たちの全ての困難を通過するのを神が助けてくださると信頼するとき、信仰に焦点を合わせます: 私たちは神が手をとって私たちを導かれるのに任せます; どこに連れていかれるのかわからなくとも、私たちには恐れはありません。なぜなら神が私たちのために最善をしてくださるという信仰があるからです(詩篇23篇; ローマ8章28節)。
-私たちが主の愛から離れ去ることのないように、私たちのために代価を支払われた神を知ることができるように、神は御子を犠牲にされるほど(ヨハネ3章16節)、私たちのことを思っておられることを私たちが思い出すとき、私たちは愛に焦点を合わせます(ローマ8章31-39節)。そうした愛を確信しているので、私たちは主の栄光のために私たちの同朋に対してその愛を映し出すのです。
– ここでの私たちの人生は一過性のものですが、神の御前には栄光と幸福に満たされ、苦しみのない永遠があり、新しいエルサレムに素晴らしい新しい体と私たちだけの場所があるということを思い出すとき、私たちは希望に焦点を当てます。
クリスチャンの美徳は、成熟のための学びであるだけでなく、生きなければならない真理の原則であり、それゆえに私たちが毎日考えるべき重要な真理なのです。私たちが最終的にその上に心を休めるとき、クリスチャンとして本当に重要な事柄に向かわせてくれます。
[ペテロの手紙シリーズ#18:生産と永遠の報酬 に続く]